賢治生誕120年 | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

今年は、宮澤賢治生誕120年にあたる。賢治は、明治三陸地震の2ケ月後に生まれ、死の半年前には、昭和三陸地震に遭遇している。自然への畏敬、命への儚い思いは、こうした体験から来ているのかもしれない。


先日、賢治の弟・清六さんの孫にあたる宮澤和樹さんの講演を聞いてきた。和樹さんは、花巻市で「林風舎」を運営している。賢治にまつわるグッズを販売し、喫茶室では、時折、賢治にまつわるイベントも開催する。賢治を語る講演活動には、時に妻(書家、学校教師、朗読も)や娘(ヴァイオリニスト)も参加する。

祖父の清六さんは、2001年6月12日 97歳で死去した。清六さんは、賢治から託された原稿の保存整理出版に尽力した。花巻空襲(20.8.10)で自宅は焼失したが、遺稿は守り抜いた。1981年、遺稿を花巻市に寄贈し、宮澤賢治記念館に収蔵されている。

(敬愛するベートベンを気取った写真)


(宮澤和樹さん)


宮沢賢治は「本当の幸せ」とは何かを生涯を通して考え続けた人だ。『銀河鉄道の夜』の中には「さいはひ(幸い)」という言葉が何度も出てくる。賢治の思想の根幹には、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という考え方があった。みんなが幸せになることが自分の幸せ。でも、その幸せに至るためには、いろいろな悲しみも含めて、あらゆる経験と感情を心に積み重ねなければならない。よいことだけを求めるのが幸せではないと賢治は考えた。
 いまの世の中は、ひたすら快適な状態だけを維持しようとする価値観が主流だが、賢治の時代は違った。東北は自然災害や凶作の多い厳しい土地で、数多くの悲しみが周囲にあふれていた。その中で本当の幸せを考え続けた賢治が辿り着いた、結晶のような言葉が『銀河鉄道の夜』の中にはたくさん詰まっている。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまはない」という言葉も有名。こうした言葉には、自分よりもまわりの人々の幸福のために生きた宮沢賢治の本質がよく表れている。

「アメニモマケズ」は、賢治の死後、愛用していたトランクの蓋の裏から発見された手帳に書かれてあった。賢治は世に出そうと考えて書いたものではなく、死と向き合いながら、自分の覚悟や願いを手帳に書きつけたものだったと想像される。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンヂャウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ「デクノボー」ではなく、「よく見聞きし、わかり、忘れない」聡明さを持っている。賢治は、自分をどうアピールするかには無関心でも、聡明にものごとを理解し、判断できる人間でありたいと思っていたのだろう。

「あらゆることを自分を勘定に入れずに」というのも大事なことだ。自分の利益という意識が入ってくると、人間の目は必ず曇る。そして、個々の利益が絡み合い、正しい判断が下せなくなる。それでは賢治のいう「本当の幸福」にはけっして行き着くことができない。いま世の中では総論賛成、各論反対という問題がとても多い。

「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」座して待つのではなく、自分が相手のもとに出向いて働くことを大切に思っていた。「自らが行動して苦労を共にする心」を持ち、それぞれが考え、歩みを進める世界がイーハトーブなのだ。

そんな聞きかじりの賢治論も語った。「アメニモマケズ」の朗読もした。和樹さんに電話インタビューもした。明日の文化放送『日曜はがんばらない』は「賢治さん」の特集だ。