今、手元にある軟質性透明樹脂(ポリウレタン樹脂)のもの、実はマウスピースである。マウスピースというと、一般的にはボクシングやラグビー、アメリカンフットボールなど、スポーツで使われているものを思い起こすが、私が持っているのは医療用で、先日、歯科医院で作ってもらった。そう、歯ぎしりなど睡眠中の歯の横向き運動から生じる歯茎への負荷を低減させるためのものだ。
40年以上通っている歯科医院がある。場所は大阪ミナミの日本橋筋1丁目。やや有名な黒門市場のすぐ近くだ。歯は若い頃からあまりよくなかった。虫歯が多く、歯茎が腫れてよく出血したし、口臭もかなり強いほうだった。結果、あちらこちらの歯科医院で若年性歯周病などと言われ、歯茎マッサージをするように言われた。
その頃の歯科医院は、なにがしかの治療を施し、すぐに抜いて歯に付帯、あるいは代替する歯材を取り付けて金を稼ぐ乱暴な医師の噂話が多かったため、疎遠の権化だった。学校では歯の磨き方や歯磨きの習慣化を説いていたが、一人一人に合った細かいやり方などとても教えてはくれなかった。それでも年に1回は歯科検診があり、学校の保健室で地元の歯科医が診てくれていた。
実のところ、私は歯科医院が嫌いだ。ま、好きな人はいない。というのは、当時の治療は、今と比べものにならないほど痛かったからだ。「歯のケアを怠けるから痛くなる。我慢しろ」と、平気で痛い歯をコンコン叩く医師もいた。嫌いだったが、治療しないとその先にはさらなる激痛が待っているから、仕方なく通った。でも、歯科検診後の暫くは同級生たちと歯科医院で会うこともあり、それが楽しみだった。
そういう悪いイメージを引きずって生きてきたから、自ずと歯のケアをますます嫌うようになり、喫煙も多かったので、歯は汚いままだった。気が向いたら塩で歯茎をさすっていたが、磨き方も大雑把で、どこか、あきらめがあった。
痛くなれば、痛みを和らげる薬を買って、それを塗って誤魔化していた。そんなことをしているから、若くして歯はガタガタになり、結婚したころには口臭に加えて睡眠時の三重苦(いびき、歯ぎしり、寝言)をカミさんに味わわせていた。当時、カミさんは結婚したことを悔やみ、真剣に離婚を考えていたらしい。
31歳手前のある夜、あまりに歯が痛いので、切らしていた鎮痛剤を買ってきて欲しいとカミさんに頼んだが、今と違って薬局の営業時間はとっくに過ぎており、どこも開いていない。カミさんは困って、家族ぐるみで付き合っている近所の友人夫妻に電話した。すると、その奥方が鎮痛剤と抗生物質を持ってきてくれた。そして、歯科医院の情報が書かれてある小さな紙片をくれた。
彼女の実家近くの開業医で、彼女はそこの受付アルバイトをしていたからよく知っているとのこと。良い医者なので、予約の電話をしてあげるから絶対に行きなさい、と珍しく強い口調で言われた。後で考えると、カミさんはその奥方に悩みを相談していたのだろう。
その歯科医院は、通勤経路からあまり外れていなかったので、言われるまま翌日の夕方、足を運んだ。実は、もらった薬で痛みはかなり和らいでいた。いつもなら多分行かずに放っておいたと思うが、さすがにそれはできず、恐る恐る行った。歯科医院を訪れたのは10年ぶりだった。雰囲気は、想像していたよりもすっと明るく、穏やかで、流れているBGMも趣味がよく、待合室にいる間、心を落ち着かせてくれた。
腫れて激痛だったのは右下顎第2小臼歯で、かなりグラグラしていた。
「抜かなあきませんよね」
「いや、歯は抜いたらあかん。極力抜かないで治さんとね。怖がりやね」
「は、はい。怖がりです」
緊張でガチガチになっている私に50代の医師は優しく話してくれた。40年前のことである。今と違い、麻酔もそれなりに痛かったし、鬼の研磨音は頭部に響き渡り、握りしめた手のひらは白く色が変わっていた。でも、思っていたよりも痛くはなかった。
暫く通ううちに、歯の磨き方を教えてくれた。全く知らない磨き方だった。歯垢や歯石も掃除してくれた。既に26歳で禁煙していたから、歯の汚れはかなり落ちたが、長年の横着分は取れなかった。歯の大切さが少しは理解できたので、ケアも面倒ではなくなった。以来、40年ほど経つ。出張や駐在など海外渡航の多い私には予約制の適用をゆるめてくれ、私も通院を帰国後の最優先スケジュールにしていた。
その歯科医院は今もおなじ場所にある。医師も子息に代替わりした。その若先生も既に還暦を過ぎている。後継者はいないようだ。いつまでやれますかな、が口癖だ。設備や治療方法はかなり変わった。痛みなどほとんど感じない。おかげで私の歯は70歳10か月の今も殆ど自歯だ。残念なことに、40年前に初めて治してもらった歯が酷いグラグラ状態になり、先日抜歯してはいるが・・・。
その抜歯した部分の加療とブリッジ施術の過程で歯ぎしり談義となり、前述の負担軽減からマウスピースの登場となった。月に一度の通院なので、3ヶ月前に歯型を取り、先々月に出来上がった。以来、ひと月半使用しているが、やはり舌触りや噛み合わせが慣れないのか、まだしっくりと馴染んでいない。無意識に口を開けて寝てしまうようだ。カミさんとは寝室が離れているので、歯ぎしり音の有無は確認できない。
毎朝、よく洗い、乾燥させているが、この面倒に感じるメンテナンスが意識なく習慣化できた時、マウスピースの効果は表れているに違いない。