時代遅れの若者たち<第1章> 予 感 | 愚かな少年

愚かな少年

この物語はある一人の少年がやらかしてしまったバカ話です

 

   時代遅れの若者たち

 

 <第1章> 予 感

 

  1994年、春。中学2年の時から付き合っていた絵里子にフラれた。

 理由は絵里子の転校だ。せっかくがんばって県下有数の進学校に一緒に入学したのに。

「やっぱり別々の高校に通ってたんじゃ、気持ちが遠すぎるよ……、わたし、こっとの学校でも好きな人ができたの……。その人もわたしのこと好きだ、って言ってくれて……だから、ツトムとは……おしまい。元気でね、ツトム、それじゃ」

「おいっ、ちょっ」

 おれの台詞が終わる前に電話は切れた。プゥー、プゥー、プゥー、という発信音がなぜかおれを嘲笑するように聞こえた。

 絵里子は泣きながら別れの言葉を発しているようだった、が、今思えばあれは演技だったかもしれない。きっと電話を切ったあと、すぐそばでおれと絵里子の会話を絵里子の頬に耳を近づけて聞き耳を立てていた新しいカレシに、

「あー、超緊張、でもうまくいった。あいつもいい加減うんざりなのよ」

 などと言いながら、かしましい声をあげて二人でおれを笑っていたに違いない。

 おれは悲しいやら悔しいやら複雑な感情を持て余しまま、チキショー、叫んでベッドに身を投げた。

 春だった。おれの高校生活最後の一年は、失恋からはじまった。

 

 まだ誰も登校していない校舎はまるで墓場のように静かだ。パン、パン、パン、パン、と紐をほどいてはいた上履きの踵が床を叩く音だけが鼓膜を振動させていた。

 純白の壁とくもりのない窓硝子と必要以上に磨かれた廊下。教室に入ると、原稿用紙のマス目のように完璧に整理されて机が並んでいる。黒板はペンキで塗り直したかのようにきれいに消されていた。

 空気が流れない……。

 いつもと同じだった。教室に入るとまず吐き気がした。だからおれは教室に入るとすぐに窓を開けるのが、いつの間にか習慣になっていた。

 おれは窓際の最後部の椅子を引き、ほんの十数センチ窓を開けた。本当は教室中の窓という窓を全開に開け、春の風を全身に浴びて絵里子にフラれて冷たくなった心を暖めたかったが、管理教育の大好きな教師たちのねちっこい説教を聞くのはうすこぶる面倒だから我慢しなければ仕方ない。

 

 高校に入学した日の式のあとのことだ。

 7:3にきっちり分けた髪をべっとりと油をぬった英語教師、小泉が紳士服の量販店で二着一万円で買ったとしか思えないちゃちなスーツの襟を何度も何度も直しながら、くだらない受験勉強の話を延々とした。辟易したおれが窓を開けると、それまで機械的な事務口調で喋っていたその小泉が突然、

「コラーッ、貴さまー、教室の窓を十五センチ以上開けてはならんという校則を知らんのかーッ!」

 と、がなり声をあげておれを叱責した。

 おれは鳩が豆鉄砲を喰らったように唖然とした。開いた口がふさがらなかった。

 マジで? 『窓を十五センチ以上開けてはならない』なんて校則があんの? この学校? 

 信られなかった。ふざけんな、と怒鳴り返してやろうと思ったが、入学したその日から印象を悪くしてしまっては損だ、と判断して、気を諫めた。

 いつもそうだった。感情が憤怒して主張が喉のドアをノックしても、おれは「すみません、以後気をつけます」と言ってすぐ黙り込んでしまう。

 おれは静かに窓をしめた。

 いつまでも越えることができない〝自分〟という壁をぼくは感じていた。

 

 わずかに開いた窓からの風がふかふかのクッションのようにこの教室とぼくを暖めてくれる。こんなブタ箱みたいに拘束された空間にも心を撫でるような優しい風が吹くんだな。

 高校3年生になって、絵里子にフラれて二ヶ月、その日もおれは誰よりも早く教室に入った。

 徐々に登校してきた黒の詰襟を着た男子生徒と濃紺のブレザーを着た女生徒は、自分の出席番号がわからないのだろうか、それぞれ、早い者勝ち自分の好きな席にすわり、打ち解けあってきた新しいクラスメイトと、受験について話し始めた。

「なあ、お前どこ受けんの?」

「おれはテキトーに一般推薦もらうよ」

「おれはブンダイくらいかな」

 くだらねえ。

 まだ一年も先の『大学受験』の話なんかしてやがる。きっとこいつらには他に考えることがないんだな。勉強より大事なものはなにも。

 おれは眼を閉じて、風のクッションにあまえながら、高校に入ってからの唯一の親友・藤井博がくるのを待っていた。

 おれはヒロシのことを『博』という字にちなんで『ハク』と呼んでいた。ハクはおれのことを曽屋勉のツトムにちなんで『トム』と呼んでいた。

 ハクはおれにとって不思議な存在だった。

 おれは中学までは勉強が得意だったが、高校に入って最初の数学の試験で0点を取ってしまうほど勉強ができなくなったが、ハクと親友になってからは、高校入学以来、定期的に行われる実力テストで赤点を取らずにすんでこれたのは、学年トップレベルの成績を常に保持するハクが試験に出る問題を予想し、答えを教えてくれたからだ。

「なんでわかるんだよ、出る問題?」

 何度も訊いてみたが、ハクは、

「天才だからだよ」

 と言って笑うだけだった。

「なーに哀愁きどってんだよ、ばーか」

 顔を覗くと、ニヤニヤ妙な微笑を浮かべるいつものハクがそこにいた。

 182センチの痩身の上にはナチュラルに流れる髪と形のいい鼻、そしてあらゆる感情を全て激しく伝える意志的な眼を持った顔が乗っかっている。

 本人は、

「福山に似てるよな、おれって」

 と、豪語して信じて微塵の疑いも抱かないでいたが、オレにはナイツのボケのほうにしか見えなかった。

 

「このまえ絵里子にフラれたよ」

 おれはずっと隠していた真実をハクに打ち明けた。

「えっ? マジで?」

「ああ」

「…………」

「…………」

 ハクは暫時おれを激励する言葉を頭の中で探し、

「ま、気に病むことはない。これからは全てうまくいくさ。そんなことより担任ムカつくな」

 ハクは巧妙に話題を変えてくれた。

 ありがたいような、冷たいような、そんなハクと親友になれて本当によかった。

 

 4月、小・中‣高生にとって不安なことは、ふたつ。

 ひとつはいい友達ができるか。もうひとつは担任の教師がどんな人間か、だ。

 おれにはハクがいるからひとつ目の不安は難なくクリアされたが、担任は〝あの〟教師だ。不運だ。みんなも不安と心配でいっぱいだろう。『窓を十五センチ以上開けてはならない』そんな校則、生徒手帳のどこを読んだって書かれていない……ふたつめの目の不安はそう簡単には解決されないだろう、とおれは覚悟した。

「確かにムカつくよな、あいつが担任の教師だなんて信じられないよなあ……三年間のうち、二年もだぜ」

 強烈な主張を感じさせる返事の裏側で、おれは記憶の世界に迷い込んでいった。

 

『教師』という仕事はテキトーな気持ちで就いてはならない職業だ。その存在の持つチカラは思いのほか絶大で、感受性の強い成長期の童心に激しく影響を及ぼし、その一挙手一投足でひとりの人間の人生を大きく変造してしまう、あるいは決定してしまう。

 おれの脳裏に竹田正二の顔が浮かんだ。同時に、妙な緊張が全身に甦った。おれはまだ十一歳だった。その頃おれは毎日常軌を逸した恐怖を感じていた。

 竹田正二は四十代前半で、教師、という職業が楽しくて仕方ないように、おれには感じられた。おれは感じるチカラが強かった。竹田は自分の言動がこどもたちを求道しているのだ、という確信を抱き、完全に自分を信じ切りそして愛しきっていた。PTAのご婦人たちにも脂の乗ったアクティブな教鞭ぶりは『教育熱心な先生ねえ』と好評嘖嘖だった。しかし現実、おれたちのとっては短期で価値観が狭く、常に生徒たちに恐怖を与え、その恐怖故に自分の築き上げた価値観という檻の中で静寂を固守する者を偏愛し、脱走を謀略する者は容赦なく処罰する、というたんなる自己中心的で短絡的な独裁者でしかなかった。その実、竹田のことを『ナチ』と隠れて言う奴もいた。

 

 ある日の体育の時間、その日おれたちが従事させられたのは体育館での器械体操だった。

 体育の団体種目と個人種目の最大の違いは、頼る者がいるかどうか、だ。その競技が高度な運動能力を要求されればされるほど運動の苦手な生徒はそれこそ尋常ならぬ苦痛を味わう破目に陥ってしまう。

「1,2,3,4,……」

「5,6,7,8,……」

 体育係を前にしておれたちは子気味よく準備運動をして身体をほぐしていた。

「1,2,3,4,……」

「5,6,7,8,……」

 純白の体操着が動作を促され大きく波打っていた。

 竹田が体育館に入ってきた。

 その刹那、小学生らしい爽快な体操着は一瞬にして突撃直前の兵士が纏った軍服のように物悲しくそれでいて狂おしい、そしてある意味ではひどく老成した、そんな恐怖感に染まってしまう。

 兵士には戦わなければならない敵がいる。守らなければならない人と物がある。だがおれたちに戦う理由はない。

 耳がイカれるほど大きな号笛が体育館全体に響きわたる。その轟音に急かされ、おれたちは素早くマットの前に整列する。その象牙色のマットは、おれには、戦場にかけられた橋のように見える。

 視線という、眼には見えない弾丸が辺り一面に飛弾していた。」

 

 最初の兵士が突進した。

 恐怖感がおれとみんなの身体を硬直させた。どうしようもない不安と、それがかきたてる畏怖感で、おれは逃げようと思った。怒鳴られるのは、、もう、たくさんだ。

 おれは嘘をつこうと思った……。

 先生、ちょっとおなかが痛くて……。

 そう言えば徴兵を免れることができるだろうか。いや、無理だ。腹痛なんんてあいつの頭ん中じゃ蚊に刺されるよりも些細なことだ。だいたい、敵の士官に腹痛を訴えれば救われる、なんて考えが通用しないことは明らかだ。

 佐野健次郎。

 彼の父親はこの町の中学校で教鞭をとる体育教師だ。しかし佐野本人は、朝礼の時に腰に手をあてる、色白の、お世辞にもアクティブとは言えない、ひとことで言えば『運動ダメ』な生徒だった。

 そして、マットから5メートルほど離れた場所から、ひとり、また、ひとり、と敵軍の銃弾をかいくぐって一命を取り留める。

 突然おれの脳裏に銃弾の餌食になる自分の姿が浮かんだ。

 士官の鋭気に満ちた視線に触発されてマットに向かって走り出す。

 ドン、ドン、ドン、ドン。

 床下に恐怖を吐き出すような足音と脳裏に全ての行動を停止させようとする鼓動が複雑に混ざり合って心臓を刺激する。緊張がおれを呪縛し、おれはマットの上で不様な演技をしてしまう。すかさず銃弾がおれの鼓膜をぶち抜く。

『ソヤーッ!』

 その恐怖のイメージがおれの数メートル前を走り出した兵士・佐野の姿を自分の眼から隠滅しいた。

 数秒後、、真後ろで大型トラックと二階建ての観光バスが正面衝突したかのようなすさまじい銃声が、おれを想像の世界から現実に呼び戻した。

「サノーッ!」

 火薬の詰まった視線の中で佐野がなにをどうしたかはおれにはわからなかった。だが、銃弾が佐野に命中したのは明確だった。

 マットの上に崩れ落ち、傷をかばう佐野に更なる銃弾がトドメを刺した。

「おまえそれでも体育教師の息子かーッ!

 

 佐野は泣いた。

『せんせい、それは関係ないじゃないですか、親がなにをやっていようが関係ないじゃないですか』

 竹田の怒鳴り声に、喉のドアを叩かれるのをおれは感じていた。だけどやはり、恐怖でドアをあけることはできなかった。

 その時、も……。

 その後、佐野が不登校になったり顕著に陰鬱になったりすることはなかったが、おれは負傷した戦友にたいしてなにもしてあげられなかった自分を恥じ、責め、いつまでもいつまでも、後悔した。

 自分という壁。いつまでも越えられない自分という壁。その壁の前でおれは、怖気づいていた。

 

 ハクはなにも言わず、いつものように窓外の遠くに視線を馳せていた。ハクとならばどんなに沈黙が時間を埋め尽くしても奇妙な不快感を持て余すことはなかったが、おれは自分と同じように進学するまでの上っ張りの人間関係に辟易しつづける親友の心労を察して口を開いた。

「なあ、さっきからなに見てんだよハク?」

「あ? 富士山」

 ハクはおれを一瞥すると再び富士山に視線を結び、ぽつりと呟いた。

「どうよ、雪化粧のはげかけた富士は?」

 遥か彼方まで晴れわたる空の中に、まだうっすらと雪のファンデーションを塗った富士山がまるで巨大な怪獣のように見えた。

 富士山も化粧している。その方が美しいと誰もが口にするけれど、おれはそうは思わない。勝手に積もった雪で美をますなんて。人間だって知らない間に身も心も化粧して、それで素敵になるなんて、絶対嘘だ。

 ガラッ、とお音を立てて教室の前のドアが流れた。刹那、教室中の視線と緊張が一転に集結し、同時に悲鳴と吐息が無音のまま空気に浸透した。

 おれとハクの視線が一致した。ハクもおれと同じことを著かんしたのだ。

 この男と戦うことになる。いつ、どこで、どんな形で、それはまだわからなかったが、いつか、戦うことになる。

 おれとハクは、そう予感していた。

 この壁は、絶対越えなければならない。自分という壁を。

 おれは気を引き締めるように、ゆっくりと15センチ開いた窓を閉めた。

 

  おれたちの前にはいつも

  壁がある

  どうすれば

  その壁を越えられるか

  誰も教えてくれない

  自分で越えるしかないんだ

  自分で