板画家、棟方志功のことが大好きだ。
木屑が飛ぶのをもろともせず、顔をこすりつけるようにしながら、
板木に向かうひたむきな姿に、ぐいぐい惹きつけられる。
作品が出来あがったときに見せる天真爛漫な表情も魅力的だ。
「愛しても愛しきれない。驚いても驚ききれない。喜んでも喜びきれない。
悲しんでも悲しみきれない。それが板画です」
そんな尽きせぬ想いを一心不乱になって板木にぶつけていたのだ。
そんな志功が、意外なことを言っている。
「私は自分の仕事に責任を持っていません」。
このことばの意味を、民藝運動の創始者の柳宗悦が解説している。
「なにも、これは無責任でもかまわないと言っているのではない。
人間が自分で責任をとれるような仕事は底がしれている。
せいぜい、道徳的な世界にとどまっていて、
それが最後の境地だなどとは言えないのではないか。
仮に神や仏が責任を持ってくれる仕事をしたらどうだ。
この方がはるかに大きく、一段と深い境地ではないか。
だから、責任を持たぬ仕事ほど実は素晴らしいのではないか。
という逆説的な解釈を下していた。
神や仏が責任を持ってこそ、
人間の自分が間違えてこそ、本物の板画が出来るのである」
すごい境地だ。
神のおもむくままに、手を動かす。
神が志功の手に宿り、志功は、抗うことなく、彫刻刀を動かした。
愛しきる、驚ききる、喜びきる、悲しみきるなんてことは、どだい無理なこと。 大いなる力に身を委ね、自らの意志を持たず、無我の境地で版木に向かった。
だから、あんなに楽しそうだったのかもしれない。
勝手に手が動いた。
勝手にことばが出てきた。
そんな経験をしたことは、誰にもあるはずだ。
「責任感」などという得体の知れないものに縛られず、
「神や仏」という得体のないものに任せてしまえばいいのだ。
だが、誰もがその境地に達することが出来るというものでもない。