1993年秋頃のマンション。2階の奥階段前
が207号室
12年振りになるでしょうか・・・・・
息子の最期の地となった夙川のマンションがあった地に立ったのは。
1月16日、震災から17年目の前日に私は西宮市震災犠牲者追悼の慰霊碑を訪ねましたが、その足で夙川のマンション跡地も訪ねました。
息子が亡くなって5年までは毎年お花を手向け、彼に会いに行っていました。
やがて建物も解体され撤去後、整地もされてその跡地には戸建て住宅が数軒建ち並びました。
そして次々入居される頃になると、私は心を塞ぎその場所に足を向けることができなくなりました。
もう二度と行けないと思っていましたが、心のどこかでは最も気にかかる場所として、落ち着かない日々を過ごしていました。
でも今年は行けるような気がして、心友の松本さんにお願いしてみました。
彼女は一瞬顔を強ばらせましたが、「行ってみる?」と私の気持ちを確かめるように優しく応えてくれました。
あぁ・・・・・
マンションの敷地はどの辺りだったのでしょう?
当時とは全く風景も違い敷地であった境界も分かりませんでしたが、その時ふと思い出したものがありました。
敷地より少し高い夙川の堤に登ると、マンションの真正面に当たる場所に桜の幼木が植栽されていたのです。
震災後、私は毎年その桜の木の幹に耳を当て問い続けていたのです。
《貴光がこのマンションに住み始めて最期の刻まで、あなたはずっと見守り続けてくれました。あの子が最期に何を思い何を叫んで逝ったのか、あなたは知っていますよね。どうか最期の叫びを教えてください・・・・・》
この地を訪ねる度に、狂ったようにこの木に問い続けました。
この度、堤に立ち桜の幼木を探してみました。
ありました。
枯れないで元気に育ってくれていました。
12年も経てばやはり成長しています。
命あるものは日々成長するのですね。
その木の横に立って正面に立ち並ぶ住宅を見ていると、はっきり思い出しました。
それらの家々には何事も無かったかのように生活の香りがしていました。私の立ってる場所と住宅の間には、近くて遠い時間が流れていたことを思い知らされ、ドッと涙が溢れてしまいました。
どこの街や村でも過去の歴史の中で、辛くて哀しい出来事はたくさんあっても、その上に現代人は営みを積んで生きてゆく・・・・・当たり前のように。
私もそうして生きてきたのです。
これも体験してみないと分からなかったことなのです。
今私たちが何気なく歩き生活している地の下には、多くの汗と血と涙が埋もれているのですね。
思い切って夙川を訪ね、多くの想いを廻らせ自分の心を見つめる時間を持てたことに安堵した日でした。