語感 | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

毎日新聞の連載『しあわせのトンボ』。客員編集委員の近藤勝重さんの健筆に賛辞を送りながら読んでいる。先日の記事に共感したので、かいつまんで紹介する。

四季の移ろいが、趣や美とともに、どれほど多くの言葉をもたらしてくれたことか。小林秀雄氏がこんなことを言っている。 「人間の力でどうしようもない自然の美しさがなければ、どうして自然を模倣する芸術の美しさがありましょうか。言葉もまた紅葉の葉の様に自ら色づくものであります」(新潮社編「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」)

「冬めく」という言葉には枯れ葉の鳴る音や、道行く人の服装、動作などを思い浮かべ、冬らしい感を抱く。小春とか、冬うららといった言葉もぼくは好きで、存外の日差しのぬくもりに心もほぐされる感じがいい。

さて、年の内のコラムで言葉への思い入れを書き表したくなったのには理由がある。ことしは、いやそれ以前からであろうが、とにかく耳にしたくないような言葉が、公人、政治家の口から次々と飛び出してきた。いちいち挙げるのも気がめいる。一つだけなら沖縄の米軍施設工事に反対する人たちに「ぼけ、土人が」と言い放った警官の言葉もひどいが、それをかばうかのような政府見解には、えっと言葉を失った。

言葉には意味以外に語感がある。日本語にはそこに微妙な味わいがあるもので、丸谷才一氏は語感の問題を抜きに言葉を論じる言語感覚を問題視していた。井上ひさし氏も日常の言葉の語感がどうも乏しく、ぎすぎすしがちなのを嘆いていた。

歳時記を開いて改めて感じるのは、自然の恵みと共存する人の情けだ。その言葉から受ける感じやニュアンスを配慮しない言語感覚は、何よりも情けを欠くだろう。ネットでネガティブな言葉がひゅんひゅん飛び交っている。語感はもっと大切に考えられていい問題ではなかろうか。

ここからは、ムラカミの文章。きょうも新幹線車中で、2時間甲高い声で話し続ける子がいた。2歳くらいの女の子。大人にはたわいもないことだが、彼女にとっては大切なこと。心に思い浮かんだことすべてを言語化している感じ。だが、両親は携帯電話の画面や車窓の風景を見るともなく見て、子どもに取り合わない。時たま「静かに!」と注意するだけだ。会話をしていれば、ここまで立て板に水にはならないだろう。女の子の発することばは、むなしく水泡のように消えていく。ことばを掬いとらねば、語感は育たない。子だけでなく親の語感も育たない。長田弘さんの詩にあるように、掬って掬ってことばの一番出汁をとれば、それは忘れがたい味の語感になることだろう。