hummingmintさんのブログで面白い話が出てたので、またまた勝手ながらリブログさせてもらいます。了解は得ていません…
中国語の声調は4種類ある、と正確な表記をされています。
一声から四声、と言わないのはhummingmintさんの見識の高さがうかがえますね。
一昔前まで、陽平・陰平・上声・去声の四声(しせい)、と言っていて、第一声とか第二声とかの言い方が普及し始めたのはこの20年ぐらいかな?
番号で声調を区別すると、中国語の理解が「薄っぺらく底が浅い」ことになるので、お勧めしません。まぁ、意味が通じればそれでいい、と言う人の方が多いのが実態だとは思うから、止めませんけどね。
ところで、声調が四種類、と言うのは「普通话」、日本語的に言えば共通語の世界の話で、実際はもっと多いんです。
以前、ごく簡単に触れただけで細かいことはほったらかしにしてたんだけど。
漢代にインドから仏教が伝来して、当時の漢民族は自らの言語文化の分析を迫られたわけです。
大事な経典を漢語に翻訳する必要があるけれど、当然漢帝国には存在しない概念や物理的な事象がインドの経典には記載されているわけですよ。
音訳するか意訳するかして、とにかく漢字にしなければならない。
意訳は難しいですよね、ガンジス川、なんて意味を訳すことはできないんだから。
だからどうしたって音訳が多くなるけど、その時に漢帝国の知識人は「おや、自分たちがしゃべっている言葉にはインドの言葉と全く違う性質があるようだぞ?」と気が付くわけです。
そして音韻体系を整理していくうちに、どうやら漢帝国の用いている言葉に組み込まれている音韻体系はこんな性質がある…と分かったころに漢帝国は魏・呉・蜀の三国に分裂、三国時代から魏晋南北朝時代の混乱期に入ります。
タラ・レバを言っても仕方ないのですが、せめて南北朝時代が無く三国志の時代からそのまま晋が政権を維持していれば、もう少し中国語は分かり易くなっていたかもしれない。
と言うのは、漢代の音韻は魏晋南北朝から隋・唐に移行する過程で北方鮮卑族の言葉が入り込んで、春秋時代から漢代までの音韻体系とは少し変わってしまったようだ、という事情があるからです。
いずれにせよ、音韻は唐代に改めて整理され、「平声・上声・去声・入声」の四声があることが確認され、さらに陰と陽に分かれて(清音と濁音に分かれて)、陽平・陰平・陽上・陰上・陽去・陰去・陽入・陰入の八声で一旦確定します。
この八声が伝統的な漢詩では「押韻」として韻を踏む時に第jな役割を果たしますが、悲しいことに唐が滅び五代十国の混乱から宋、元と時代が移ると、もう唐代の発音も漢代の発音も忘れられていて、書物でしか確認できない。
勿論春秋戦国の発音なんか皆目見当がつかないわけですが、孔子様の大事な教えは春秋とか易とか詩経とか…に「春秋時代の言葉」で書いてあるから、何とか発音を取り戻そうという学者さんは、いることはいたんです。
でもねぇ…決してうまくいったとは言えず、元の時代にはモンゴル人が、清の時代には満州人が漢民族の音韻体系をバラバラにしてしまったんですよね。
北京方言は陽平・陰平・上声・去声が残り、入声は失われて各声に分散しました。
で、これが今の中国語の四声となっているんですが、広東語には陽平・陰平・陽上・陰上・陽去・陰去・陽入・陰入の八声が残っていて、これは中原の混乱を避けた人人が南に逃げて、そのまま音韻体系が起こったためだ、とか、柳田邦夫の蝸牛考よろしく、文化の伝播が広東省に到達したころに北京が文化の中心になったから取り残されたんだ、とか、いろんな言い方がされてますけど、まぁそれはどうでもいいかな。
長々書いたけど、結局「なぜ漢語に声調が必要とされたのか」については、私見ですが活用の名残だと思っています。
名詞と動詞で声調が異なる単語がありますよね。
教える、と教え。数える、と数。量ると秤…などなど、数は多くありませんが。
今の中国語は動詞に活用が無いので虚詞や補語を使って時制や方向を示すことになりますが、どうやら春秋時代には活用があった可能性が指摘されています。
これが声調を必要とした根拠かも知れない、その名残が4000年たってもまだ現代中国語に残ってるぞ、と勝手に思っています。