平和日本は、徳川が作った | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

 

磯田史観は、わかりやすい。

「歴史を知れば今がわかる」というが、磯田さんの史観には、それがある。

落とした財布が世界で一番もどってくる日本。

自動販売機が盗まれない日本。

道徳感が高い日本人は、明らかに「徳川の平和」の中で出来あがったと

磯田さんは断言する。
なぜこの国の素地は江戸時代に出来上がったのか。

4つのターニングポイントを挙げながら読み解いていく。
ひとつは、1637年の島原の乱。

島原の乱によって武力で抑えるだけが政治ではないという

「愛民思想」が芽生え、武家政治が大転換された。
ふたつめは、1707年の宝永地震。

新田開発のために環境破壊が進み、結局は自然からしっぺ返しを受けることを学んだ。

その教訓から、豊かな成熟した農村社会へと転換していった。
3つめは、1783年の天明の飢饉。

天候不順が続き、各地で凶作が続くと、商業に興味が向き、

農村を捨てて都市へ流れ込む人口が急増。

その結果、農村は荒廃し深刻な事態を招いた。

そこで人民を救うという思想に基づいた行政が生まれていった。

陸奥国の代官で、人口増加対策として「小児養育金制度」を設け、

子どもが生まれた家に養育費1~2両を支給した人がいた。

悪代官を時代劇の世界だけのようで、善政を敷き、

生前から神として祀られた代官は、江戸時代に43人もいたそうだ。

政治や税制の目的は、長い目でみた国民福祉の実現にあるはずという意見は、

現代の政治家に聞かせたい。
最後は、1806年~1807年、11代将軍家斉の時代に起こった露寇事件。

ロシア軍艦が突如、樺太南部の松前藩の施設を襲撃した。

翌年4月にもロシア軍艦二隻が択捉島に出現し、幕府の警備施設を襲撃した。

二度にわたるロシアの襲撃事件は、幕府に大きな衝撃を与え、

結果的に開国か鎖国下の議論を活発化させ、国防体制を強化させていった。

時の松前奉行が老中に「民命」を尊重すべきと具申している。

この事件をきっかけに「民の生命と財産を維持する」という価値観と

「民を守る」という政治意識が確立された。

 

二百六十年に及ぶ江戸幕府の根幹を支えたのは、江戸人のメンタリティ。

戦乱の殺伐とした世を終わらせたのも、

経済効率に突き動かされた乱開発と環境破壊を見なおしたのも、

民政重視の政治にシフトして自然災害を乗り越えたのも。

対外的危機で「民命」を守るという価値観を再認識したのも、

徳川の平和は、「生命の尊重」という価値観によって醸成されたものだ。

 

渡辺崋山曰く「眼前ノ繰廻シニ百年ノ計ヲ忘スル勿レ」。

百年先のことを考えず、目先のことだけに囚われていてはならない。

これも、幾多の危機を乗り越えてきた江戸時代からの教訓だ。