寅さんは建国日も知らないし | こりあうぉっちんぐ

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2018/8/26 朝鮮日報

【コラム】自縄自縛の文在寅外交

 

 

 

 

 韓国マスコミは、北朝鮮の9・9節を「北朝鮮の政権樹立70周年」と表現した。1948年8月15日の韓国建国の意味を「大韓民国政府樹立」程度に縮小する物差しを、北朝鮮にも適用したのだ。9・9節は北朝鮮の建国節だ。金正恩(キム・ジョンウン)委員長は新年の辞で「偉大なる首領様と将軍様の最大の愛国遺産たるわが国家の創建70周年」だとして「大慶事」と述べた。

 

 韓国の建国日は1948年8月15日だ。1910年の国権喪失以降、韓民族が国際法的に国民・領土・政府を回復した日は、この日だけだところが文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2年前、「8月15日建国」の主張について「韓国の正統性を自ら否定する間抜けな主張」だと言った。大統領になった後、その延長線上で「(2019年3月1日が)韓国の建国100周年」だと主張した。この点では、金正恩委員長の思考が合理的だ。

 

 三・一運動と大韓民国臨時政府は輝かしい歴史だ。憲法の文言の通り、韓国の法統はここから出発している。彼らが蓄積した努力と国際情勢の変化の結果、1948年8月15日に韓国が建国された。これは歴史観によって別な見方がなされる問題ではない。ありのままの「事実」だ。三・一運動を称賛して48年8月15日を無視する理由はない。ところが韓国政府が乗り出して踏みにじっている。初代大統領・李承晩(イ・スンマン)を認めたくないという我執のせいだ。我執が、「建国70周年」の足跡を韓国の地から消し去った。その空白に、北朝鮮が魔物のように飛び付いた。「南南対立」を狙って「首領様と将軍様の最大の遺産」たる「国家創建70周年」をねじ込んできたのだ。

 

(中略)

 政権指導部の中心には、韓国の歴史を誤って学んだ人物が多い。韓国が高度成長を成し遂げて経済大国の列に加わろうとしていたとき、この国は「国家独占資本主義なのか、新植民地半封建社会なのか」を巡って夜通し論争をしていた人々だ。「間抜け」とはこういうことをいう。韓国は親日派ではなく、愛国志士が建設した。世界の新生国家の中では最も早く土地改革を成し遂げ、革新的な企業と愛国的な官僚が国を育て、旧帝国主義国を最も賢く活用して経済自立を達成した。新生国家の中で、韓国ほど産業化を基盤に民主主義を安定して定着させた国はない

 こうした成功は、70年前の8月15日に建国された大韓民国が、政治システムに自由民主主義、経済システムに市場主義と国際主義、外交と安全保障に韓米同盟を選んだから可能だった。きちんと勉強すれば、中学生でもこの事実を理解する。韓国の現政権が北朝鮮向けにバラマキをしようと焦ってもできない理由、これもまた70年前に建国の英雄たちが設計したシステムを超えることができないからだ。

 国の歴史に対する知識と愛情なしに、外交をしてはならない。そんなことをしても、ホームレスのように世界の舞台をさまようだけだ。


鮮于鉦(ソンウ・ジョン)社会部長

 

 

 

1 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/08/24/2018082401685.html?ent_rank_news

 

2 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/08/24/2018082401685_2.html

 

3 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/08/24/2018082401685_3.html

 

 

引用ここまで

 

 

 緑色の文字列は関連記事へのリンクです

 

 

 別にどうでもいいんですが、イデオロギーとかでいがみ合っている国は大変ですねえ。

 

 司馬遼太郎も、朝鮮人は政治論理が鋭い・・・・・と書いていたかと思いましたが、別に誉め言葉ではないと思いますよ。

 

 日本の場合は関ケ原にしろ明治維新にしろ、朝鮮社会では経験出来ないほどの大きな改革でしたが、イデオロギーで争ったわけではないですから、敗者もすぐに新しい体制に組み込まれていきました。

 

 長州藩も薩摩藩も関ケ原の敗者ですが、藩は江戸時代を通じて存続し、200数十年後の明治維新では徳川幕府を倒す原動力になりました。

 そして倒された徳川幕府でも最後の将軍、徳川慶喜も宗家を継いだ徳川家達ものちに公爵に叙爵されていました。

 

 別にイデオロギーの違いで争ったわけではありませんから、決定的な対立にはならないんですね。尊王思想などは志士にも幕府にも共通していましたから。

 

 とにかく尊王攘夷というイデオロギーで幕府を倒した明治政府はさっさと攘夷など捨ててしまったのです。

 ナントカいう薩摩の三流志士が討幕後に、さあ、これからは攘夷じゃ、と張り切っていたら、西郷どんに、攘夷は幕府を倒すための手段よ、とたしなめられ、さっさと開国派に転向したとかいう話もあります。

 

 政治論理の鋭い国は大変ですねえ。建国がいつであるかということすら国内では一致していないんです。

 

 

 

 

 

 

 

 お前たちの命日は・・・・・・