あなたは「10代」にどんなイメージを持っているだろうか。

きっと多くの人々が思い浮かべるのは、キラキラした甘い青春だろう。子どもより出来ることが増え、大人ほど責任を背負わずにすむ。制服や部活や文化祭・体育祭といった学校行事など、瑞々しく学生らしい雰囲気に、甘酸っぱいノスタルジーを感じる大人は多い。

しかしながら、私にとって10代はドン底の暗黒時代でしかなかった。そんな10代を過ごして気づいたこと、今悩んでいる人々(特にティーンズ)に伝えたいことを今回は書いていく。

10代の私に何があったか、まずはざっくり年齢ごとに分けて振り返ってみる。



​10歳になりたての頃

私は小学校低学年から、ピアノを習わされていた。自分でやりたいと思ったわけではなく興味もなかったのだが、特にこちらの意思が確認されることはなく、完全に大人の意向でされるがままになっていた。それでも、小学校低学年頃までは「なんか習わされてるな」ぐらいにしか思わなかった。「ピアノ」という物体やそこから出る音、初めてのレッスンブックや教室や発表会の雰囲気、先生がおまけでくれるシールなど...詳しいレッスン内容に関心が向かなくとも、とにかく「雰囲気を楽しむ」だけでも年齢的には充分だった。

ところが小学4年生の頃、ちょうど10歳に差し掛かった時、段々と自我が芽生えてきて「何で私は興味のないピアノをやらされているんだろう。他にもっと楽しいことがあるのに」という気持ちになったことを覚えている。父に辞めたいと申し出ても、怒り声で「続けろ!辞めるな!」と押さえつけられるだけで(日頃から粗暴で物言いがキツいし、何か反抗を絶対に許さない雰囲気なのだ)、結局逆らえずに中学卒業まで続けた。ピアノの先生に初めて、不機嫌そうだと指摘された。

何回もこのブログに書いているように、私は元々「場面緘黙症」で「緘黙児」だったのだが、そんな自分にはっきりとした違和感を持ち始めたのもこの頃だ。10歳になっても挨拶すら難しく、学校で担任の先生と挨拶の練習をしている、けど先生はそれに関して叱る等の反応をしない。親に伝えることもない。低学年の頃からクラスで浮いてはいたのだが、年齢が上がるにつれだんだん意識が高まり、自分はおかしいんじゃないか...という気持ちばかりが募っていった。



​小学校高学年〜中学生の頃

段々と多感になり複雑な感情を持つようになる、この悪いタイミングで大規模な災害があり、家族で遠方の祖父母宅に引っ越すことになった。必然的に転校しなければならなくなり、緘黙児で環境の変化(による不安)に弱い、もともと人から注目されることを嫌う私には、言うまでもなく苦行だった。前の学校で上手くクラスに馴染めなかったにもかかわらず、急に転校生としてチヤホヤされ始め、どっと疲れが出てきたのだ。ただでさえ慣れない環境で緊張しているのに、ことある度に「minちゃん!minちゃん!」と声をかけられるのだから。さらに今まではただ遊びに行くだけだった場所の祖父母宅が、今度は祖父母と同居して暮らす生活の場になってしまい、遊びに来てただけの時は優しく甘かった祖父母が、徐々に私たち兄弟の悪い部分(騒がしい、気が利かないetc.)に目が行くようになり、当然ながら衝突が増えた。子どもにしてみても、今まで優しかった祖父母に態度を変えられたことはショックだった。暇な時に社交的な祖母に遊んでもらおうとしたら、「私じゃなくて、友達と遊びなさい!」「友達と遊ばないとダメよ」と顔をしかめながら叱られた。このたったの一言二言が、前の学校で上手くいっていない、かつ思春期の入り口に立った社交不安の私には重かったな。子ども時代(特に思春期)は一言一言が重いんだよね...。

仕方なく両親と私たち子どもは別の場所に引っ越すことになったのだが、家賃の安さを重視したため住環境が悪く、部屋は日当たりが悪く常にカビが生えていた。そのせいか私は通年アレルギー性鼻炎になり、一年中鼻水とクシャミで頭が回らず苦しかった。一日中鼻水が止まらない状態で、かなり重度だったと思う。次第に私は精神が病み、多少ならクラスメイトと会話したり遊んだりできるレベルだった緘黙が、誰とも遊べない、学校で一言も話せないレベルにまで悪化した。年齢が上がるにつれますます自意識過剰になり、こんなに他人とまともに話せずおかしいのは、世界にたった一人、私だけなんだろうと思い込んだ。皆友達がいて楽しそうななか、自分だけがポツンと浮いている孤独感が、非常に私の精神を荒れさせる事態となったのだ。精神の悪化は緘黙だけでは終わらず、人に顔(表情)を見られたくないが故に極限まで顔を机に近づけて授業を受ける(これが原因で一気に近視に)、手で顔を隠したまま一日中過ごす、などの異常な行動をとるようになった。

もしかしたら、この急激な精神悪化に拍車をかけたのかもと疑っているのが、父が急な思いつきで私たち子どもに学校を休ませて、家族で海外に旅行に行ったことだ(父本人からも「あの時は申し訳なかった」と後で謝罪された)。一見するとただ愉快で楽しそうだが、旅行の始まりには「学校を休ませるなんて」と渋る母や私と、「旅行に行かないなら、絶対離婚するぞ!!」と言い張って止まない怒鳴り声の父がいた。まだまだ子どもだったため冗談や脅しの概念が薄く、こんなことで関係が崩れるほどの、吹いて飛ぶような夫婦関係なのか、と本気でガッカリしていた。基本的に真面目かつ初めての出来事に弱い私には、この初めての学校サボりと海外旅行は、確実に精神的な負担だった記憶がある。

幼い頃は絵(イラスト)を描くことや絵本作りが好きで、それが一番の生きがいでもあったのだが、中学で美術の授業が始まって以降は本格的な絵画についていけず、「自分は絵(イラスト)に関心がなかったのか」と落胆し、絵から遠ざかるようになった。入部した絵画部で、漫画イラスト禁止令が出たのも大きいかもしれない。イラストレーターになるのが昔からの夢だったが、多くの家庭と同様に、父に伝えると「なれるわけない、食っていけるわけない」と即座に反対された。こうして本格的に無趣味になり、ストレス発散法や暇の潰し方が分からなくなってきた。

この頃、両親に連れられて児童精神科や霊媒師のおばさん(!?)のところに通っていて、高額な金銭が飛んでいったけど、結局症状が良くなることは無かった。どっちも私の話に耳を傾けもしなかったな。ただただ事務的に箱庭療法をやらされたり、お祓いのために何時間も寝かされたりした。両親も私が何故そんなに病んでいるのか、理由を聞くことは無かった。

そんなこんなで勉強に集中できるわけがなく、先生に溜め息をつかれるほど、学校の成績は微妙だった。もしこの引っ越しがなければ、私の人生はかなり変わっていただろう。高校受験では結局、精神崩壊を機にお世話になっていたスクールカウンセラーの意見に流され、近くの高校に通うことになった。こことは別に憧れていた高校があったが、内申点が合格値に届かず諦めた。



​高校生〜大学生(19歳)の頃

私にとって、小学校高学年から中学生までが「病み」の時代だとすれば、高校生から19歳頃までは「無気力」の時代だ。

中学生活が終わりに近づいた頃、私たち家族は霊媒師を通じて、とうとう場面緘黙症の存在を知った。私は「こういう苦しみを背負っているのは私だけでは無かったのだ」と安堵すると同時に、無闇に顔を隠したりしなくなり、緘黙も改善して多少であれば言葉を交わせる、一見普通の状態に戻った。しかし病名を持っているからといって、コンプレックスが無くなるわけではなく、劣等感や被害者意識が強かった。また病名を理由に配慮されたことは全くなく、高校は全日制の普通科に通ったし、父には毎日夕食の度に「甘えだ」「話せ」と責められ続けていた。頻繁に他の話せる兄弟と比べられ貶され、「将来おまえなんかが雇ってもらえるわけがない、食べていけない」が決まり文句だった。特定の友達と遊ぶよう促されたり、部活やサークルやアルバイトを指定されたりし(逆に私が入りたいと言った部活は断られた)、強引に人付き合いをしなければならない環境に追い込まれた。親以外の周囲の大人たちも、そのように接してきた。

しかしながら、自分に自信がない不満だらけの状況で、積極的に人と関わろうとする意欲が湧くわけがなく、孤独感に苛まれる一方で友達付き合いは全く出来なかった。異様な「病み」の状態から解放されただけで、まだまだ頑張れない、何事にも関心が持てず生きる気力が決定的に欠けている。そういう状況なのに、周囲からすれば「余裕が出てきて頑張り時」に見えてしまうのだ。周囲からのバッシングが一番酷かったのがこの時期である。このバッシングに、真正面から向き合うだけの気力は私には無かった。例えば部活を勝手に決められて憤慨はしても、そこから自分の入りたい部活を新たに探すことは出来ず(そもそも人付き合いをする気力がないため)、渋々入部はするけれども、反抗期ゆえの幼稚さで周囲とは関わろうとしない、拗ねた子どものような青年だったのだ。嫌で辞めようとしても、周囲からのバッシングが酷ければ辞められずに従ってしまうが、内心は不貞腐れたまま...。何故なら「従わないなら学校を辞めさせるぞ!」が父の脅し文句だったから。なんで自分で意思決定が出来ないのだろう、と疑問を抱きつつも従うしかなかったのだ。抵抗しても意味のない状況で無気力になり、周囲の状況に流され受動的な人生になる。いわゆる学習性無気力というやつである。大学生になると、父は今度は私にだけ小遣いを禁止し、近場のアルバイトに受かるよう圧をかけてきた。必死に面接するも受からず、気力が落ちていく。やっと一年生の秋にアルバイト先が決まるが、そこはパワハラが蔓延する、典型的な体育会系飲食店だった。人格否定や歳下との比較は当たり前。どんどん追い詰められていった。※詳しくは以下の記事を参照



本格的に進路を決定しなければならない高校生の時期に、何に対しても無関心、無気力。またもや他人の意見に流され、何となくで大学や学科を選んでしまった。そして自分より真剣に進路に向き合っている友人を見ては、自己卑下は強まる一方...。

変な話、中学で近視になって眼鏡をかけるようになってから、そのまま「陰キャ」「眼鏡キャラ」のイメージが定着してしまい、陽キャ的な人々に対して劣等感や抵抗を持つようになった。私のいかにも陰キャな見た目は、度々大人による「もっと外向的になれ」という主旨の説教にも持ち出された。学校では大人しいタイプの子と連んでいたが、相性が悪かったり、私自身がネガティブなメンヘラで相手をウンザリさせていたりで、友人関係は長く続かなかった。

相変わらず鼻炎に悩まされ、15歳前後で迎えた生理も上手く処理が出来なかったが、それらを解決するために動こうという気力すら湧かず、19歳までを鼻水と血にまみれて過ごしたのだから、相当病的な無気力だったと言える。



​まとめ 〜病んだ原因と幸せの秘訣〜

10代で心を病んだ原因としては、やはり思春期に入り自我が芽生え、親の過干渉に抵抗が出てきたことと、自分を客観的に見るようになり、緘黙児である自分の異様さや「普通でなければならない」プレッシャーに負けてしまったことが大きい。加えて自分の場面緘黙の特性的に、環境の変化に弱過ぎるのだなと改めて感じた。特性上の弱点を刺激される環境で、人間はここまで病むのか、と。

「小1ギャップ」や「中1ギャップ」といった言葉が代表するように、日本では学年や年齢が一つ変わるだけで、急に別の段階を求められるようになる。私の場合も、それに心がついていけなかったようだ。場面緘黙児は、年齢が上がるにつれ周囲との違和感が増し、集団内での居心地が悪くなる。さらに趣味がぬいぐるみ遊びや絵本づくりのような、小児要素の濃いものだった私は、中学以降はもう少し大人な趣味にシフトしなければならなかった。

場面緘黙ゆえに周囲の人々と接した時、妙に心に距離感があるというか、心が通い合わない。いや緘黙じゃなくても、あの親の過干渉ぶりやアルバイト先の大人達の態度などを思い返すと、色々と複雑な気持ちになるに違いない。

反省点としては、「こうしなければ、ああしなければ」に囚われ過ぎず、もっと純粋に生きることを楽しめば良かったと思う。あぁ夕日が綺麗だなぁとか、その程度のことだ。これは大人になるにつれ薄れていく感情のような気がする。何か目的を持って頑張るのは、どちらかと言えばその延長線上にある。まだ充分に病みから回復していない段階で、自分の欠点ばかりに目を向けていると、かえって心の回復が遅れる。

また自分の気持ちばかりではなく、周囲の立場に立ってものを考える能力があれば、もう少しマシな10代になっただろう。例えば

「祖父母は途中で態度を変えたけど、本当は自分たちのことを愛している」

「親はうるさいけど、それだけ自分が心配をかけてしまっている。本当は自分の幸せを望んでいて、過干渉はその裏返しだ」

「兄弟は自分との比較対象にされて、遠回しに褒められているのが憎いけど、いつもいつも、姉への暴言を聞かされるのも疲れるだろう。その証拠に、(特に父に対し)自己主張や覇気のない性格になってしまっている」

といったことだ。

何か乗り越えなければならない課題があるのなら、そこで尻込みせず、どうしたら解決できるのか熟考する必要がある。10代の私を振り返ると、解決策を生み出すどころか、何もやらない・挑戦しないうちから「自分には無理だ」と諦める傾向があった。緘黙に関しても、自分から積極的に話しかけて友達をつくる前から、「どうせ嫌われる」と思い込んでいた。親の過干渉が嫌ならもっと自主的に行動して、親が干渉しないような生活態度を心がけるべきだっただろう。

色々原因を書いてきたが、これらを解決できなかった根本には、圧倒的な自己肯定感の低さがあり、自分を肯定できる環境が何よりも大事だと感じる。日々過ごしていて「愛情はあっても尊厳がない」と感じる瞬間は多い。※詳しくは以下の記事を参照



まずは自分や他人の生を肯定できること。そこからがスタートだ。