2日の夜、携帯電話の電池残量極少の警告を受け、充電しながら就寝。翌3日の朝5時に充電セットを取り外した。その後、丸5日間使用した。見ると残量が6%になっていたので、今しがた充電を開始した。通常は丸4日間が1回の充電による使用タームだと思う。今週は通話が合計で5分以内と少なく、ネットを観ることもあまりなかったため、長持ちしたのだろうと思っている。

 

先日、カミさんがバッテリーの消耗が激しいと嘆いていた。カミさんと私は、機種の異なるアンドロイドスマートフォンを昨年8月に同時購入した。カミさんは日本メーカー品で、私は韓国メーカー品だ。それぞれバッテリーのサプライヤーは別々で、カミさんのものには天下のパナソニック電池が使われているようだが、私の方は情報開示がなく、不明だ。当然のことだが、どちらもリチウムイオン電池が使われている。

 

だのに、カミさんのケータイはバッテリーが早く減り、2日に一度、いや、最近では毎日のように充電しなければならないと嘆いている。携帯電話の使用頻度は二人の間ではあまり変わらないと思う。どちらも情報収集の手段としては携帯電話よりもPCのほうが多いし、ゲームはせず、SNSもあまり観ない。ま、多少はカミさんの方がケータイをよく使っているかもしれない。何せ私は、仕事に行くこと以外は世捨て人然の暮らしだ。カミさんの方がまだメールや通話もあるだろう。電池の消耗はその差だろうと思っていた。だが、それにしても彼女のケータイの電池は減りが早すぎる。電池メーカーとしては世界トップクラスで問題はないはずなのに・・・。

 

よく見ていると、カミさんは電池残量が半分を切ったら充電し始める。残量が少なくなると不安なのだという。メモリー効果がないといわれるリチウムイオン電池だが、皆無ではない。継ぎ足し充電はやはり良くない。第一、充電回数が増える。200回を超えると電池寿命がかなり減り、500回を越えるとその寿命は半減する。どうやらカミさんと私の差異はこのあたりにあるようだ。

 

メモリー効果は放電でリフレッシュできる。といって、下手に完全放電させれば電池が傷む。安全な放電機構のついた充電器が必要だが・・・。メモリー効果はリフレッシュできても充電回数による劣化は確実に進む。カミさんには、電池残量が少なくなっても我慢して、なるべく充電頻度を減らすように教えた。彼女もいくらかは理解したようで、早速実行している。

 

要は考え方である。そもそもケータイがなくても暮らしに大きな支障はおきないと思う。喫緊に連絡を取れるようにしなければならないほど緊張感のある立場でも職業でもない。半日ぐらい連絡が途絶えても大きな問題はないだろう。もし、それで誰かに心配を掛けるのならば、予めそうなる可能性があることを断っておけばよいのだ。

 

ネットなど観なくても、チャットをしなくても、電車内で音楽がなくても、生きられる。一時的にでも携帯電話を失うことにより社会から阻害されてしまうと思う強迫観念が今の社会で蔓延している。だから、通信キャリアによる不通事故があるとパニックに陥る人が続出する。元は こういう機器などなかったのだから、たとえ一時的にこの便利さを失っても、それで気が狂うような人は愚か者のそしりを免れないと思う。携帯電話への依存性が高すぎることが間違っているのだ。だからといって、「携帯電話を持たない」主義を唱える気はない。この便利さはこれからも活用したい。要は依存性を低く押さえることが大切なのだ。

 

何度も言うが、予め周囲に周知させておけばいいのだ。そうすれば、一時的に音信不通になっても、心配を掛ける事は少ない。行き当たりばったりで先を読まなくなるという携帯電話の弊害も少しは解消されるはずだ。

幾たびかの大災害を経て、「省エネ」という大義名分を得、日本中が何でもありの着装となって久しい。おかげで、かつてのような一斉に夏化することなく、ひと月以上をかけて衣類を入れ替えているようだ。私の場合、4月の途中からスーツなど重衣料を入れ替え、5月初めに長袖シャツの生地が薄くなり、そして今日、ついに半袖シャツを出した。週明けからその半袖シャツと綿パンの夏スタイルで通勤することになる。

 

職場では既に「クールビズ」が推奨され、外出時以外はポロシャツスタイルだ。猛暑となった先週半ばでは「試運転」と称してエアコンも使い始めている。ただ、6時に家を出る私の通勤時間帯はまだまだ涼しいので、これまでは長袖シャツに薄物のジャケットを着ていた。それでも復路は暑さで上着を手持ちしていた。これから雨季にかかり、着装がますます重要になる。体温調整が苦手な私は、熱を衣服内から外に逃がす工夫が要る。

 

衣替えでいつも思うのは、いちいち折り畳んで衣装函に仕舞わずにずっとハンガーに吊るしておければ楽でよいのに、ということ。我が家は豊かではないので、ウォークインクローゼットなどという洒落たものはない。カミさんと私の寝室の間にはかつて息子が使っていて今や納戸と化した部屋があるのだが、ウォークインクローゼットに改装するには今ある荷物を移動させなければならず、狭い我が家では簡単には行かない。今年こそはと思いながら数年経った。

 

衣装函に仕舞われている衣類は、風に当てて防虫剤の臭いを消し、アイロンで畳み皺を延ばさなければならない。これだけでかなりの作業量だ。一日では片付かない。10年前に定年退職してからは自分でやるようにしているが、それまではカミさんがやってくれていた。自分でやってカミさんの大変さが身に沁みて判ったが、カミさん曰く「今さら手遅れや」、とのこと。判らんよりはエエやろが・・・。

 

私は、現役サラリーマンの頃、国内外の出張が多かったので、衣類の数は多かった。それらを、ローテーションを徹底させて永く使ってきた。靴もバッグもそうしていた。当時の私は汗かきで、出張の日数分以上の枚数のシャツや下着類が必要だったのだ。長持ちするリーズナブルプライスのものを適当に買い足ししていた。おかげで箪笥はカミさんや子供のものより私のもので占拠されていた。今では少しずつカミさんに侵食されているが、まだジジイのワードローブとしては多い方だろう。玄関のシューズボックスも私が大半を占めている。当然ながらクレームを浴びている。でも、昔ほど買い替えをしていないので、減ってゆく傾向であるのは確かだ。

 

流行とは無縁の容姿だから、定番といわれる着装を旨としている。基本的に目立たないようにしているのだ。ま、私を知る人は当然と思うだろう。特にここ数年、きちんとした服装はあまりしなくなった。スーツも殆ど着ていない。年に20回ほどか。ネクタイに至っては、その半分も使わない。冒頭に書いた「省エネ」という大義名分のおかげだ。それとはあまり関係のない冬季でさえもノータイが当たり前になった。あらたまった席に出る必要のない身の上だから、楽でいい。友人の中には、今も毎日ネクタイを締めて通勤しているものもいる。ご苦労なことだ。よほどインカムが多くなければやっていられないな。ま、やっかみも少しはあるが・・・。

 

衣替えといっても、下着や履物はほぼ年中同じだ。私はズボン下を穿かない主義だし、白色の半袖Tシャツとボクサーパンツ、アーガイルの靴下は季節を問わない。ブーツを履かない私は、サンダルやローファーなど一部を除いて、靴もほとんど同じローテーションで、楽である。着装にしても基本はアメトラ風なので、古臭くはならない(と私は思っている)。

 

今日も4時間ほどアイロンを使った。明日も2~3時間はやるだろう。つくづく思うのだが、私ってこんなにマメだったかな? 歳をとるって、無精者をも変えるのかな。

今年初めに受術した癌の3ヶ月検査が5月14日(火曜日)にあった。再発の可能性が高いと脅されていただけに、異常無しとの検査結果に胸をなでおろした。この癌は早期発見、早期対処のおかげであまり重篤性はなく、比較的軽度であると診立てられているのか、経過観察としては3ヵ月毎の検査となっている。

 

そして今日17日は、たまたま同じ週となったのだが、今週2度目の通院検査で、7年前に受術して経過観察中の癌の状況を調べてもらった。こちらの方も発症時に早期発見、早期対処であったため、生存率の極めて低い癌ではあったが今も生かして貰っている。ただ、これまでに悪い数値が出て緊張感が高まったことが二度ほどあったので、今も毎月検査という頻度は変更されていない。そのおかげで前述の新米癌も見つかり、すぐに対処できたと思う。

 

検査が毎月だから大変だね、とよく言われるが、見放されていないからだよと反論することにしている。これは事実で、丁寧な検査や診察は医師と病院の真摯な姿勢の反映だと思っている。実に有難いことだ。

 

実は、先月のCT検査で肺に影が見つかり、腫瘍マーカーも高くなっていたため、今月の検査結果によってはさらに精緻な検査が必要になると言われていた。この5週間、気持ちを落ち着かせよう、心が明るくなることを考えようと努めてきたが、やはり動揺は隠せず、暮らしに足がきちんとついていなかったように思う。そして今日、幾つかの項目を増やした検査を受けた。

 

いつもなら、検査後に病院内のレストランで朝食を取りながら診察時刻まで読書するのが楽しみとなっているのだが、さすがに今日はその気になれず、診察までの1時間半を診察室前の待合ロビーで過ごした。そして、診察室に呼ばれ、担当医から分析に時間を要する一つの項目を除いて概ね良好であり、残った未確定の項目も悪い数字が出るような兆候はない、と告げられた。ひとまずは安心だ。

 

担当医から今後の検査実施案の説明を受けながら、自分の心にかかっていた靄が見る見る間に薄らいでゆくのが自覚できた。まだまだ検査途中であり、一度ぐらいの検査で憂いは払拭できたとは言えず、手放しで安心できるものではないが、ひとまずは安堵した。言わば健康の仮免許取得である。この先は、さらに楽しい事を常に意識して、仮免許状態を本免許となるようにしていかなくてはならない。

 

カミさんにはすぐに検査結果をメールで知らせた。「よかったね」という短い返事にカミさんの涙が写っていた。

なんと11日間も、よお休んだな

けど、それももう終りや

あ~あ、明日からいつもの生活やねんな

リズム感取り戻すのは簡単やないな

身体、動くやろか

 

この休暇中、何をしたのかな

何もせえへんかったな

ま、今更、有意義な時間を・・・なんて考えてもいないけどな

やっぱり心身ともに休めたことが一番やな

 

大好きなカミさんとよお話せたし

孫とも遊べたし

本もそこそこ読んだし

好きな歌手の歌もたっぷり聴いたし

 

けど、その歌手の大阪公演に行けなかった

感染症が怖いから人ごみは避けなあかん

しょうがない

次回は体調を整えて、追っかけしたいね

ええ歳して、と笑われるかもしれんな

けど、こういうミーハー然がNK細胞を活性化させ、癌をやっつけてくれるんや

 

11連休はそれなりにええ休養となったが、やはり仕事をしている方が体調はいいと思う

休んでいると余計なことを考えてしまう

それは必ずと言っていいほど後ろ向きのことや

週3~4日の簡単な仕事でも、やりがいは見つけられるし、常に気持ちが刷新され、元気になれる

カミさんとの距離感もええ具合に保たれる

 

ありがたいことやと思う

これ以上体調を悪くしてみんなに迷惑をかけないように、元気を搾り出そう

そうしているうちに本当の元気が身につく

来週の検査はきっと乗り越えられるはずや

ネエ、鼻水はなんで出るんやろ

風邪を引いているんやないし、花粉の飛散も殆どなくなったはずやのに

朝から粘性のない鼻水が出て困ってるんや

 

油断すると垂れ落ちるから、兆候が現れたらすぐに鼻紙を使う

おかげで、鼻の下はヒリヒリし、ズボンの右ポケットは丸めたティッシュが溜まってる

人前でも躊躇うことなく、チーン

カミさんの迷惑そうな顔が視野に入る

「あ、他人ですよ」なんて言ってやってもいいが、多分、あとで蹴られるからうつむくだけ

なので何も言わんかったが、やっぱりふくらはぎを蹴られた

 

深呼吸をしたい

思い切り息を吸い込んだらどれほど気持ちがええやろか

でも、今の鼻では下手に大きく息を吸うと誤嚥で咽返るから怖くて出来ない

背筋を伸ばしたいが、いつでも鼻紙を取り出して対処できるように年寄りみたいに背中を丸めている

あ、年寄りやんか、俺

あと2ヶ月半で古希やもんな

 

ネエ、俺の部屋のゴミ箱、鼻かんだ紙でもう一杯や

明日は月曜日、ゴミ出しの日

忘れずに捨てなあかんな

えーっ、もうゴミを出したって?

何で声掛けてくれへんねん

また数日、ゴミと共に暮らすんか

 

こどもの日、昔は何をしたかな

あまり覚えてへん

粽、柏餅、菖蒲湯・・・そんなん、大人になってからや

俺らのガキの頃は特別な行事に使う金などなかったようやな

せやから、思い出なんてないねんな

 

鼻水は垂れ放題、袖口はテカテカ

鼻紙なんて贅沢なもんなかったな

新聞紙を切って、よくもんで鼻かんだ

手や鼻が黒くなったもんや

 

けど、貧乏してたのに新聞とってたもんな

そのおかげで字を覚えたな

みんな貧しかったけど、まあエエ時代やったな

昭和30年代の前半

 

あれから何度も戦争の危機があったのに、日本は平和を続けられた

憲法を守り、「戦力」を極力抑え、その行使を阻止してくれた

努力してくれた多くの先達に感謝してる

それと、何よりも戦争を嫌っておられた上皇陛下ご夫妻にも深謝

 

戦争は人の一生を振り回し、メチャメチャにする

そういう境遇にならんかったのはすごいことなんや

なんやかんやゆうても、俺たちは恵まれてたんやな

 

て、真面目なことを書きたいんやけど、下向くとまた鼻水が・・・

平成31年4月30日。今日、天皇が退位された。明日、新たな天皇が即位され、それに伴って元号が平成から令和に替わる。万葉集に依拠する言葉らしいが、私の日常生活の中でこの元号に馴染むのには暫く時間がかかりそうだ。

 

永く続いた昭和から平成に替わった時は、その元号が30年以上も続くことは予想できなかった。言葉が平易すぎるように思えて、馴染むのに暫くかかった。でも、海外との接点を多少とも持っていた私は、基本来的に西暦を使用していたので、平成何年といわれても頭の中で西暦に置き換えなければ時流のポイント位置が掴めなかった。

 

ところが、元号の使用が義務付けされている今の職場に勤めるようになり、西暦で記憶していたことを平成という元号で置換させる必要から、元号早見表を作って携行し、使うようになった。それがなければ仕事に差し支えるほどだ。

 

思えば、元号は日本という国の中だけで用いられるローカルな「年代の符号」であり、国境を越えると通用しないものだから元号などなくしたほうがよいと考え人も少なくない。私もかつてはそうだった。それが、胸に日の丸がついていることをはっきりと意識するようになるにつれ、日本民族の勤勉さ、知的レベルの高さ、モラルの素晴らしさを誇りに思うようになり、併せて、独自性の高い元号への思い入れが私の中で大きくなっていった。

 

インバウンドの増加を嘆き、日本は日本人だけのもので、政府や財界は内需の拡充に努めるべきであるという主張が私の定言となってからは、いっそ鎖国を求めるべきだとさえ考えるようになっている。要するに私は「日本主義」なのだ。だから、もっと元号を多用しないといけないと感じている。

 

ふり返る年数を求める場合などは西暦で引き算する。若い頃は自ずと計算できた年数が、古希目前の今は、頭の中から換算係数が消え、早見表頼みという情けないことになっている。でも、頭を柔らかく保つためにも、怖い、怖い認知症から遠ざかるためにも、自分の頭の中で年数の引き算を出来るようにしておかなければならないと思う。

 

さて、私において平成とはどういう時代だったのか。それをふり返るにはもう少し時間をおかなければ出来ないような気がする。働き盛りの40代から60代をその平成で過ごしたからだ。がむしゃらに生きた「昭和」とは異なり、自分が熟成された期間であり、仕事や人生について自分なりの答えが見え始め、災害や病気と向き合うことになって、多くの教書の存在に気付いた時期でもあった。そんな大切な時期だけに、しっかりと分析、総括する必要がある。

 

「あなたにとって新たな令和という時代はどうあってほしいか」というインタビューをするテレビ番組を目にした。「戦争のない平和な時代」、「人々が心豊かに暮らせる時代」を願っているとのこと。でも、愚かにも主体を取り違えている。そういう時代は向こうから勝手にやって来るものではない。一人一人がそれを強く求め、そのために自分は何をしなければならないかを考え、動くことでようやく達成できるものなのだから・・・。ただ、元号が替わることで何かが変化するという気がする事も事実だ。それを現のものにするためにも、能動的に、積極的に生きなければ、と思っている。

気がつけば、服装が軽く、薄くなり、昼間の外出にはサングラスタイプの遠近両用眼鏡を使うになった。近隣の桜が満開になり、水がぬるみ、花粉に黄砂が混じる危険な空気が漂っている。もうすっかり春だ。薬の副作用で弱った眼には、景色が明るくなる事は痛みが伴うほどにつらいことではあるが、気持ちが明るくなる嬉しさの方が私には大きい。春はいい。息吹きが溢れる。抱えている様々な不安が払拭されるような気がする。

 

思えば、昨年晩秋からいろいろな事があった。特に気持ちを引き下げたのは、新たな癌が見つかったことだ。7年前に直面した病魔の怖さほどは感じなかったが、今後も身体は無風ではないのだということを思い知らされた。年末から様々な検査を繰り返し、1月下旬に入院、手術を受けた。経過は順調だ。今回の癌は転移の可能性は少ないが根絶は難しく、再発が起き易いようで、前回とは違った覚悟が必要だ。でも、罹ったことをくよくよしても仕方がない。医師薬石で「治る」ことを期待するのではなく、自分で「治す」という気持ちを強く持つべきだと心に言い聞かせている。

 

私には、前回の厳しかった病状を乗り越え、克服してきているという気持ちがある。目が開けられなかった。歩けなかった。物が持てなかった。食べられなかった。家の中で這いながら暮らした。様々な症状、痛みに苦しみながら、負けずに工夫を凝らして改善させ、そんな時期を乗り越えて、徐々に普通の暮らしが出来るようになり、年老いた自分がさらに成長していることに胸を張れるようになった。勿論、カミさんや家族、友人たちの力添えがあってのことだ。感謝という言葉は心底から湧いてくるものであるということを知った。だから、今回もきっと乗り越えられると信じている。

 

たまに顔を見せる娘や息子とその子供(つまり、孫)に会うことも楽しみだが、何よりもカミさんと二人で楽しく笑いながら暮らしていることがこの上ない喜びだ。休日はずっと一緒に過ごす。会話は少ないが、お互いを労わり、気遣い合う。でも、たまに口論もある。そんな時、詫びて近寄ろうとするのは私だ。A型のカミさんは気持ちの切り替えが容易にはできないのだ。私はというと、喧嘩してもカミさんには腹が立たない。ますますカミさんを好きになっているからだろう。今も仕事をしているが、そのおかげで、夕方に帰宅して顔をあわせる瞬間が一日の中で最も心躍る時となっている。

 

今のマイブームは、以前から続いているものだが、生姜と唐辛子だろう。生姜は摂取量を定めながら、生姜ココア、生姜ご飯、甘酢漬けなど形を変えて目一杯取り込んでいる。特に酷い冷え性ではないが、身体を冷やす事は免疫性を落とし、癌細胞の暗躍を許すことになるので、着衣を少し多い目にして、生姜で身体の芯から温めるようにしている。その上で、皮脂が分泌せずにひび割れる角質症の掌・足裏を少しでも改善させようと、末梢部の血行を促進させるためにカプサイシンを取るようにしている。いや、正直に言おう。そういう目的は後付で、要は香辛料が好きなのだ。激辛志向がますます強くなっている。

 

趣味については、今は特に食指を動かすものはない。ゆったりと音楽を聴く時間が減っている。元々、そういう時間は休日ぐらいしかないのだが、カミさんに帯同するほうが楽しいので、コーヒーをテーブルに置いて、本を読みながらクラシックを聴く、という姿はほとんど消えている。読書のBGMはイヤホンオーディオを使って、ある好きな歌手を聴き流している。POPS好きの私には珍しく演歌歌手だ。好きになって4年以上になる。これもマイブームといえるかもしれない。

 

最近、映画は観なくなった。実は、通院のあと、難波へ移動して観ようと思ったら上映スケジュールが変更されていたりして、クィーンのボヘ・ラプを観損ねている。ロングランでいつでも観られる、急がずともいいだろうとのうのうとしていた罰だ。なぜ、すぐに行かなかったのだろう。悔やまれてならない。

 

今年、満70歳を迎える。この節目に自動車運転免許証の更新もある。事前に高齢者講習を受けなければならない。このように、自分の暮らしが少しずつセピア色に染まってきている。いよいよ、まごうかたなき高齢者である。

 

先日、友人と天王寺七坂を巡った。育った土地でもあり、懐かしさと共に、今の歳の視点で見直していた。過ぎ去った年月での様変わりは仕方ないことだが、永く来ていなかったことがこれまた悔やまれて仕方ない。大阪には改めて訪ねたい場所がたくさんある。時間を作って・・・、いや、時間なら十分あるから、なし崩しで歩き回ろうと思う。マイブームといえるほどになるかな。

花冷えを通り越して、春の景色を冬に逆戻りさせるような寒波が来ている。だから、というわけではないが、この4連休ではあまり家から出なかった。映画を観に行きたかったが、連日、朝寝坊をしてしまい、午後からは、映画には行きたくないというカミさんと一緒にいる時間を減らしたくなかったので家にいることにして、観たい映画は、この連休中はあきらめた。一人で行ってもつまらないし・・・。いや、涙栓が壊れているためか映画を観てすぐに泣いてしまうので、カミさんとは行けない。これまでも泣いてしまったさんざん冷やかされてきた。どうやら、ウエットタイプの我が一族と、スーパードライのカミさんの一族とは民族が、人種が異なるような気がしてならない。

 

我が家は難波まで20分の立地なので映画は行く気になればいつでも観に行ける。と、開き直って、今日は昼食後に読書で時間をつぶした。読書好きの娘がもって来てくれた小説なのだが、その中で、抗癌剤で味覚障害となって体力を落とし、治療がしにくくなった妻の看病に疲弊している初老の男性が登場し、主人公をはじめ周囲の人たちが苦労しながらもその妻が食べられるものを拵えて食べさせるというくだりがあり、自分の体験が重なって、思わず涙を落とした。

 

思えば6年前の私がそうであった。退院し、術後3ヶ月の検査で肝臓に2箇所の転移が見つかったため、抗癌剤をより強いものに替え、その副作用で身体にさまざまな異常が起こり、苦しんだ。特に辛かったのは食べられなかったことだ。きつい抗癌剤に替えて半年ほど経った頃から、水も、出汁も、塩も、何を飲んでも、何を食べても、化学調味料のような味に感じて、嘔吐し、食べ物を受け付けなくなった。なんとか、点滴と、唯一飲めるカロリーメイトゼリーで生命をつないだ。65kgあった体重は49kgまで減り、腹部も、ふくらはぎも、スマートを通り越してガリ痩せ状態になった。

 

その他に、皮脂の分泌がとまったために足裏と手のひらが角化症になり、ひび割れたところがさらに抗癌剤の副作用で生傷となって広がり、なかなか治らず、一時は歩くことも出来なくて苦しんだ。また、目ヤニの成分が増した涙で目の涙道が塞がり、瞼がくっ付いて目を開けていられない状態にもなった。抗癌剤メーカーが発表している副作用は殆ど経験した。何よりも食べられない苦しみは本当につらく、癌患者にとって何よりも大切な「生きたい」という気持ちを摘み取ってしまい、死を意識したこともあった。

 

食べられるものはないかとあれこれ探しながらも、藁にもすがる心境で漢方薬局に飛び込んで失望したり、味付けを変えたりと、手当たり次第試食しては吐き出したりした。そんな時、友人がわざわざ黒門市場で惣菜を買って持って来てくれたことがあった。彼の御内儀がやはり抗癌剤で食べられなくなった時に咽喉が通ったものだということで、その心遣いに有難くて涙した。そして、食べた。今だから言えるが、実は食べられなかったのだ。でも、気持ちのこもった食材を大切に、吐き出さず、頑張って呑み込んだ。でも、不味かった。

 

その後もあきらめずに試食を繰り返したが、つらくても吐き出さないようになった。そのおかげで、3ヶ月を過ぎる頃から少しずつ食べられるようになり、ものの味が徐々に判るようになってきた。そして、半年を過ぎる頃から大抵のものが咽喉を通るようになって行った。

 

食べられる喜びを知った。食べ物が美味しいということは何よりの幸せなのだということを痛感した。歩行などはまだ苦労していたが、それも1年間続いた抗癌剤投与を終えて半年ほど経った頃(つまり、術後1年9ヶ月頃)に、医師の勧めで仕事に就いてから目に見えて快復し始めた。当初はステッキを使ってゆっくりしか歩けなかったのに、普通に歩けるようになった。服のボタンもとめられるようになった。

 

出来て当たり前の事が出来るようになった。心から嬉しいと思った。その気持ちは今も変わらない。副作用の後遺症は今も残っており、汗や皮脂の分泌はまだなく、目ヤニにも苦しめられている。でも、様々な工夫で、いくらかでも苦しさを和らげることが出来るようになった。元通りには戻っていないが、殆ど何も出来なかったころの事を考えると、天国と地獄ほどの差異はある。有難いことだ。支えてくれた妻や、励ましてくれた家族、友人たちに心底から感謝している。

 

今は何でも食べる。何でも美味しい。逆に、食べ過ぎて困っている。BMIは25の壁をしっかり超えてしまった。職場で支給される制服のズボンがきつくなり、10cm太いものに替えてもらった。自己管理能力の欠如が問われるかもしれない。

2月4日は立春で、暦の上では春に入る。そういう大きな節目の日で、誰もが知っているはずの日なのだが、どうもその前日の方がよく知られている。季節の変わり目という病の多い時期に闊歩する鬼、つまり邪気(病魔)を追い払うために、豆を撒き、門口に柊の枝や鰯の頭を飾ってその鋭く尖った先端で目を突いて鬼を退散させ、穏やかな季節を迎えようとする様々な節分の行事があるからだろう。

 

2月4日は一年で最も寒い時期にあたり、春と呼ぶには程遠い気候の中にある。それ故に立春は実感のない暦上の言葉だけのものになっているのかもしれない。でも、春の到来を早めたいという気持ちから、この日より春として扱おうとする意気は大いに評価できる。春は私が一年で一番好きな季節なのだから。

 

我が家でも節分の行事はずっと続けられている。柊や鰯を飾ったり、豆を撒いたりはしないが、福豆を歳の数に一つ足して食べ、ぜんざいを食べ、恵方を向いて無言で巻寿司を丸かぶりする。この恵方巻はコンビニエンスストアが仕掛けてブームになるよりもずっと昔から大阪では行なわれており、私は子供の頃から豆まきよりも楽しみにしていた。巻寿司はご馳走の一つだった。

 

それにしても、恵方巻ほど便乗性の強い食べ物はないかもしれない。クリスマスケーキもバレンタインチョコレートも一時の勢いはなくなっているが、恵方巻は過剰生産による余剰分の廃棄にニュースの焦点が当たり、そのブームはもっと急激に衰退しているようだ。ある意味でざまあ見ろと言いたい。ここ十数年、この時期に普通の海苔巻が店頭から姿を消し、やたら高額な海苔巻が売り場に並ぶ。そんな便乗商法には辟易する。寿司屋やスーパーは予約を取り、廃棄を少なくしようと躍起である。でも、関東圏など、近畿からは遠い地方から廃れ始めているのは確かだ。

 

今年、私は自分で巻寿司を作ろうと思ったのだが、カミさんは高いのを予約したようだ。大っぴらに夕食が手抜き出来るからカミさんはむしろ喜んでいるのだ。困ったものだが、主婦はそういう考えを持っているのだと改めて思った。相手はカミさんだ。従うしかない。だから、ブームが去って、昔のように普通に巻寿司を買える日が再びやってくることを願っている。

 

立春、流感(流行性感冒、つまりインフルエンザ)が流行っているこんな寒い時期にこそ、暦のスタートである春を立ち上げる意味があるというものだ。春よ来い、早く来い。明日はもう「春」なのだな。嬉しい。

 

それにしても、寒い。

私が20歳の成人の日を迎えたのは千葉三里塚の農家で、だった。なぜ、そこにいたのか、声高に言えるものではないが、青春の足跡の一つとして消えることのない自分史の一段である。あれから49年、頭に記憶されたシーンはかなり断片的になっているが、所々で鮮明な画像が蘇る。特に、雪に覆われた畑で作業したことや、納豆の入った独特の雑煮の味は今もはっきりと覚えている。

 

そういうわけで、私は千葉にいて大阪市が催す成人式には出なかった。また、そのような儀式にはまるで興味がなく、役所からの通知も見ずに捨てていた。成人の日というものに意義を見出そうとはしなかった。大人になるという事にはそれなりに自覚を持っていたが、だからどうしなければならないという思考は生じなかった。いわば、成り行き任せの人生そのものだった。ただ、子供の頃から口すっぱく言われた事は、武士の家系であり、元服を終え、自立すべき年齢なのだということ。そういう親の教えに抗うことを常に意識していた。親不孝息子だった。

 

国民の祝日である成人の日が今のように移動祝日となったのは2000年からで、それまでは1月15日と決まっていた。この日は小正月と呼ばれ、正月行事の一つの節に当たる日で、この日をもって正月を終える地方は今も多い。餅をついたり、小豆粥を食べたりしたようで、私自身も子供の頃に我が家がそういう習慣に倣っていたことを覚えている。午前中に松飾り等を外した。家の中も正月色を払拭し、常の暮らしに戻る日だった。

 

この時期、気候的には寒さのピークを迎え、私の小学生時代は石炭ストーブの煙が教室の外で立ち昇っていた。流行性感冒(インフルエンザ)が蔓延して学級閉鎖がよく発表されたが、なぜか私は学級閉鎖に与った経験はなく、休める子らを羨ましく思った。子供は風の子というが、貧乏人の子である私は薄着、半ズボンで平気だった。隙間風の入る家で、暖房具は火鉢だけだった。でも、寝込む事は殆どなかった。ま、今流にかっこよく言えば野性的だが、要するに放ったらかしの子供だった。風邪を引いたら干したみかんの皮を煎じて飲まされた。それで治った。今思えば、クエン酸の力なのだろう。

 

街角に置かれているセメント製の用水桶に氷が張っていた。夜に雨が降って明け方に晴れた日は、道路にも氷が張って、滑って転んだりした。小商売人の家では、夜に洗濯すると翌朝にパリパリに凍った洗濯物が干してあったりした。大阪では今は見かけなくなった冬の景色だ。うどん屋で食べる熱い素うどんがご馳走だった。広っぱのあちらこちらでとんと(焚き火)をしていて、芋を焼いたりした。あれも美味しかった。

 

家では歌留多遊びをよくしていたから、子供の頃から歌留多取りは強かった。特に、母が百人一首を好んでしていたので、私は子供の頃から百首を覚えていて、意味もおぼろげに理解していたと思う。恋の歌が多いことも判っていた。少しおませだったのかもしれない。一月は歌留多月だった。

 

冬という、心も身体も縮みがちな季節は今も好きではないが、子供の頃の思い出には風情があったと思う。69歳の今、街の動きに心を動かされることはめっきり減ってしまったが、古い写真を引っ張り出して、想い出に浸るだけでも心が温かくなる。昔を振り返る事は悪いことではないと思えるようになってきた。