カミさんとスーパーに行った。一つ北隣の駅の前にあった店舗がわが駅を飛ばして一つ南隣の駅前に移転したもので、チラシのポスティングが何度か続いたために一度見に行こうかと、いつものように気まぐれな行き当たりばったりで行ってみた。

 

店に関する情報としては特筆すべきものはなかった。ただ、店舗内に米が全くなかった。この店だけではない。我が家の周辺には徒歩で行けるだけで6軒の、車で10分以内にはさらに8軒のGMSや食料品スーパーがある。それらのほとんどの店舗でもコメは見当たらない。取り扱っている数少ない店においても、今年の春までは5kgで1,900円だったいつもの銘柄が2,450となっている。たまに買うプチ贅沢な銘柄も2,580円が3,500円になっていた。

 

春ごろにJAが急に米不足を唱え始めた時、こうなることは予測していた。やはりこうかとあきれている。まるでチャンバラドラマの江戸の米屋の売り惜しみを見ているような気がした。

 

言うまでもなく米は日本の主食だ。かつては武士の位を領地での収穫米の石高で示した時代もあったほど、コメは日本社会において経済の中心となすものとして重い存在だった。第二次大戦後の食糧不足から日本政府はコメの増産を図り、1960年代後半には1500万トンを超え、コメ余りが問題になった。このころから日本家庭の食事内容が大きく変わり、コメの消費量は大きく減ってきていた。そのため、減反政策などコメの取り扱いが国の大きな問題ともなった。そうして減らしたコメ農家がさらに後継者不足も手伝って激減している。昨年の生産量はかつての半分以下に落ち込んでいる。

 

日本の食糧自給率は38%でG7の中では最も低い。危機意識をもって農水省は自給率向上に取り組んできたはずなのに、さらに下落している。この先どうなるのだろうか。

 

話は少し横にそれるが、数年前に私は東京のお茶の水にある病院へ脳梗塞で倒れた友人を見舞いに行った。その友人は18年前にも倒れ、2度目だった。病室には入れず、脳内科・脳外科共通のフロアの待合ロビーで友人の到来を待つ間、外来患者も多いそのロビーで見かける人のほとんどが肥満であることに気づいた。肥満は首の後ろや顎のたるみですぐにわかる。私自身も高血圧症で降圧剤の服用を18年ほど続けており、脳梗塞の危険性を恐れる一人だ。気温と身体の肥満度が血圧に影響する要素であることはわかっていた。BMIが24.5辺りを僅かに上下する私は何とか8kg痩せたいと思っていた。

 

その後、リバウンドの少ない減量作成を模索し、何度もトライしたが、長続きしなかった。そんな私が3年前から試みているのがコメを食べない食事だ。朝はトースト、昼は玉子焼きや野菜、ソーセージなどでコメを抜いたカミさんの弁当、夜も麺類や野菜を中心としたコメ抜きメニューを続けている。でも、自分を追い込むことはせず、規律はフランクだ。失敗しないために例外日を設け、たまには好きな味付きのごはんメニュー(寿司、丼、カツカレー、炒飯など)を我慢せずに食べる。頻度は週一程度。これで、安定的に5kgマイナスまで体重を落とし、少しずつだがさらに減量は進んでいる。つまり、私の場合、コメから離れると減量はできるようだ。

 

さて、話をコメの生産と流通に戻すと、仮にどこかの寡占的団体がコメ販売量を調整しているとしよう。コメ生産農家を守るために販売価格の底上げを狙い、一時的にコメの出荷を止めた。すると市場ではコメ不足となり、販売価格が高騰する。その結果、寡占的な団体はぼろ儲けし、生産農家も潤う。他の物価が上がっているのだから、米価も上げるべきだという理屈だ。その先の結果どうなるだろう。

 

回転すし店、カレー店、定食屋などは価格を上げることになる。スーパー店頭のコメの販売価格は上がる。しかし、確実にコメの消費量は大きく減少し、人々は嗜好を変化させ、食生活をコメ以外の方向へ膨らませ、コメから離れるだろう。私の場合、さらなる減量を目指しているから、コメを食べる頻度は今よりももっと減るだろう。以前のように好きなのに我慢するような禁欲減量ではなく、コメ自体を食べたくなくなるような気がする。

 

そうして、多くの人のコメ離れは進み、コメの消費量はますます減り、生産農家も減少し、減反がさらに進むだろう。田んぼは一度崩すと再び水田にするにはかなり多くの労力と時間を要する。減反農地は簡単には再生できない。農水省もJAも自分で自分の首を絞めることになるのではないか。人の嗜好の変化も元には戻らない。コメは食べたいときに食べればいいというのを替えることはできない。「ごはんよりパンのほうが好き」という人が私の周りのマジョリティだ。コメ政策の失敗は多方面に大きな影響を及ぼすことになるだろう。

 

なんとも愚かしいがすぐそこに迫っている「食べ物」の話だ。

立秋からそろそろ1週間が経とうとしている。暦の上では秋だが、さすがに今年の暑さはその気配を感じさせない。ニュースのトップは暑さ、五輪、台風が飾る。酷暑は今週いっぱい続くようだ。

 

そんな中で、今夜、風呂に入ってほんの僅かだが心を動かすものがあった。それはシャワーの温度だ。7月に入り、春からの水温設定を1℃下げていたが、8月に入りさらに1℃下げた。これまでにない設定温度だった。ヒートアイランドと化した日本でも比較的気温の高い近畿中部に住む私は、今年、一日中エアコンのお世話になっている。こんな年は初めてだ。

 

私の年齢が進んでいることもあるかもしれないが、今年の気温は例年よりも2℃ほど高く感じる。以前に服用した医薬の後遺症で汗の分泌が抑えられている私は体温調整が苦手で、熱中症になりやすい。日なたを15分も歩けば意識が朦朧とし、足取りが不確かになって、これまでにも二度ほど搬送された経験をもつ。それだけにエアコンの恩恵に与る頻度は高いが、今年は異常なくらいほとんどの時間を空調下で過ごしている。

 

歩いて3分の駅までの道のりすら辛い。少しの距離でも車を使い、家にいるときは必ずエアコンで冷やしている。そのせいか、7月に入ってから例年だったら大きく下がる血圧が、今年は逆に少し上がっている。困ったものだ。

 

そんな状況の中で、今夜、私はシャワーの温度を1℃戻した。ただそれだけの話なのだが、そこに瞬間だが秋の足音が小さく聞こえたような気がした。すると、急に寂寥感に襲われた。ああ、夏はもう終わりなのか。いやだな。暑くても、どれだけ暑くても、夏のほうがいい。7月生まれという意識も働いて、私は昔から夏が好きだ。秋は冬へのアプローチとなるから嫌いなのだ。もうしばらくしたら夏は姿を隠す。衣服を替え、掛布団を使い、空調設備も使わなくなる。ああ寂しい。

 

でも、これは抗えないことだ。甘受し、順応してゆくしかない。残りの人生であと何回、好きな夏を迎える喜びを味わえるかわからないが、その機会を大切に、大切にしてゆこうと思う。楽しみは来年の春、夏への滑走が始まる時だ。それまで体調を整え、来年も夏を楽しもう。いや、残り僅かな今年の夏も心ゆくまで楽しまなくてはいけないな。

目下、休養中につき、日記の掲載は控えさせて戴いております。

ご心配をおかけして申し訳ありませんが、毎日元気に日記をつけておりますので、ご安心ください。

発症から早や12年経った膵癌も医師から「根治」という言葉を頂戴するまでに回復しておりますことを小声で報告させて戴きます。

日記掲載の再開につきましては、いましばらくのご猶予をお願い申し上げます。

 今年は西日本各地で平年に比べて一週間早い梅雨入りとなった。待ちに待った季節だ。普通の人には蒸し暑さが応えるかもしれないが、気温に鈍い私には暑くなく、寒くなく、丁度よい気候なのである。

 

 それというのも、私の肌は超が付く乾燥肌で、一時期よりもましになったとはいえ、未だに保湿剤を塗布しないと痒みを通り越して痛みを感じる肌なのだ。原因は判っている。皮脂が出ないからだ。

 

 かつて、私は脂性で汗かきだった。皮脂は匂う。汗も匂う。私は臭い、臭い男だった。その私が11年前に癌を発症した。かなり厳しい癌だった。今もって生きていられるのは、運よく早期発見できたおかげだ。六週間の入院を経て、退院後も抗癌剤を処置してもらっていたが、三ヶ月健診で転移が見つかった。復調していない身体で再度の手術は難しかったので、抗癌剤を新型の強いものに変更してもらい、目一杯の薬量を一年間投入した。

 

 半年たった頃から副作用が顕著になってきた。目ヤニで目が開けにくくなり、涙が溜まってものが見えにくく、さらに逆さ睫毛が沢山生えて、目を痛めた。味覚がおかしくなり、水さえも合成調味料のような味をして、何も飲めない、食えない。手の指の爪が変形し、足の爪は半数を失った。手のひらと足裏の皮膚が角化症でひび割れを起こした。傷が治りにくくなり、ひび割れは大きな生傷となった。おでこをちょっとぶつけただけでも50円玉以上のサイズに広がり、治るのにほぼひと月かかった。

 

 癌細胞の増殖性を抑える環境を体内に作って、その間に免疫性を高めて癌をやっつける。そんな戦さが私の体内で繰り広げられていたと思う。投薬九カ月後のCT検査で転移の痕跡が見当たらなくなり、さらに三ヵ月後の検査でも見つからなかったので投薬を終えた。命の危機は回避できた。しかし、その代償は大きかった。私はとんでもない体質になっていた。

 

 副作用の厳しさはピークを迎えていた。歩くこともできず、家の中を這って暮らした。指先は生傷だらけでボタンもとめられない。出来て当たり前のことが全くできなかった。何よりも、食べられないことは苦しかった。食物を口に入れることができない。点滴とゼリーで命をつないだ。65kgの体重が49kgになっていた。光明が見出せない絶望の日々だった。

 

 そんな私が僅かな望みを持てるようになったのは、食べられるものが少しずつ増えてきたときだ。人は口から入れるもので生きるエネルギーを得る。腸瘻(ちょうろう)を回避するためにも、無理にでも何かを食べなきゃいけないと、思いつくままにいろいろな食物をトライした。友人も自分の奥方の経験からこれなら食べられるだろうと食べ物を調達して持ってきてくれたこともあった。カミさんや友人たちの支えがあり、体重が少しずつ増え始めたとき、俺は助かるかもしれないと思えるようになった。

 

 製薬会社が公表している副作用は一通り発症した。しかし、投薬を止め、口からものを食べ、気持ちを前に向けて歩み出してから、副作用の厳しい症状が改善されてきた。さらに、勤労が回復を早めてくれた。ステッキが不要になり、ずっと着用していたニトリル手袋もしなくなり、車の運転やゴルフも再開できた。三年八ヵ月ぶりにティーグランドに立った時は、嬉しさのあまり泣いてしまった。

 

 抗癌剤を恨んではいない。いやむしろ、感謝している。命を助けてくれたのだから。副作用の後遺症は今も残っている。皮脂と汗の分泌が止まっているため、手足症候群は今も油断ができないし、身体はあちらこちらがかゆく、体温調整が苦手で熱中症になり易い。何とかならないのかなと悲観的な言葉を吐いたとき、親しい友人がぽつんと言ってくれた言葉が私に効いた。

 「この症状がある限り、お前は癌を再発しないかもね」

 そうだ、良いように考えればいいのだ。後ろ向きの姿勢は何事も不首尾を招く。俺は本来もっと楽天家だったはずだ。

 

 あれから別の癌にも罹ったりしたが、悲観しなかった。それも早期発見で対処できている。感謝だ。すべての人に、全てのものに感謝している。有難い。でも、本音を言うと、少しでも苦労なく、楽に、快適に、ゆったりと暮らしたい。欲が出てきたのかもしれない。

 

 冒頭にも書いたが、そんな私は梅雨が好きだ。カビは生えるし、食べ物は傷みやすいし、トイレも近くなるが、肌はしっとりして痒くないし、気温も丁度良く、布団要らずで寝られる。梅雨様々だ。

 

 でも、今年の梅雨はどうやら暴れ梅雨のようだ。異常気象のためか、陸地近くの海面温度の上昇が激しくなり、サーマルの発生を増やし、線状降水帯と呼ばれる現象が起きて、長い時間に大雨を降らしている。そのため、河川が悲鳴を上げ、緩んだ地盤が耐えきれずに崩落、交通は混乱し、人々の暮らしに困窮という種を蒔く。豪雨災害は世界各地で起きており、恵みであるはずの雨が元凶となっている。

 

 異常気象は地域限定のものではなく、現象は地球全体に及んでいる。人類はこの百年の間に、交通手段を発達させて比類ない利便性を得た。だが、それはそれまでとは桁違いのエネルギー消費によって膨大な温室効果ガスを放出し、温暖周期に入っている地球表面に更なる加熱をしてしまっている。

 

 誰もがこの状況に憂慮を感じている。しかし、一度得た利得はなかなか手放せない。いや、むしろ利得の倍増を願っている。誰かが何とかしてくれるだろうという他力本願の姿勢から~抜け出せないでいる。簡単な事ではないのだ。

 

 環境保全を叫ぶ若者もスローガンだけで具体策は何も持っていないように思える。でも、何もしないでいるよりは声を出して注意喚起を図ろうとする彼らの方が、生活を口実に何もしない大人たちよりもましか。

 

 この数日、雨が凶器と化している。私にとっては楽しいはずの雨が多くの人を苦しめている。だから、素直に喜べないでいる。どうか、穏やかに、カミさんが洗濯で困らない程度に、雨が降り続いてくれたらいいなと思っている。

ブログの更新が絶えて久しい。かなりサボってしまった。理由は特にない。ただ、あまりにも腹の立つことばかりで、きっと書き始めるとエスカレートし、血圧を上げるかもしれないということは私の性格からして容易に想像がつく。だから、書かないでいたという言い訳にはならないが・・・。

 

日々の出来事などは簡単な日誌として毎日書いている。その中にもその時々に感じたことなどは簡略化して記している。でも、いくら短く書こうとしてみても、やはり熱が入り、長くなってしまうことは少なくない。この性分は何とかならないかと思う。

 

それにしても、二つの国とそのシンパシィが勢いを増してきているために世界はかき乱されている。これまでもそうだったが、今後ともピロシキも小籠包も食べたくない。これらの国々の製品は買いたくない。

 

そう、彼らは少し前までは貧しい国だった。それが、先進諸国が彼らを利用するうちに経済的台頭を許し、国を富ませ、軍拡が進んだ。そして、国内で顕在化してきた制度の矛盾に対する視線を逸らすために幻想の外敵が実在するかのように思わせ、さらに領土や国勢の拡大策を推進し、国民の目を欺く施策を推し進めている。

 

その結果、周辺国のみならず、世界中が振り回され、被害を受けている。その最たるものが今のウクライナであり、明日の台湾、日本だ。一体、どのような権利があって他国を攻撃し、そこに住む人々を殺すのか。そんな権利はこの地球上には絶対に存在しない。

 

アドルフ・ヒトラーは地下室でのピストル自殺に追い詰められた。さて、かの大統領はどんな死に方をするだろうか。この国の人がみな愚鈍だとは思わない。今に国内から蛮行に対する糾弾の火の手が上がるに決まっている。もし、そうならないのなら、そういう民族は地球上に存在してはならず、神が許すはずがない。いや、世界中の分別ある人々が看過しているはずがない。

 

それにしても、今の米政権の弱腰にも呆れる。これじゃあ、支持率が下がるのもうなずける。制裁と言いながら、あまりにも効果が出ていない。経済制裁は地下茎を断たないと効果がない。ピロシキと小籠包は太いパイプでつながっている。しかし、世界は小籠包の国と経済的につながっており、依存度が高いため、西側諸国はいずこも強い方策がとれない。わが国もしかりだ。だから、コロナの蔓延を許し、キタのミサイルに何の歯止めも出来ず、挙句の果てにピロシキの南下政策を止められなかったのだ。情けない。

 

これではトランプの方がましだという声が大きくなってきているのも当然だ。せっかく唯我独尊の典型たる力任せの大統領を引きずり下ろしたのに、元の木阿弥にならざるを得ないだろう。どう考えても理不尽な事態を、手をこまねいて「見てるだけ~」では世界の良識が成り立たない。

 

ピロシキが頼りとするのは小籠包の「金」だ。その小籠包の国は西側諸国との貿易を止められたら自国だけでは国勢は成り立たなくなる。この際、国交断絶までも視野において立ち向かうべきだろう。それが、わが国の首相が言う「あらゆる選択肢を排除せず」ということだろう。ああ、また血圧が上がってきている。

 

東日本大震災から11年経った。このことについても思うことがたくさんあって書きたかったのだが、とりあえず、今日はここまでとしよう。

12月10日(金)、月ごとの検査に大阪市大病院へ向かう。今日は3ヶ月ごとのCT検査があるため、8時の受付開始時刻よりも早めに到着した。その後、順調に検査を終え、カフェで朝食を摂り、朝の服薬。医師の診察が予定よりも30分早くなったが、そういうこともあろうかと早めに待機していたので、スムーズに事が運んだ。検査結果は良好。7月に苦しめられた肝臓内の膿瘍もかなり縮小していた。精算を終え、院外薬局で薬を購入し、全てを終えたのは11時45分。

 

昼食は混む時間帯なので後回しにし、先に散髪をした。さて、何を食べようかとあべのハルカスやQ’s Mall のレストラン街、界隈を探索したが、平日なのにどこもまだ人が一杯。朝食が遅かったせいか、あまり腹も空いていなかったので、本日の第2目的である大阪市立美術館で開催中のメトロポリタン美術館展に足を向けた。

 

天王寺公園は10月下旬に友人の書を観に行って以来、1か月半ぶりだ。その間に季節は秋から冬へと移って景色は変化しており、大きな銀杏の木が落とした葉を係員が清掃していた。この近所で育った私にとっては見慣れた懐かしい風景で、心がかなり癒された。

 

美術館の周りには住友家から寄贈された日本庭園の慶沢園や、家康が本陣を置いた茶臼山古墳がある。太古の昔、和気清麻呂が暴れ川だった大和川の流れを変えるために上町大地に河を掘った。事業は途中で断念されたが、その名残が今も河堀口(こぼれぐち)、河堀町(かわほりちょう)、堀越町なとの地名で窺われる。その人造河の一部が池となって残っているのが美術館の北側にある河底池で、そこにかかる橋が和気橋だ。由来を知るとその景色も深く観える。

 

さて、美術展の予約時刻は14時30分だったが、昼食を抜いたので1時間前倒しで入らせてもらった。やはり、人は多く、当日券がバンバン出ているので館内は三密状態だ。何のための予約販売かわからない。近くにいるおばさん同士の会話に、「感染が広まって規制が厳しくなると閉鎖もあるから・・・」という言葉が聞かれた。

 

人は絵画の前よりもコンセプト説明パネルやキャプションの前に群がっている。ワイヤレスのガイドを聞く人もなかなか動かない。最初は人の列について行ったが、あまりにスローなので、3篇目からは直接絵の前に行くようにした。というのは、事前にWEBサイトで説明を読んでいたからだ。鑑賞している人の視野に入らないように気遣いながらも絵をしっかり観た。

 

今回の私の目当ては、モネ、ルノアール、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン。最終エリアに陳列されており、他の絵画よりも3倍以上の時間をかけてゆっくり鑑賞した。それらの絵画は合計8点だったが、それだけで入場料の元は取り返せた気分だ。十分な目の保養になった。

 

その後、新世界を歩き、新今宮駅から家路についた。昼飯は食べなかった。

 

 

長かった。
どうしてこんなに長引いたのか。
全て、己が為せる仕儀。
その反省と総括は次回にまとめて。
7月6日に救急搬送、緊急入院してから既に3週間以上経った。まだ退院の目途は立っていない。

私は大丈夫なのだろうか。不安がよぎる。

6月27日に受けた2回目ワクチン接種による問題は意外と深かった。


潜在的な疾患「胆管炎」。


7月3日辺りから様々な症状が顕になり、6日にかかりつけの大阪市大病院に連絡したら、すぐに来るようにいわれ、救急搬送で緊急入院。


数値を聞かされ、あまりの悪さに、我慢していた自分の愚かさを悔いている。


集中治療室に収容されもした。かなり酷かったようだ。


治療が1日遅れると治りが1日以上遅れる、という基本的な教えを失念していた。愚かだった。


今は体調も順調に回復している。数値はかなり良くなった。摂食も進み出した。あと一週間ほどで退院できるだろう。


でも、これだけは言いたい。


接種は間違っていなかった。新型コロナにかかるとこんなものではすまない。若い人なら永く後遺症害に苦しむことになるだろう。


集団免疫という大切なものを社会全体で作り上げ、安心して暮らせる世の中にしなければならない。


自分のために、大切な人のために。

6月27日の午後、カミさんと一緒にワクチン接種を受け、至って問題なく過ごしてきた。しかし、やはり敵は曲者だった。

 

今朝、5時過ぎに起床したら、身体が重く、熱っぽい。すぐに体温を測ると、38.2℃。トイレに行き、出勤するために洗面をしたら、少しぐらつく。洗面所の鏡が倒れてくるような錯覚すら覚えた。

「こりゃあ駄目だな」

出勤は諦め、大事をとって寝ることにした。2回目のワクチンを接種して37時間余り経っていた。カミさんは元気で、それが何よりの救いだ。

 

職場の上司に連絡を入れ、体温計の写真も添付した。その後、水分をしっかりとり、鎮痛解熱剤「ロキソニン60mg」を2錠と、胃酸抑制効果のある胃薬「ネキシウム20mg」を1カプセル服用し、06:00から12:00まで眠った。

 

12:10現在の体温は36.3℃。倦怠感もなく、通常の状態に戻ったような気がする。まだ、油断はできないので、この後も安静にして過ごすつもりだ。今回は順調に来ていたため、1日半経った時点での変調は、自分の中ではかなり重く受け止めている。寄る歳波か。かなり情けない。こういう時のカミさんの毒舌は有難いのだが、彼女は何も言わない。それだけにこちらが落ち込む。

 

年齢に抗っても勝てるわけはない。当分はカミさんの冷ややかな目を気にしながらも、少しでも挽回できるように若々しい(と感じてもらえる)生活を送ろうと思っている。

 

この程度の副反応は、たぶん医師からは気にすることはないと言われるだろう。確かに、大きな変調ではない。しかし、まだ受けていない人にはインパクトの強いマイナスイメージになるだろう。マスコミは、副反応としての発熱として、接種に警鐘を鳴らすかもしれない。

 

しかし、これだけは言える。備えがあれば怖くはない。カミさんは市から鎮痛解熱剤をと胃薬もらっている。何かあればそれで対処するつもりらしい。だから、あまりビビっていない。彼女は強い。やはり、私のご主人様だ。