新国立劇場・小劇場でSISカンパニーの「友達」を観た。

安部公房の50年以上前の戯曲をテレビ(「俺のスカート、どこ行った?」の脚本)、映画、舞台(「MISHIMA2020」で「真夏の死」の作・演出、「劇団た組」の主宰)と多方面での活躍が目覚ましい27歳の加藤拓也が演出、SISカンパニー所属俳優陣(鈴木浩介、浅野和之、キムラ緑子、西尾まり、鷲尾真知子)に加え、有村架純、林遣都、山崎一 など豪華な俳優陣が顔を揃えた舞台。

 

先日シアタートラムで観たケラ演出の「砂の女」に次いでの安部公房の代表作の舞台観劇となった。

 

 

ある日突然見知らぬ家族(?)が部屋にやって来て、居座り始める。多数の理論から部屋の主である男(鈴木浩介)は侵入者である家族に実権を握られ、支配されていく。一家は誰も働かず家でそれぞれに過ごしていて、父親(山崎一)は男の財布と預金通帳を管理、長男(林遣都)は家の雑用で忙しい男の代わりに男の恋人(西尾まり)とデートをしている。男の唯一の味方(?)と思われるのは何かと手を貸してくれる次女(有村架純)だけだ。ある日、そんな彼女にちらりとこぼした本音から事態はあらぬ方向へ。

 

舞台の全面が男のアパートの部屋となっている。中央の床面に玄関扉が横たわっていて、冒頭、その扉のノックに反応し、男が扉を開ける(地面の扉を上へ引き上げる)とその瞬間、彼の悪夢が始まる—望まない訪問者が床下からドカドカと部屋へ入ってきてスーツケースを開け、夕食の準備を始める。外界とをつなぐこの扉からは時に通報を受けて駆けつけた警官、様子を見に来た大家が顔を出すが、彼らはロープに繋がれていて、すぐに元の外の世界へ戻って行く。

 

演出の加藤はパンフレットの中で、50年前に書かれたこの戯曲の"民主主義というラベルがついた共同体が柔和な微笑みの裏であらわにする暴力"に関して「作品に描かれている共同体は、今の時代でもまったく変わらず存在していることに気づきます。この家族をインターネットの世界に置き換えるとイメージしやすいと思います、、、」と数の理論、数の暴力が顔のない大多数—世間の常識、世間を代表する意見—となって個人を追いつめる状況は今日でも変わらずあると話している。この解釈があるからこそ、この戯曲を今上演する意義があるのだと思う。ちなみに彼は今の観客にこの戯曲を届けるため、より自然な現代口語にした上演台本を書いている。

 

「砂の女」と「友達」とで重なるテーマを—名も無い共同体の暴力性、男女の色恋の理屈抜きのエネルギー、共同体による異端告発など—いくつも見つけることができるのは、不条理劇と一言で言っても、やはりそこには作家の思いが貫かれているからだろう。

———この共同体の暴力というテーマから、やはり先日観た野田秀樹作「カノン」も思い起こされた。

 

今回の舞台で言うと、ちょっと華やかすぎるキャストの、どうしても時に顔を出してしまうそれぞれの「芸達者ぶり」が少し鼻についた。例えば、群衆の中での大声はドラマをつくりすぎで、家族はあくまでも淡々とそこにいる方が状況を恐ろしくさせる。

 

その中で、主役の男を演じた鈴木浩介はまさに当たり役だった。翻弄される、それも不条理に翻弄される男にぴったりだ。

 

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今朝(日曜日)のニュース番組を観ていていたら、今回の総裁選がらみのコメントで自民党のポリシーの話で、安倍政権下で出された憲法改正案の草案の中では、新しい国のあり方として個人よりも家族で助け合うような社会の実現を目指す—つまり、個人を家族という共同体に埋没させる—とうたっていることを指摘していたが、、これってまさに「友達」の世界そのもの。

ネット社会だけでなく、現実世界でも今、この劇で示唆されているような恐ろしいことが起こっているということですね〜。ぞ〜〜〜〜。