新型コロナウィルス感染拡大に伴う生活改革が始まり、3ヶ月以上経った。自宅にいる時間が長くなり、いくつかの変化が起きている。まず、常に満杯だった冷蔵庫にすき間がみられるようになった。多分、まとめ買い、というよりは単に買い出し頻度を下げただけだろうと思われるが、昨日も買い物に行く直前はほとんどがら空きだった。
これまでは、「あ、これ、そろそろ食べなあかん」とか、「うゎっ、これ、賞味期限2か月過ぎてるけど食べれる(カミさんは堂々たる『ら抜き』である)?」とか叫んでいたカミさんだが、最近は静かになった。迷うことなく食材をチョイスしている。選択肢があまりに乏しいから迷いがないのだ。まあ、いい傾向ではなかろうか。これも、自宅が駅前で、歩行可能な行動範囲に食料品スーパーが6軒という立地があるからできることかもしれない。
カミさんは結構買いだめをするほうで、ティッシュペーパーやトイレットペーパーは普段でもたっぷりあり、老夫婦の生活では1年ぐらいもつのではないかと思えるほどだ。だから、今回の主婦(と主婦的な旦那)のトイレットペーパー買いだめ騒動でも我が家は慌てなかった。
ただ、マスクに関しては私と考え方が違っていた。昨年に費用対効果の良いマスクと巡り合ったので私がいくつか買い置きをしようとしたがカミさんに撥ねられた。今回、そのためにカミさんは自分の過ちをリカバーしようと、ネットでかなり高いマスクを買い込んでいた。
3日前、通院の間の時間待ちでミナミを少し歩いたら、あちらこちらの店頭でマスクが山積みされていた。その価格はカミさんがネットで買っていた価格の四分の一で、50枚2,000円を切っていた。品質はわからないが、置かれている店舗から察するにおそらく中国製だろう。
カミさんが買ったマスクも品質いまいちの中国製だ。それを彼女は何箱も購入していたから、実に愚かしい。先月の通院日、私がカミさんにミナミではマスクが値下がりの兆候だと教えたら、苦い顔をしていた。だから、今回の最新情報は伝えなかった。
主婦たちからの反論を恐れずに書くが、愚かしい情報に振り回されて衝動的に買い占めに走るのは大抵女性だ。それも、暮らしに少し余裕のある(と勘違いしている?)連中で、豊かな人や逆に余裕のない人はそういう愚かな買い占め狂騒劇には加わらない。ともかく、風評やモノ不足など、世の中で起きるばかばかしい購買現象はほとんど女性が担っていると言える。
うちのカミさんもやや付和雷同型かもしれない。しっかりしているようで、情報を鵜呑みにして短絡的に動き出したりする。今回も、マスク以外には消毒薬、手洗い洗剤など、薬局の棚で無くなっているものがあると焦っていろいろな店を探してしまうようだ。それらはまだ家にいくらかあり、当面は大丈夫だと思うのだが、それでもなくなると困るからと・・・。そういうところが私の目には可愛く見えるから困ったものだ。
3割出勤体制になり、私が在宅勤務で自宅に長く滞在するようになったせいで、我が家の光熱水道費が昨年より3割強も上がっている。空調を使わず、一年で最も光熱費が下がるこの時期、数字に疎いカミさんでさえすぐに気づくほど、電気代、ガス代、水道代が膨らんでいるのだ。ごみ置き場に置かれた各戸のごみ袋も大きくなっている。
そんな中で、私はたまの出勤と通院以外にはほとんど外出もせず、自宅に籠りきりとなっている。おそらくカミさんはかなりのストレスを感じていることだろう。気を遣ってはいるが、どうしても折り合いの悪くなる瞬間がある。そんな時は、寝ることにしている。そう、カミさんの近くで、転寝する。カミさんの近くだと安心するのか、気持ちが落ち着き、よく眠れる。夜更かしによる睡眠不足を解消している。まさに食っちゃあ寝、食っちゃあ寝の毎日だ。今回のほうが正月よりもタガの緩みは大きい。
この間、運動はほとんどしていない。ただでさえ、薬の後遺症で手足の具合が悪く、歩行距離もかなり制限しなければならない身上で、一日中ほとんど動かないから、下半身の衰えはひどいものだと思う。なのに、カミさんの作る食事が美味しいので、ついつい食べ過ぎてしまう。まさに、生活習慣病。先々に苦しむことをわかっていながら打つ手がなく、脆弱指向へと突き進んでいる。これまた、困ったものだ。
しかし、身体で明るいニュースがある。体重が少しずつ減っているのだ。つい先月までBMIが25を超え、肥満域に突入していたのだが、昨夜、入浴後に量ると24.5であった。喜んで、今朝、カミさんにそれを告げると、
「アホやね。こんな生活状態で体重が減るのは、どこか悪いんや。早よ医者行き!」
私は凍り付いた。
検査を終え、診察の時刻までに、抜いてきた朝食を服薬のために食べた。メニューは毎朝自宅で食べているものとほぼ同じだ。税込みでワンコイン。手軽だ。
病院内は普段に近い人の動きで、待ち合いロビーやカフェなどでは席を一つおきに使わせて、距離の保持に気を配っている。手指の消毒、マスク着用は必然で、緊張感を持って???、いや、緊急事態宣言が出された直後の先月とはまるで違う。空気が張り詰められていない。かなり、リラックスしているように見える。
人が持つ順応性が長期戦に備えて意識を変化させているように思える。ウィルスどの共存を覚悟したようにも受け取れる。
たが、気持ちが緩み始めているのは確かだ。他人事にしたいという心情の表れか。自分は大丈夫だと開き直りかもしれない。
規制解除はじれったいほどの低速でされなければならない。しかし、それは難しいだろう。疲弊感が一気に解放されることを促している。緩みはかなり早い速度で進んでいる。怖い。
一見、管理基準が厳しく思える病院でも、ウィルスが闊歩できる空間がたくさんある。いや、むしろるつぼ状態かもしれない。
いつも思うことだが、病院は高齢者の吹きだまりだ。ひとたび感染が蔓延すると重篤な罹患者が続出して、クラスターを招く。緊張を緩めてはいけない。
持続可能な緊張感とはどのように生み出し、徹底させられるのか、医療関係者のみならず、すべての人が自身のこととして、真剣に考えなければいけない。
通院は、生命を維持するために欠かせないアクションだけに、みんなでそのリスクの低減を意識しなければならないと思う。
3割出勤体制での在宅勤務も今日で10日目。いまだに慣れない。職場への定時連絡はあるが、それさえすればあとは寝ていてもまあバレない。そういう人もいるかもしれない。いや、いないか。
時間の管理が難しいのだ。起床時刻は出勤日よりも1時間遅く設定できる。身だしなみを整える必要もなければ、通勤時間もないからだ。ゆえに、夜更かしが更にひどくなる。睡眠不足は昼食後に20分ほどと、終業後に夕食までの1時間ほど転寝すれば殆ど解消される。
これまでで言えることは、私の場合、業務をこなす集中力はかなりすごいと思う。電話もほとんどかかってこないし、カミさんも気遣って邪魔をしないように声をかけないから、仕事がどんどんはかどる。通常ならば3~4時間かかる資料整理も2時間足らずでできてしまう。
手前みそだが、元々私の処理能力はかなりのものだから、邪魔が入らなければ普段の2倍くらいはこなせると思う。だが、それを声に出すわけにはいかない。これを良しとして、今後も在宅勤務を強いられたら辛い。やはり職場に出るほうが身体に良い。
この歳で働いているのは、身体に良いからだ。薬の副作用に身体がボロボロになっていた当時の苦しみが、仕事に就いてから見る見る改善され、今のように健常人とほとんど同じ生活を送れるようになれた。だから、インカムよりも職場を重視している。
今の職場は本当に楽しい。時間外勤務が認められていない私が9時始まりなのに7時過ぎに出勤しているのは、そこでの仕事が好きだからだ。家にいると折角よくなっている体調が崩れるかもしれない。新型コロナウィルスによる感染よりも、それが怖い。
このひと月あまり、今のところはLINEやメールで連絡を取り合っているので、ZOOMを使ったシステム会議などは行われていないが、来週以降も出勤制限が続くようならば、情報の共有化、確認の徹底など、コンセンサス形成にそういう通信会議が行われるかもしれない。ま、私の場合は業務の内容から頻繁に出席を求められることはないと思うが・・・。
仮に出席を求められたとしてもスケジュールをそこに合わせていけば難なくこなせるだろう。管理する側も相当にエネルギーが必要だから、防犯カメラのような終日監視体制は絶対に行われないと思う。だからと言って怠けることは許されず、目標管理など、かなり細かいチェックは今もある。自己管理がかなり求められ、挽回が難しい職場といえなくもない。だから、私が知る限り、職員は皆、まじめだと思う。
ただ、今でもモチベーションの維持はかなり難しい。ましてや、判断の温度差は拡大方向に進むだろう。だから、定期的な全員出勤は必要だと思う。職場で最も必要な要素は、各自のスタンス確認と能力総量のバランスだ。顔を合わせて初めてできることだ。
しかし、感染禍が収まり、通常の状態に戻っても、働き方は確実に変えられるだろう。時差出勤、通信会議、遠隔管理など、自己管理をベースとした多様な働き方が求められるのは間違いない。バックボーンの脆弱な者は脱落し易くなるだろう。評価への失意の深さも増すかもしれない。相互信頼の名の下、一見楽そうで、フリーランスが多くなるように思えるが、その分、各自が背負うものは多くなる。
そうなれば、私のようなムラっ気な者はだめだろうな。職人のように自宅で働けるほど意志は強くない。仕事を辞めて、朝から晩まで自堕落に過ごし、早逝するかも知れない。いやだ、いやだ。
検察庁法改正法案の主旨は首相と法相が認めた検察官は定年延長させてもらえるということか。
それじゃあ、放送局の免許更新が総務省管轄なのと同じになるということやね。
権力に不都合な立件も、報道もない、ということになる。
偽証訴追を恐れる姿勢の表れやろうね。
あまりに露骨やね。
大切なのは、是々非々を混同しないこと。
評価と批判は民主主義の基礎パイルだ。
どちらが欠けても指向性が狂う。
今、仕事も暮らしも『新型コロナウィルスによる肺炎感染症』の影が濃く、様々なメディアからもたらされる多くの情報のほとんどがそれに絡むものばかりで、気ぜわしさを感じながら日々を送っている。言い方を変えれば振り回されているということだ。
そんな中で、ちょっと落ち着いて考えてみたら、実は何も出来ていないことに気づいた。というと、私自身が何かしっかりした信念と目標、責務を自分に課して一意専心に修行然と日々を送っている者のように受け止める人もいるかもしれない(ま、いないか・・・)が、私は恥ずかしながらそんな立派なものではなく、そこらへんに転がっている石ころのような老人である。あ、アスファルトで覆われた都会では石ころも簡単には見つからない逸物となっているが・・・。
「何も出来ていない」というと、私は勿論、私以外の多くの人にも思い当たることかもしれない。目標設定、生産活動、成果・・・、絶えず何かを課し、評価が数字によって明確にされる社会を生きてきた人間にとって、その数字が出せない今は、「何も出来ていない」、「何も為されていない」、「何もしようとしていない」という状態であることと同じだという意識にとらわれる。
今回の新型コロナウィルスによる感染禍で多くの人はその生活パターンの変更を強いられている。その息苦しさが耐えられないと喚き散らす人も出てきている。でも、それは制限されることに対するアレルギーのようなもので、「やりたいことができないという苦痛を強いられているが、それまでは全てできていた」という錯覚を内面で増幅させているだけのように思える。もともと、何も出来ていなかったのではないか。今回の制限を言い訳にしているのではないか。
でも、一つ言えることがある。それは、変更を強いられた生活パターンが、結果的に新しい生活スタイルを生み出し始めているということ。仕事も、生活買物も、遊興も、旅行も、これまで自分が下してきた評価を、価値観を見直し、耐乏生活がそれなりに可能であり、意義があり、生産的な一面もあることに気づく。そういう人は、今回の規制、タガが緩み、全ての制限から解放された後でも、元の生活には直ちに戻ろうとはしないかもしれない。
少なくとも、混んでいるところへは行きたくない。電車も、店も、施設も、イベントも、屋外も、自宅においても、ゆったりとした空間、十分な間隙を求めたいと思うだろう。マスクや手洗い、うがいは日常の習慣となり、烏合を避け、急がず、慌てず、しかし、姿勢よく優雅に歩めるようにしたいと思うものが出てくるだろう。私のように・・・。
そんな中で、成果を求めず、評価せず、達成感を満喫できる生き方が重視されるようになるかもしれない。つまり、結果ではなく、過程を重視し、途中を楽しみながら、目標の到達点に軟着陸する生き方だということ。時間はかかるかもしれない。センセーショナルな讃辞は得られないかもしれない。しかし、それでも、心は満たされ、視野は広まり、血色よく、軽やかに身体が動くことに気づくはず。
つまり、この感染禍でスローライフもありではないかと悟る人が増えるのではないかと私は思っている。ゆっくりと、自分の足で歩き、何もできなくても焦らない生き方も良いなと思う人が・・・。
今、楽しめる趣味がない。
持続できる趣味を持っていない。育てて来なかった。
身体からの制限は確かにある。たが、それは多少の差はあれど年齢に比例する当然の、前提に置くもの。
50代の怠慢がツケとなって、今に響く。