信州上田で行われた合唱組曲「無言館」コンサート、
800人入る会場は、立ち見も出る大盛況。
絵筆を銃に代え戦場に散った画学生たちに想いを馳せた。
無言館の窪島誠一郎館主は、熱弁をふるう人ではない。
大柄な身体を小さくして、出来れば消え入りたいと願うような人である。
だが、全国の画学生たちの遺族を訪ね歩き、遺作を預かり、
17年前に「無言館」を開いた熱意の持ち主でもある。
自分の性格に似合わないことをしたのは、使命感にかられたということだろう。
窪島さんは、無言館は青春美術館だという。
単なる戦争回顧の施設ではない。
出征間際まで好きな絵を描いていた
幸せな若者たちの青春の時間と向き合う場所だと考えている。
だから画学生たちの未完成の絵は、
生きる希望を持てない若者たちに生きる力をくれるのだ。
無言の自問自答をしながら、自分の生き方を見つける場所なのだ。
もう一つ、窪島さんの言う大切なことがある。ボクも同じことを思う。
「熱狂」に沸く時代だからこそ、「静寂」が必要なのだ。
想いを巡らせる時間が必要なのだ。
無言館の空間に入った瞬間、静謐な時間の中に身を置き、
おのずと無言になり、想いを巡らせることが出来る。
そして、何かに「祈り」をささげたくなる。
死んだ彼らへの「祈り」ではない。
生きている我々にささげる「祈り」だと窪島さんは言う。
窪島さんとの40分の対談は、時間は短かったが、示唆に富む内容だった。
昨日の無言館での「祈り」の時間、両親への想いを巡らせる時間、
窪島さんとの中身の濃い対談の時間を経て、合唱の合間に朗読をした。
想いを込め過ぎず、さりとて淡々とではなく、難しい朗読ではあるが、
いまのボクに出来る精一杯の朗読をした。
危うい空気が蔓延する今、
二度と戦禍に見舞われないよう、一人一人が出来ることをしていくしかない。
歌ったり、語ったり、書いたり、それぞれの表現手段で
画学生の未完の想いのバトンを次世代に渡していくしかない。