痛み、苦しみの存在を
数年前の鬱病の診断から、回復しない問題として、「楽しい」や「幸福」という感覚が日を追うごとに無くなっている。
でも、何で「苦しい、悲しい」という感情は残る。
苦しみがあっても何も楽しめない。
望む未来が無くなって、本当の「絶望」ってこういう事なのかと思う。
苦しみや痛みの存在のみの世界だ。
「苦しみ」や「痛み」が無くなって、「楽しいだけ」なら良いのに。
と、何度も思った。
でも、「苦しみ」や「悲しみ」が、もし感じなくなったら?
身体の痛みの感覚が無くなったら、恐らく重大な損傷に気付いてから、「何で、こうなる前に気づかなかったんだ」って思うだろう。
「痛み」や「苦しみ」は大事に至る前の警告やメッセージなのでは?
それだけに
ニーチェ
「苦しみが問題なのではない。何のために苦しむのかという問いに解答が無いのが問題なのだ」
なんて言葉があると思う。
大切な存在は失った時に気付く。
涙がこみあげてきて、始めて思う。
意識で理解しているよりも、本当の自分はもっと悲しんでいるんだ。って
「痛み」「苦しみ」「悲しみ」が悪いって今まで認識していたけど、その感覚が悪いんじゃ無い。
そのメッセージに気付く事で未来は変わる。
「痛み」や「苦しみ」や「悲しみ」があるから本当の自分の気持ちに気づけるんだと思う。
でも、何で「苦しい、悲しい」という感情は残る。
苦しみがあっても何も楽しめない。
望む未来が無くなって、本当の「絶望」ってこういう事なのかと思う。
苦しみや痛みの存在のみの世界だ。
「苦しみ」や「痛み」が無くなって、「楽しいだけ」なら良いのに。
と、何度も思った。
でも、「苦しみ」や「悲しみ」が、もし感じなくなったら?
身体の痛みの感覚が無くなったら、恐らく重大な損傷に気付いてから、「何で、こうなる前に気づかなかったんだ」って思うだろう。
「痛み」や「苦しみ」は大事に至る前の警告やメッセージなのでは?
それだけに
ニーチェ
「苦しみが問題なのではない。何のために苦しむのかという問いに解答が無いのが問題なのだ」
なんて言葉があると思う。
大切な存在は失った時に気付く。
涙がこみあげてきて、始めて思う。
意識で理解しているよりも、本当の自分はもっと悲しんでいるんだ。って
「痛み」「苦しみ」「悲しみ」が悪いって今まで認識していたけど、その感覚が悪いんじゃ無い。
そのメッセージに気付く事で未来は変わる。
「痛み」や「苦しみ」や「悲しみ」があるから本当の自分の気持ちに気づけるんだと思う。
目に映るのは
日頃から、当たり前のように目で見ているのは、モノでは無く、モノに「反射した光」だ。
光そのものを目にする事は少ない。
モノがあっても光が当たら無いと見えない。
モノが暗く見えるのは、モノを照らす光が弱いから。
人も一緒で、皆が暗い時に希望の光が大きかったら明るくできるのかな?
光そのものを目にする事は少ない。
モノがあっても光が当たら無いと見えない。
モノが暗く見えるのは、モノを照らす光が弱いから。
人も一緒で、皆が暗い時に希望の光が大きかったら明るくできるのかな?
成長に対する「改善」?「改悪」?
スタッフ部門に勤務していた頃の経験として、ライン部門への教育資料を作成した頃に、教育を行う度に「解りやすさ」を向上させ続けた。
目指した「解りやすさ」とは、自分で調べた本の中にあった「上手な説明」の定義で「最短で相手に伝える事」だった。
一般的な専門文書だらけの長い文書だけの資料に対して、
専門知識を学校の学年のように段階的に理解できるように。
短時間でも解るように図解を追加して、文書量を減らす。
内容にメリハリを強める為に、カラーを取り入れて。
画像のクオリティも高く進化させ続けて。
動きを理解し易いようにと、資料の印刷を省く為に、プロジェクターでアニメーション表示する。
と、まるで分厚い本⇒図解付き本⇒絵がメインの本⇒漫画⇒アニメというような進化になっていた。
その効果で今まで数年の経験を積んだ人しかできない仕事が、新人でも短期間で対応できるようになっていった。
研修の回数を重ねる度に効果は上がる。
ただ、ある日
上層部の人から
「こんな資料に慣れたら、ラインの皆が難しい資料を読めなくなる。これは改善じゃなく改悪だ」と言われた。
自分も子供の頃に親から、「漫画ばっかり見てたら本が読めなくなるよ!」と言われた事を思い出した。
人が楽に目的を果たせるようにする事は本当に成長の妨げなのだろうか?
確かに便利な環境に慣れると、不便な環境に対応できなくなる。
であれば、少しずつ不便な環境や、高いハードルを与え続けて、常にマンパワーの向上こそが、目指すべき成長なのか?
でも世の中は時と共に便利になる。
人の能力の向上とは、
より簡単に難しい目的を果たせる事?
より難しい内容を理解して学べる事?
目指した「解りやすさ」とは、自分で調べた本の中にあった「上手な説明」の定義で「最短で相手に伝える事」だった。
一般的な専門文書だらけの長い文書だけの資料に対して、
専門知識を学校の学年のように段階的に理解できるように。
短時間でも解るように図解を追加して、文書量を減らす。
内容にメリハリを強める為に、カラーを取り入れて。
画像のクオリティも高く進化させ続けて。
動きを理解し易いようにと、資料の印刷を省く為に、プロジェクターでアニメーション表示する。
と、まるで分厚い本⇒図解付き本⇒絵がメインの本⇒漫画⇒アニメというような進化になっていた。
その効果で今まで数年の経験を積んだ人しかできない仕事が、新人でも短期間で対応できるようになっていった。
研修の回数を重ねる度に効果は上がる。
ただ、ある日
上層部の人から
「こんな資料に慣れたら、ラインの皆が難しい資料を読めなくなる。これは改善じゃなく改悪だ」と言われた。
自分も子供の頃に親から、「漫画ばっかり見てたら本が読めなくなるよ!」と言われた事を思い出した。
人が楽に目的を果たせるようにする事は本当に成長の妨げなのだろうか?
確かに便利な環境に慣れると、不便な環境に対応できなくなる。
であれば、少しずつ不便な環境や、高いハードルを与え続けて、常にマンパワーの向上こそが、目指すべき成長なのか?
でも世の中は時と共に便利になる。
人の能力の向上とは、
より簡単に難しい目的を果たせる事?
より難しい内容を理解して学べる事?