時代遅れの若者たち <第3章> おれが、おれであるために | 愚かな少年

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この物語はある一人の少年がやらかしてしまったバカ話です

 

   時代遅れの若者たち

 

  <第3章>おれが、おれであるために

 

 高校2年の夏、受験勉強を放棄すれば、いつまでも惰眠をむさぼることができる季節。釣り針から逃れて海中を縦横無尽に遊泳する魚群のように、学校から解放されて大地を自由に走り回る子どもたちの歓声がおれの目覚まし時計になる。

 その日もおれは正午前に子ともたちの騒ぐ声に起こされた。

 

 窓を開けると、灼熱の太陽に見守られながら入道雲が心地よさそうに大空に横たわっていた。その下の狭い空き地で少年たちが野球に興じていた。おれはひとこと呟いた。

「野球か、甲子園も始まったしな」

 おれは開けたばかりの窓を閉め、部屋を出た。洗顔をすまし、リビングで食パンとコーヒーでブランチをとった。

『大学受験は夏が勝負だ』

 夏休み前、教師たちは呪文のように繰り返しそう口にしていた。だけど……。

 その勝負に勝ったところでいったいなにになるというんだ。たとえ現役で東大に受かったとしても、そこからまた新しい

勝負が始まるんじゃないか、一生目には見えない誰かと勝負していかなければならないんじゃないか。勝負に勝てば豊かで安定した平穏な暮らしが待ってるって? それじゃあ大学受験という勝負に負けた人間はどうすればいいんだ。努力が足りなかったって? わかったようなことぬかすな、みんな、みんな一生懸命努力してるじゃないか。努力してもどうにもならないことなんて幾らだってある。確かに、この受験という勝負というか競争みたいなものが人間をここまで発展させてきたことは認める。認めるけど、人間には、発展しなくていい部分、発展してはならない部分、変わってはならない部分だってあるんじゃないだろうか。

 おれは、本気で、そう、思っていた。

 

 おれは湧き上がる憂憤を紛らわそうとテレビをつけた。

『かっ飛ばせ! かっ飛ばせ! それチャンスだチャンスだかっ飛ばせ!』

 甲子園の2回戦だった。アルプススタンドは大歓声の嵐と化していた。優勝候補の名門、立花学園に、大会唯一の公立校、伊勢の原高校が勇往邁進しているのをアナウンサーが告げていた。

「バッターは、四番、キャッチャー、シライシ君、背番号2」

 うぐいす嬢のアナウンスの直後、歓声は更に高まり、爆発しそうだった。

 試合はすでに九回の裏まで進んでいた。二死満塁、伊勢の原高校1点リードのままおそらく最後のバッターがバッターボックスに、ヘルメットを脱いで、一礼してから、入った。

<さあ、伊勢の原高校、エースピッチャー、ジンナイ君、あと一人です>

 ピッチャーとしては小柄な陣内だったが、この試合、被安打2、フォアボール1、でここまで無失点んで投げ抜いてきた。しかしその身体には明らかに疲労の悪霊が取り憑いていた。肩が激しく上下に動いている。勝利を目前にした昂揚と窮地に追いつめられた緊張で激越する陣内の鼓動がテレビの画面を突き破って、おれを甲子園のスタンドで聞いているような感覚にさせた。

 初球。アウトコースへのストレート。シライシはスイングしない。

 おれはかつて自分が同じ境遇に立たされた日のことを思い出していた。

 

 小学六年の夏、おれは地元の野球チームのピッチャーとして地区大会に挑んでいた。

 グラウンドに照り付ける灼熱が全身を燃焼させていた。おれは砂と汗に汚れた手の平で軟式の野球ボールを投げ続けていた。

 そして決勝戦、おれたちは初回に奪った1点を九回の裏のツーアウトまで守りつづけていた。疲労はおれの身体の飽和点を突破し、精神を蝕んでいた。おれは徐々に痙攣し始めた身体に耐えて渾身のチカラを込めて投球したが、制球が乱れフォアボールを連発し自ら塁を埋めてしまった。

 その時のバッターも四番だった。キャッチャーの土井は何度も変化球のサインを指示してきたが、その度におれは首を横にふった。

 おれの背番号は『1』だった。

 ツーストライクスリーボール。最後の一球。土井はやはり何度も人差し指を左右に振って、チェンジアップのサインを示した。おれは苦痛に満ちた顔を横に動かしストレートのサインを待った。

 二秒後、おれは小さく頷いきポジションを定めた。

 三人のランナーは大きくベースから離れてリードしていたが、おれはそれを無視し白球を握りなおした。ひとつ大きく息を吐き、おれはおれの中に持ち得る全てのチカラと全ての情熱を込めて投球した。

 白球は土井のミットには届かず、真夏の太陽を経由し、スタンドへ旅立っていった。

 おれの背番号は……1……だった。

 

 同じだな。おれは少年時代の自分を見るような思いで画面の中の小さな、背番号1、をコーヒーを飲みながら見つめた。

 こいつもストレートで勝負するだろうか?

 九回裏、ツーアウト満塁、フルカウント、1点リード。こんな、1970年代のスポ根アニメみたいな、青臭いシチュエーションが現実に存在し得るなんて、それだけでも信じられない。『巨人の星』星飛雄馬や『ドカベン』の里中智だったら、絶対にストレートで勝負するだろう。現代の、幸福なのか不幸なのか、必要なのか、無用なのか、いったいなんのためにそれを手に入れなければわからない志望大学合格を欲しがる高校生や、気が狂ったように働いて、いくらあっても足りない金を欲しがる大人たちだったら、絶対に、ストレートのサインを要求したりしないだろう。巧妙に、カーブとか、スライダーとか、フォークとか、チェンジアップとかを投げ、勝利を手にするだろう。

 陣内は野球帽を脱ぎ、アンダーシャツの袖で額の汗を拭う。

『かっ飛ばせ、シライシ、かっ飛ばせシライシ……』

 ロージンバッグをマウンドから拾い上げポンポンと手の平でほ翻弄し、土井のサインを確かめる。

『かっ飛ばせー、、かっ飛ばせー、それチャンスだチャンスだかっ飛ばせー! かっ飛ばせー、シライシ‼』

 スタジアムの熱気はどんどん増していき、ドドン、ドドン、という大太鼓の大きな音がおれの高鳴る鼓動を連打した。

 陣内は首を横にふった

 再びサインを覗く。また、首を横へ。三回、四回、陣内は頷かない。

「バカなやつだなあ」

 おれは思わず微笑し、それを察知していた。陣内がないを待っているか。

 真っ直ぐ――。

 打たれれば、サヨナラ負け。

 野球はチームスポーツだ。私欲を追及するような軽挙妄動は許されない。あの時、おれだってわかっていた。しかし勝負の十中八九の責任はピッチャーが負っている、というのも真実だ。ミットを構える土井。バックで守備につく七人、ベンチで試合を見つめつづける監督、他の選手たち、マネージャー、スタンドで声援を送りつづける応援団、彼ら彼女らはみな『勝利』を待望している。それは微塵の間違いもない。そうした責任を陣内は体中の全細胞を酷使して背負っているのだ。背番号1、という責任を……。だからストレートを投げたがる。自分の右腕から飛びっ立った白球が、真っ直ぐな一本の軌道を残してキャッチャーのミットの中に消える瞬間を信じて……。

 責任とは、誰かの希望を叶え現象として実現させる使命ではない。自分の死力の限りを尽くす激情なのだ。

 陣内はそのことを知っている。自分の背中に一本の筋で記された『背番号1』という激情が存在することを。

 おれはずっと、感情の深海から放たれた直球と化した激情が幾多の、紆余曲折、艱難辛苦を乗り越え、誰かのミットと化した感情の深海にたどり着く日がいつか必ず訪れるのを信じていてた。

 おれはうれしかった。

 遠く離れた場所に、時空を超えて、自分と同じように『真っ直ぐ』を投げようとする人間が、自分の信じた道を『真っ直ぐ』歩こうとする男が、青臭い、時代遅れの若者が、生きていることが、おれは、うれしかった。

『かっ飛ばせ、シライシ! かっ飛ばせ、シライシ! かっ飛ばせ、シライシ……」

 バッターを激励する大歓声を黙殺し、陣内は首を縦にふり、激情の全てを入魂して白球を投じた。

 激情は、大歓声の中をひっそりと、キャッチャーミットの中に消えていった。

 おれは飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、テレビをつけたまま部屋に戻った。

 

 初秋。再び学校が始まった。

 おれは得体の知れない恐怖を覚えていた。教室は地獄と化し、生徒たちはみな、亡者に取り憑かれたような苦しみに喘ぐ表情を浮かべていた。それは明確に表面化したものではなかったが、四十二日前とまるで違う、疲労、緊張、恐怖、嫌悪、絶望、そういった不特定多数の疫病に誰もが精神を犯されてしまっていた。

 ハクだけが、一学期と同じように、いつも通り、窓外の西の空にそびえ立つ富士を黙って見据えていた。

「おまえ余裕だな」

 ハクはおれのほうにはふり返らず、空いたままの田口の席を一瞥して吐息を洩らした。

「やっぱり来ねえか」

「ひとりで勉強してんじゃねえか、おまえの言うように」

「どいつもこいつもくだらねえな」

「おまえはできるからいいだろうけど、みんなだって耐えてんだよ、きっと」

「そんなんで学校楽しいか?」

『…………』

 そうなんだ。本当はそれじゃあ嫌なのだ。だけどおれたちにはどうしようもない……。

「学校って楽しいところだろう? 勉強って自分の成長のためにやるもんだろ? 塾だの予備校だの、嫌々行ってやるもんじゃねえだろ?」

 ハクの眼には涙が浮かんでいた。ハクも、口には出さないけれど、壁を感じているのだろう。自分という壁を。

 

 学校は楽しい。

 そう信じているのに、どうしても自分のチカラではなにも変えることができない。大学受験という壁の前で、悲鳴をあげる野良猫のようなクラスメイトを、自分は救うことができない。

「大人はなにもしてくれねえしな」

 おれはあきらめにも似た溜め息のような言葉をもらした。

――勉強というのは自分のためにやるものです。

 親も教師もいつもそう言う。

 誰が最初にいったのだろうか、そんなセリフ。自分のため、自分のために……。

 だったら自分のやり方でやったっていいじゃないか。だけどそれは、許されない。なにを、いつ、どうやって学ぶか、それらは全て決められている。『個性の育成』とか『自由な発想』とか、それらしいことを言ってるくせに、おれたちが、自分のことを自分で考えて、自分で決めようとすると、大人は、

『なに勝手なことやってんだ』

『そんなんじゃあ大学受かんねえぞ』

 そう制御しようとする。

 矛盾してるじゃないか。そっちこそ勝手なこと言ってるじゃないか。

 おれはいつも、感情の中でいきどおりが渦を巻くのを感じていた。

 

 大人はなにもしてくれない……。

 絵里子が転校してから、おれは電車で三十分ほどの絵里子の通う学校のある駅まで週になんども絵里子に会いに行っていた。

 改札を出てすぐのところにある水色のプラスチック製のベンチにすわり、ただぼうっと、駅前通りを行き交う人々を見るともなしに眺めながら、絵里子が来るのを待っていた。

「エカイワノイングリッシュセンターデース」

 人ごみの中の外国人の姿がおれの眼に映った。きれいに波がかった金色の髪を躍らせて、微笑んだ少女のように顔をくずした笑顔で、おそらく英会話スクールの講師だろう、日本人にビラを配っていた。そこへ絵里子がやって来た。

「お待たせ、ツトム」

「おう」

「行こ」

 絵里子は右手でおれの左手を握り、くったくなくはにかんだ。心の底から、かわいいな、と思った。

 おれたちは駅前の喫茶店へとおもむき、短い至福の時間をすごした。コーヒーは決して美味しくはなかった。

 帰期、絵里子と別れてから、改札口の前は閑散としていた。おれは絵里子が放つほのかな香水のかおりに酔っていた。

 駅に近づくと、改札前のごみ箱をあさっている人影が見えた。ホームレスか、と思って少しの間見つめていたが、よくよく見るとさっきの外国人だった。

あれ? なにしているんだろう、と、ちゃんと見てみると、ごみ箱の中から取り出しているのは……ビラだ! 

 彼女はぐちゃぐちゃにされたビラを泣きながら拾い集めて、そういしてシワを両の掌で必死にのばしていた。その青空のように澄んだ瞳からは、まるで熱帯のスコールのように大量の涙が流れていた。

 おれはひと気のなくなった駅のホームで電車を待つ間、ずっと考えていた。

 あんなにも自分の仕事に真摯になっている日本人はいるだろうか。涙があふれるほど傷つけられた心に耐えながらごみ箱の中に手を入れる優しさ。あのぐちゃぐちゃに丸めて捨てられたビラのように、おれたちは日本というこの国の、ある意味砂漠のような世の中で、生きていく、ただそれだけでつらくて厳しくて苦しい闘いを強いられる空間で、身も心もズタズタに打ち砕かれ

て捨てられてしまったら『勉強というのは、自分のためにするものです』なんてことを説く大人たちは、おれたちを拾い集めてくれるだろうか。救ってくれるだろうか。二度と戻ることのないシワを必死になって修復しようとしてくれるだろうか。日本全国を水びたしにする大雨のような涙を流してくれるだろうか。あの青空のような〝瞳〟をした異邦人のよに……。

 

 翌日、学校に着くとおれは言った。

「おれもそろそろ勉強すっかな」

「おい、冗談だろ?」

 ハクの眼が激しく本気になった。

「おまえは絶対受験勉強なんかすんな、大学くらいオレがなんとかしてやるから。おまえまで受験勉強なんて……もしガリガリ勉強なんんてやり出したらオレはおまえと絶交するから」

 ハクの眼は、いつもの、なにかを伝えようとする意志的な眼だった。

 

 

  ぼくらはいつも探している

  自分だけの花を

  理解してくてなくていい

  邪魔しないでくれ

  見つけたいんだ

  自分だけの

  花を