時代遅れの若者たち <第2章> トモダチ | 愚かな少年

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この物語はある一人の少年がやらかしてしまったバカ話です

 

   時代遅れの若者たち

 

<第2章> トモダチ

 

  高校3年になって三ヶ月と四日がたった。ぼくとハクの予感に反して時間は静かに流れていた。

 昼休み。おれとハクはふたり、学内販売で買ったパンをかじっていた。

「なあトム、お前学校楽しいか?」

 ハクは突然訊いてきた。

「あんまり」 

 おれは弱弱しい声で答えた。

「そうだよな」

「どうしてだよ?」

 ハクはおれの隣の席を指さし、言った。

「ここ、空いてるだろ? ずっと」

「ああ」

「来てないんだよ、こいつ」

「えっ?」

 おれは驚いた。その瞬間までその席はただの空席だと、おれは思っていた。

「タグチってやつなんだけど……」

 

 ハクの話では、その席にすわっているはずなのは、田口次郎というやつで、ハクと同じ中学の出身で、中学の時もある日の突然学校にこなくなった、ということだった。もしかしたら家で受験に必要な勉強ばかりしているのかもしれない、とハクは言った。そしておれが、

「いじめられてるのか?」

 と訊くと、

「いや、その可能性は低い」

 とハクは答えた。

「でも、受験勉強に集中したいなら学校に来たほうがやり甲斐も張りもあると思うけど。励まし合える友達だっているだろうし」

「友達? いると思うか? うわべだけの付き合いだろ?」

「おれたちだって」

「おれたは例外だよ……でも誰だって本当の友達ほしいよ! あいつだってひとりは淋しいに決まってるよ!」

 そう時ハクは、悲しそうで、淋しそうで、泣いてしまいそうな顔をしていた。

「あいつだって、ひとりじゃ淋しいよ、淋しいに決まってるよ」

 ハクはいつも、他人のことになると本気になった。自分が困難に直面しても『まあ、どうにかなるだろう』と笑い飛ばすのに……。

 それはきっと、ハクが寂寥感というものを人一倍感じるからだ、とおれは確信した。 

 

 父親の仕事の都合で、中学を卒業するまで七回の転校を経験したというハクがいつだったか話してくれた。

 いつもと変わらない午後、おれとハクは授業をサボり、自転車を飛ばして海に向かった。

 海に着くと、ハクはカバンの中からゴム製のボールを取り出し「キャッチボールしようぜ」とおれを誘った。おれたちはそれから陽が傾くまでボールを投げつづけた。浜辺の砂が黒いコインローファーを汚した。ふたりの間に言葉は必要なかった。おれたちを繋いでいたのは互いの右腕から放たれるゴムボールだけだった。

 黄色いボール。

 人間の左手の小指には赤い糸が結ばれていて、その糸は生涯の恋人のそれと繋がっているという。赤は恋情の色だ。

 ハクの右手からおれの胸に向かって飛んでくるボールを掴み取ると、その度に、おれは友情の色は黄色なのかもしれない、なんてことを考えていた。

 赤と黄色を混ぜ合わせると、夕陽色になる。

 恋情と友情。

 その二色が完璧に混ぜ合わさって美しい色を奏でた時、おれたちの心というパレットに初めて夕陽色の愛情が誕生するのかもしれない。

 陽光が沈み始めていた。寄せては返す波を音がついこの前までそこにいた思い出と、心の奥で息を潜めていた遠い記憶を呼び起こし、そして優しい浜風の温もりがハクの心の扉を解錠した。

「オレなあ、トム」

 ハクは突然投球をやめ、話し始めた。

「オレ、前にも言ったけど、七回転校してるんだ」

「…………」

 おれは黙ってハクを直視した。

「初めて転校することになった時、オレ、オレ本当に不安だった。怖くて怖くてたまんねえんだよ。知らねえやつばっかりの教室に一人で行かなきゃなんねえと思う、となんていうか、こう、体中を絞めつけられるような感覚に襲われて。でな、毎日毎晩同じ夢見んだっよ……オレが新しい学校の新しい教室のドアを不安いっぱいなのを耐えて勇気振り絞って開けるとよ、前の学校の仲間がみんないて、おおフジイ、なに泣きそうな顔してんだよ、なんかあったか、って笑いかけてくれるんんだ……。そういう夢毎日見るんだよ。眼ぇ覚ますと、オレ、泣いちまうんだよ。フッ、ハハハ」

 ハクは、沈んでいく夕陽をじっと見つめていた。その紅に輝くスクリーンにハクがなにを映し出したのか、それはおれにはわからなかった。過去を繰り返し悲しんでいただろうか、それともそれはそれでいい思い出だったのだろうか。ただひとつおれにわかったことは、ハクはそこからかけがえのない大切な物を手に入れてきた、ということだ。

 ハクは優しく眼を輝かせていた。そんな眼を持っているハクが羨ましかった。そんな男と親友になれた自分がうれしかった。寂寥感で真っ青に染まった心の空を暖めてくれるのは夕陽色の愛情しかない。

 ハクは黄色のゴムボールを夕陽に向かって思いっ切り遠投し、バカヤローッ、と絶叫した。夕陽の上に柔らかな軌跡を描いてボールは光の中へ消えていった。ハクは鞄の置いてある場所まで戻ると、鞄の中からもうひとつ同じ黄色のボールを取り出し、おれのほうへ投げた。

「なんだよ?」

 おれはハクがなにをどうしようとしているのかわからなかった。

「お前もそのボール夕陽に向かって投げてみろ」

 おれはしばらく思案にくれた。そして、

「いや、これはおれの宝物にする。この先、別々の人生を歩むことになったとしても、お前と親友でいられる証に」

 おれがそう言うと、ハクは淋しそうな顔でおれを見つめた。いつもの、あの、意志的な鋭い眼で。おれにはハクの心情が容易にくみ取れた。

 いつか、別々の道を歩くことになる。それは仕方のないことだ。でも、今は、そのことは考えたくない。

 まるで1970年代の青春ドラマみたいだ。そんな思いでおれはハクを見つめ返した。今時流行らないだろうけど、ハクはおれたちの世代が忘れてしまった〝なにか〟を忘れていない。

「そろそろ帰るか」

 おれたちは夕陽色に染まった互いの顔を見つめ、自転車にまたがると、ひとつ大きく深呼吸をして、家路を走り出した。

 

 帰宅するとすぐ、おれはリビングの灯りのスイッチを入れ、電話代のいちばん上の引き出しを開け紺碧色の学校の住所録を探し出して田口の家の電話番号を確認して受話器を耳に当てた。しかし次の瞬間、心の中の疑心がおれに問いかけてきた。

『なにを話すんだ?』

 そうだ、なにを話せばいいんだ。顔も知らない、どんな人間か全くわからないやつの、初めて耳にする声。をの声を相手におれはなにを話せばいいんだ。

「ねえ、学校って楽しいと思わない?」

 楽しくない、と言われてしまうに決まっている。学校が楽しければ、たとえ孤独であって登校してくるはずだ。

「優しくてかわいい女子も、興味深い話をしてくれる先生もいっぱいるし」

 いないいない。先生も女子も話すことといったら受験のことだけだ。

 なぜおれがやらなければならないのだろう……。一瞬、おれの中に〝あきらめ〟を迷想するような疑問が浮かんだ。しかしその直後、その〝理由〟ともいうべき答え、やらなければならない、こいつを学校に戻さなければならない。そんな使命感にも似た感情が、ぐるりぐるり、と徐々に拡大する円を描きながら、おれの中で急速に沸き起こってくるのを、おれは、明確に感じた。

 

『誰かがやるだろう』

 なにかの仕事やなにか問題が生じた時や、やらなければならないことがある時、おれはずっと、そう、傍観していた。もっと正確で簡単な言葉を使えば、おれは、なにもしなかった。

 そんなおれに大きく変化を与えてくれたのは、祖父だった。

 他人に誇れるような能力。そんなものは少年時代のおれの中に窺うことは全くできなかったが、唯一それらしきものがあるとするならば、それは、誰かの言葉が、貴重なものか、無意味なものか、瞬時に感知できる、っということだった。

 

「おい、ツトム、起きろ起きろ!」

 おれを眠りから覚ませたの声の主は祖父だった。寝ぼけまなこに祖父の顔が映った。祖父の顔は何十年もの時を遡って少年に戻ったような爽快な笑みをつくっていた。

「なんだよ、夏休みなんだからもう少し寝かしてよ」

「いいから、早く来い!」

 祖父は再び眠りの世界を訪れようとするおれから布団をはぎ取り無理矢理引っ張った。おれはまるで飼い主に引っ張られる仔犬のように祖父の和室まで連れて行かれた。

「ほれ、見ろ、ツトム」

 祖父は卓袱台の上に置かれた湯飲み茶わんを指さした。

 瞼をこすりながらおれが湯飲み茶わんを覗くと、

「茶柱が立っとるじゃろう? しかも二本も」

 と、祖父はおれの肩を叩きながら、うれしそうに言った。

「本当だ、縁起がいいねえ、茶柱が二本立つなんて今日はすっごくいい日になりそうだね」

 窓から夏の陽射しが射し込んでいた。その光が緑茶に反射して、その中で二本の茶柱が神々しいまでに聳え立っていた。

「なあツトム」

「んー?」

「この茶柱をもっと近くで見たいと思ったら、どうすればいいと思う?」

 茶わんを持ち上げればいい。

 おれはそう思った。

「それはなあツトム、自分がもっと茶わんに近づけばいいんじゃ」

 そう言うと、祖父は時がたってすっかり冷めてしまった緑茶を一気に飲み干した。

 その姿を見て、おれの眠気はすっかり消えた。おれは心臓を思い切り圧搾されたような痛切な感情をいだいた。その刹那、おれは知覚した。なにかの仕事やなにか問題が起こった時や、なにか、やらなければならないことが生じた時、そのなにかをどうにかするのは、誰か、それは、自分自身、そう、おれなんだ、と。

 

 おれはもう一度固定電話の受話器を耳にあて、田口の家の電話番号につないだ。

 基礎的な発信音が隔離された家をつなぐ。

『はい、タグチでございます』

 電話に出たのは母親のようだった。丁寧な話し方がその雰囲気を想像させた。

『もしもし、あの三浦高校のソヤと申しますが、ジロウくんいらっしゃいますか?』

 自分のものとは思えない声と口調だった。

「ジロー、お友達から電話よー」

 お友達? おれは田口の友達なのだろうか? 同じ学校のクラスメイト、その関係は〝友達〟といえるものだろうか? 友達とは、いったいどんな存在のことを言うのだろうか?

『もしもし』

 意外に爽快な声だった。だがその口調は木で鼻をくくっているのが簡単に推測できた。人と話すのを面倒くさそうに感じられる声量だった。おれは電話を伝って田口の心の中に入っていけるように、田口以上に爽快なトーンで話し始めた。

『あ、おれ、同じクラスのソヤっていうんだけど、なに、きみ、学校来ないの?』

『ふ、そんな話かよ』

『そんなって、……』

『学校なんてくだらねえんだよっ、行ってられっか!』

 田口は激しく興奮して、がなり出した。

『でも友達みんな心配してるよ』

『トモダチーッ? トモダチなんかいねえよ、ムカつくんだよ、テメーも。わかったら、二度と電話なんかしてくんなっ!」

 そこで電話は切られた。いちじるしく激高した短い電話だった。

 友達なんかいねーよ……。田口の叫ぶ声がおれに呪いをかけるように恐ろしくリフレインした。トモダチナンカイネーヨ。

 おれは部屋に戻りベッドに身を投げ熟考した。友達とはなんだろう?

 その答えが見つけられないまま、おれはいつの間にか眠りに落ちていた。

 

 一ヶ月と三日が経過した。田口は相変わらず学校に来ていなかった。おれも相変わらず、友達とはなにか、答えを出せずにいた。時間だけが予定通り流れていった。

 日曜日の夕刻、おれはアディダスのスポーツサンダルをつっかけてふらふらと街へ出た。

 踏み切りをを越えると街の中央を流れる河川にぶつかる。走り幅跳びの世界記録保持者だったら楽々越えられそうな細い川だ。川面に斜陽の光を反射していた。その光彩に魅せられた小鳥たちが幸せそうに戯れていた。清流の音色と川面の光輝と小鳥のさえずり。おれは川にかかる橋の途中まで渡ると、手すりに寄りかかりその景色に身体と心を預けた。

 そこへ四人の少年がおれのほうへ向かって橋を渡ってきた。背格好からして小学3、4年生くらいだろう。三人はまだ季節が夏の訪れを告げる前にもかかわらず真っ黒の日焼け、青と白の網に包まれたサッカーボールを蹴っている。彼らの夢もやはりサッカー選手なのだろうか。そして世界一のサッカー選手なるという大きな夢を見、淡い情熱を燃やしているのだろうか。そしてもうひとり、日焼けした三人の少年たちの一歩後ろを、前を行く三人を追いかけるように、真っ白な肌と金色の髪をした少年が歩いていた。日本人でないことは明らかだった。

 四人の少年がおれとすれ違った瞬間、まだ使いこなせない日本語で、

「ナア、オレ、ト、トモダチ、ナッテ、ヨカタ?」

 という微かな声が聞こえた。

 その『question』に三人の日本人の少年がどんな答えを返したかはおれの耳には届かなかった。だけどおれは祈りそして信じた。彼らが『Yes』と答えたに違いないと。

 おれはなにかに触発されて少年たちのほうをふり返った。しかし、彼らの姿は夕陽の中に消えてしまっていた。彼らを追いかけるように、小鳥たちが川面から飛び立ち、少年たちのほうへ向かって飛んで行った。

〝友達なんかいねーよ〟

 田口はそう叫んだ。田口の心は真っ青なのだ。田口の心という名の空が夕陽色に染まる日は果たして訪れるだろうか。

 おれはいつかのハクのよに、夕陽に向かって叫んだ。

「バカヤローッ!」

 

 

  ぼくらは知っている 

  壁は

  ひとりでは越えられない

  誰もが皆

  誰かを探し求めている

  一緒に壁を越えてくれる

  誰かを