時代遅れの若者 <第4章> with | 愚かな少年

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この物語はある一人の少年がやらかしてしまったバカ話です

   時代遅れの若者

 

 <第4章> with

 

 始業のチャイムと同時に担任の英語教師、小泉が教室に入ってきた。いつもと同じ薄紫のポロシャツとえんじ色のジャージに肥満の極致にたっした身体を包み、脚にはすっかりくたびれたサンダルを履いている。はげかかった頭とめくれあがったぶあついくちびると垂れ下がったいやらしい眼がおれを不快にさせた。

「あー、今日は33ページだからな。じゃあ窓側から読んで訳せ」

 おれのすわる列の先頭の生徒が渋々立ち上がり英文を読み始める。

「Driver education in U.S is available......」

 小泉は教員用のマニュアルを眼で追っていた。おれは教科書を開かず、小泉の顔をずっとにらんでいた。

「......two generai way. 合衆国の自動車教習は……」 

 中・高の六年間、ずっと英語の授業が嫌いだった。読んで訳す。そえで英語が話せるようになどならないことは誰もが知っていた。しかし現実は変わらない。

「よし、次」

「One way is through......」

 果たして、知らない言葉で書かれた教科書を読めと指導すること自体間違っているのでは。おれはずっとそう思っていた。言葉というのは、まず、話すことから始めなければ、読んでも話せるようにならないのではないか。

「......in high sghool to take it. その上、登校する必要はなく……」

 英語と日本語がおれの周囲を巡回していた。全くわからない。おれは胸の鼓動が少しずつ昂揚してくるのを感じていた。まるでロッカールームで決戦の時を待つボクサーのいような気分だった。

「……は、一般的な方法として用いられます」

 小泉はマニュアルを見たままだった。

「…………」

 流動した時間が止まった。

「次、誰だ」

 小泉は顔を上げうつむくばかりの生徒らをうかがった。ただひとり、小泉のほうを見ていたおれと眼が合った。晴れわたっていたはずの空がなにかの予言のように雲行きを妖しくしていった。富士山は見えなかった。

「せんせい」おれは小泉の眼をさらに強くにらんだ。小泉はパニックを起こしたような視線でおれを見るだけだった。「タグチはどうするんですか?」

 ふたつ前のせきの澄田麻希がおれのほうを見た。ハクもおれのほうを見た。他の生徒は教科書に視線を落としたままだった。ふたりのアクションに気づいたが、おれは小泉から眼をそらさなかった。

「…………」

 小泉はおれの質問に対する答えを模索しているようだった。

「どうするんですかッ⁉」

 言葉が激化した。

「…………」

「……」

「……どうするったって本人が来ねえんだからしょうがねえだろう」

「放っておくんですかッ⁉」

 雨が降り始めた。

 秋の空は変わりやすい――おれは変わらない。おれは………」

「それでいいんですか、せんせい」

 澄田がおれをずっと見ていた。

「その話はまた今度だ。次、スミダ」

 小泉がおれから眼を逸らした。

「わかりません」 

 すわったままの澄田が小泉をあざけるように答えた。

「わからん? 予習はやってきたのか」

 小泉はいらだち焦燥していた。

 おれは小泉をにらみつづけた。

「やってるわけないでしょ、意味ないのに」

  澄田の態度は挑発的だった。

「だいたいあんたホントに英語しゃべれるの?」

 意外だった。誰もが仮面をかぶりお行儀のよい少女を演じ、当たらずさわらず生きていくのが賢明とされる時代に、明日の不幸を全く苦にせず本性をさらけ出すバカな女が、こんなところにも、時代遅れの若者が、存在するなんて。

 ハクは、いいぞやれやれ、といった薄笑いを浮かべていた。

「なに、マニュアルばっか見ちゃって」

 窮地に追い込まれた小泉は明らかに困惑していた。きっと生徒に反抗されたことなど今までなかった、初めてのことだったに違いない。

「おまえ、そんなんで大学受かると思ってんのか?」

 小泉は話を逸らして立つ瀬を取り戻そうとした。

 おれは窓を全開し、立ち上がった。

 風が澄田の長い黒髪を優しく躍らせた。澄田はおれのほうへ顔を向け左眼を閉じてにっこり微笑んだ。おれも澄田のほうへ微笑みを返し、それからもう一度小泉をにらみつけた。そして、

「大学受かんなからどうだっつーんだ、それで人生決まんのか? だいたい勉強って大学受かるためにやるもんじゃねーだろッ!」

 と、ブチギレた。

「………………」

「……」

「……」

 沈黙が時間を潰した。おれは小泉の言葉を待った。鼓動が激しく脈打っていた。しかしそれは恐怖や緊張からくるものではなかった。

 壁だ、壁を越えろ。

「おまえらは甘えてんだ。現実逃避してるだけだ、俺はおまえらのことなど知らん。学校に来ないやつのことなど俺には関係ない」

 これが小泉の正体だ。人生の真髄をえぐろうとする者にはかかわらず、自分に不都合を与えようとする面倒な者は見て見ぬふりをする。小泉だけではない。おれたちの生きる時代にはそういう親や教師が履いて捨てるほどいる。そいつらの前でおれたちは限りなく無力でなにもできない自分を思い知らされる。

 いつまでも越えられない、自分という壁。

 そしておれたちは、生きたまま命を消してしまう。

 突然ハクは席を立ち小泉のすわる教卓へと一直線に突き進んだ。ハクの行為に小泉はさらに困惑していた。

「な、なんだフジイ」

 ハクはいつもの意志的な眼で小泉を凝視しくちびるの端にだけ冷酷な嘲笑を見せた。

「な、なな、なんだッ」

 小泉が恐怖を感じているのは明らかだった。

 ハクは、へへへ、と嫌味な笑い声をもらし、一瞬小泉から視線を外した。その直後、ハクの渾身のいチカラが込められた右のこぶしが小泉の顔面めがけてぶっ放された。小泉は椅子からはじき飛ばされ教壇の上に崩れ落ちた。うつむいて教科書の文字に視線を落としていた生徒たちは皆、唖然とした表情で、完全に主従関係の逆転したふたりを見据えていた。

「ははははは、はは、は、ははは」

 抱腹絶倒するハクの姿が教室中を埋め尽くしていた沈黙を崩壊した。

 雨はあがっていた。どす黒い雨雲の隙間から太陽が顔を覗かせハクにささやかなエールを送っているようだった。

「はは、ふふふ、ふ、ははは」

 ハクはおれと視線を合わせ「ヤッタゼッ」という意思を伝えてきた。

 そしてハクは威風堂々とふり返り、満足気な笑い声を残して教室をあとにした。

 おれはハクのあとを追わなかった。小泉がどうするか気になったのだ。おれは立ち上がり小泉に視線を向けた。

 小泉はハクに殴打された左の頬を撫でながらよたよたと立ち上がった。うつむき、視線を落としていた。顔面が紅潮していたのは殴られたからだけではなかった。もしかしたら、泣いていたかもしれない。

「あとは自習だ」

 独り言のように微かな声でそうつぶやくと小泉はそそくさと教室を出ていった。とても悲しそうな背中だった。

 窓の下ではハクが裏門に向かう細い通路に自転車を走らせていた。

「ハク―ッ」

 おれはハクを呼び叫んだ。ハクはふり返らず右腕を大きく振り、そのまま体育館の陰へ消えていった。

 教室の中は何事もなかったかのように皆、それぞれの受験勉強に没頭し始めていた。

 時間はゆっくりと流れていった。おれはカバンを手に取り席をあとにした。窓を開けたまま。

 壁を越えた。そう思った。だけどおれはなぜか虚しかった。悲しかった。淋しかった。

 自分という壁の向こうには自由が待っていると信じ続けてきたけれど、そうではなかった。小泉の背中がそのことを物語っていた。

 小泉ひとりを責めたところでなにも変わりはしない。結局おれは受験勉強をして、試験を受け、大学に入るのかもしれない。そしていつの日か職に就いて毎日毎日働くんだ。似合わないスーツに身を包んで、息がつまるほどきつくネクタイを締め、ペコペコ頭をさげ、あ、どうもすみません、、という自分のものとは思えない声を自らの耳で聞きながら、そうやって生きていくんだ。死ぬまで、ずっと……。

「ソヤくーん」

 裏門を通過しようとした時、聞き覚えのある女の声が聞こえた。

 澄田だった。おれは門の前で立ち止まり、駆け寄ってくる彼女を待った。澄田の表情は小泉に向けられていたそれとは

別人のように、明るく楽しそうだった。その顔を見た瞬間、心臓が思い切りつかまれるのを感じた。

「どこ行くの?」

 はあ、はあ、と乱れた呼吸を整えながら澄田が訊いた。

「別に」

「それじゃあ、ウチおいでよ」

「えっ」

「すぐそこだから、ウチ」

「……」

 おれはなんと答えていいのかわからず、沈黙してしまった。

「ねっ、ソヤくん」

「トムでいいよ」

 澄田はおれの手をつかんで歩き出した。すべすべして少しひんやりした澄田の手をにぎりながらおれは高ぶる鼓動を抑制できずにいた。

 

 掃除の行き届いた部屋だった。東側の窓の下に木製のベッド、南向きの出窓の下に

三段に重ねられたカラーボックス、クローゼットハンガー、ソファー、机、そしてドアの横にチェストの上にテレビとCDプレーヤーが置かれ、フローリングの床の上には黄色のラグが敷かれ、そしてあちこちにぬいぐるみが散在していた。

 そこへ、純白のプラスチック製のトレーの上にティーカップをふたつ乗せて澄田が部屋に入ってきた。カップはミッキーマウスの柄だった。

「やだ、トム、あんまりじろじろ見ないでよ、散らかってるんだから」

「そんな、ぜんぜんきれいだよ」

 澄田に促され、おれはソファーに腰かけた。

 窓の外で、ちりんちりん、と優しい音が響いた。ちりんちりんちりん。自転車のベルかと思ったが、風鈴の音だった。

「季節外れだな、風鈴なんて」

「それねえ、かわいいでしょう、小学校の修学旅行で京都に行ってね、見つけたの。それからずーっとつるしっぱなし。春も夏も秋も冬も。バカみたいでしょう」

「そんなことないよ」

 もう何年も風鈴の音色なんて聞いたことがなかった。

 どんな音でも作り出せるようになった今という時代、確かにアップテンポでポップなリズムは楽しい時間を作ってくれるけど、この風鈴が生み出す優しくて温もりのある音は作れない。

「なんか曲かけよっか?」

 澄田は、風鈴の音色に恍惚となっていたおれに訊いた。

「わたしの好きな曲」

 そう言って澄田はCDをプレーヤーに入れて、再生した。

『僕の言葉は意味をなさない まるで遠い砂漠を旅してるみたいだね』

 その曲を、おれは中学生の時から知っていた。

「なつかしい、な、みゆきさんだろ」

 みゆきさんとは中島みゆきのことだ。

 澄田は恥ずかしそうに顔を赤らめて笑った。

「ちょっと時代遅れかな?」

「そんなことないと思うけど、おれたちの年じゃ誰も聞かないだろうな」

 髪を茶色にして学ランのカラーを外す男たち、眉を細くしてスカートを短くはく女たち、いつでもどこでも、手帳いっぱいに貼り付けたプリクラを見せ合ったり、と、流行に敏感な若者たち……彼ら彼女らは、きっと音楽だって流行歌を聞き、勉強だってしっかり流れに乗ってすんなり大学に入っていくだろう。

『ドアの開かないガラスの城でみんな戦争の支度を続けてる』

 スピーカーから届けられる女神の声を聞きながら、おれは思った。

 受験勉強というのは戦争の支度に似ている。大学に通じるドアの開けられた瞬間からまわりの人間全員を撃ち殺してでも、城の外に出ようとする高校3年生。その一瞬のために頭の中いっぱいに知識という武器を詰め込んで、心に防弾チョッキを着て……。

 受験生たちは年明けの数日後、世界最速の短距離走者も気絶してしまうようなスタートダッシュをみせて両腕にかかえたマシンガンをフルオートで連射しながらドアに向かって猪突猛進するのだろう。でも、結局、ドアの向こうは城の外じゃない。また新しい戦争のための支度をはじめなきゃならない。わからないことを教えてくれるはずの親や教師も、どこのどのドアを開ければ城の外に出られるのか、教えちゃくれない。

『生まれる前に僕は夢見た 誰が僕と寒さを分かち合っていくのだろう 時の流れはぼくに教えた みんな自分のことで忙しいと』

 みんな、自分のことで忙しい……だから学校に来ないやつがいても知らんぷりなのだ。関わっていたら置いてきぼりにされてしまう。学校という空間では誰もが常になにかに追われている。本当はなにかを追い求めるはずの場所なのに。

 この、地球という星の上には様々な人間が、それこそ数えきれない種類の人間が存在する。顔も性格も髪型も体格も、なにが好きでなにが嫌いか、全てが皆違う。でも結局、人間なんて二種類にしか分けられない。自分の幸せしか望まない人間と、自分以外の全ての人の幸せしか望まない人間。学校の勉強はその後者を前者に変えてしまう改造だ。ハクはおれに「勉強なんんかするな」と言ったのはそのためだ。

『with……そのあとへ君の名を綴っていいか witu……淋しさと虚しさと疑いとの代わりにwitu……』

 ちりん、とまた風鈴が音を奏でた。同時におれの心の中を風が吹き抜け胸の中の風鈴を揺らした。

 恋は、自分んで運べる感情ではない。風が運んでくるのだ。心という不明瞭な存在は、人間には到底届かない、ずっとずっと、深い場所にある。大切なものをそこへ運ぶのは、風、なのだ。

「コーヒー冷めないうちに飲んで」

 椅子にすわって瞳を閉じて曲に聞き入っていた澄田が立ちあがって南の窓から外を眺めた。住宅街のスカイラインの上には青空が限りなく広がっていた。そのキャンバスに描かれているのは頂点に達した太陽だけだった。

 おれは女の子らしいかわいいティーカップの中で輝くコーヒーに砂糖もミルクも入れずにゆっくりと口に運んだ。美味しかった。舌をくすぐる優しいキスのような味わいだった。

「おいしいでしょ、わたしの淹れたコーヒー」

 おれは口に当てたカップを傾けたままうなずいた。そんなおれを見て、澄田がまた明るい笑顔を作るだろうと思ったが、おれの予想に反して、シリアスでそしてなにげなく悲哀をを帯びた表情を見せた。

「これだけは自信あるの。他はなにやってもダメだけど。……悲しいことがあった時はいつも飲むの。ふつうはみんなお酒でしょう、未成年でも。お酒飲んで酔っぱらって、それで嫌なことみんな忘れて……それで朝になって太陽が昇ってくるの見るの……」 

 おれはなにも言わずに澄田を見つめた。

「……でね、太陽が昇ってくるのずっと見てるとね、この太陽もきのうは沈んでいったのに今日はまた昇り始めてる、夜になって、また沈んで、また昇る。そんなこと考えるの……それでいいと思うの、わたし。みんな昇ったらもう絶対沈みたくない、って思うだろうけど、それじゃ死んでるのと同じよ。たとえ一番高い場所にたどり着いたって、そこから一歩も動けないんじゃ死んでるのと同じ……昇ったり沈んだり、それでいいと思うの、そのほうがいいのよ……」

 澄田は真剣な眼をしていた。ハクがおれと話す時に見せるあの意志的な眼。

 人は誰かに何かを伝えようとする時、真剣な眼をする。言葉ではどうしても伝わらないなにか、それを伝えるために真剣な眼をする。感情の奥底に潜む強烈な魂のチカラが、眼、それ自体に生命を与え、動かし、そして、伝えようとする。

 澄田は机の引き出しから煙草の箱を取り出した。

「なに? タバコなんて吸うの? やばくない?」

「余裕よ」

 澄田は、小さな炎の向こうで、、少し淋しそうな顔をして、ゆっくりと、ひとつ深く吸い込み、そして真冬の寒空の下でつく吐息のような煙を吐いた。

 おれは立ち上がり、澄田に近寄った。澄田は煙草を口にはさみながら、箱の中から新しい煙草を一本抜き取っておれに差し出した。おれはそれを無視し澄田にキスをした。

 ちりんちりん。窓の外とおれの胸の中でに風鈴が同じ音色を奏でた。

「澄田、おれ、おまえが好きだ」

「……」

「……」

「わたしはずっと前からトムが好きだったわ」

『with……そのあとへ君の名を綴っていいか with……淋しさと虚しさと疑いとの代わりにwith……』

 さっきと同じ曲が流れていた。

 おれは澄田を強くだきしめた。

 

 翌日、ハクは停学になり、おれの前から姿を消した。

 

  ぼくらはいつも願っている

  一緒に壁を越えてくれる誰かが

  好きな人だったら

  心を開こう

  心を開こう

  心を開こう

  風が

  恋をはこんでくれるように