<第10話> スカートの中 | 愚かな少年

愚かな少年

この物語はある一人の少年がやらかしてしまったバカ話です

 

<第10話> スカートの中

 

 自然消滅。

 

 そんな言葉があるということを、つい最近知りました。どのくらい最近なのか、具体的に説明するのはちょっと難しいのですけれど、まあ、あえていうならば、いま、ここで、自分自身で書いたその〝文字〟をそっと見ていると、一瞬、とても大きな岩玉が、猛烈なスピードで飛んできて、顔にぶつかったような衝撃をはっきり感じるくらい、最近です。

 

 あれは、いまから、

(わたしは、いま、これまで誰にも告げずに来たことを、顔も名前も、声を、容姿も知らないあなたに話すにあたって、ちょっと、考えました。ためらいました。だって、わたしの主人は、わたしのような愚かなおんなを、愛している、というのです。

 

 主人のことを思えば、こんな馬鹿げた文章に、ペンを執るなんて、いけないのだと思うけれど、でも書かずにはいられない。ほかの女性はどうなのでしょう。誰にも話してはいけない話を持っていたら、じっと、胸にしまっておけるのでしょうか。わたしには、できません。そのことで、喉がつまって窒息してしまいそうです。だから、書きます。書くけれど、その前に、主人に、あやまっておこうと思います。

 あなた、ごめんなさい……。

 だめ、もっとちゃんとあやまらなきゃ。

 あなた、申し訳ありません。

 

 あれはいったい何年前のことでしょうか。わたしには、難しいことはわかりませんが、バブルがはじけてどうのこうの、景気が悪くてどうのこうの、と世間でそんなことが忙しくいわれるようになって、それからしばらくして、あの人が月末に持ってくるお金が、少しずつ減っていって、あろうことか、わたしははじめ、あの人が、何処か、他所へ女でもつくって、遊んでいるんじゃないかしらとくだらない勘ぐりをしていたのだけれど、ある晩、あの人が、あの人はお酒は全く駄目なのだけれど、お勤めの帰りに何処かで飲んできて、元々無理なものを無理矢理飲んだせいで、途中で何度も嘔吐したのでしょう、まっ蒼な顔をして、ぽろりぽろりと涙を流しながら、いつもなら、自分で勝手に入ってくるのに、ベルを鳴らして、誰かしらと思ってわたしがドアを開けると、そこに蒼い顔をしたあの人がぼうっと立ち尽くしていて、驚いて、

「どうしたの、あなた」

 と、わたしが訊くと、あの人はスーツの内ポケットから、一枚紙を抜き出して、それをわたしに渡すや否や、すぐに寝室に閉じこもってうぃまいました。

 

 わたしはドアを閉めて、リビングに戻る廊下で、あの人が寄越した紙の文字を目にして、一瞬にして、家中の灯りが消えてしまったような、大きなショックを受けました。

 

 解雇通告。

 

 四つに折りたたまれた紙の一番上に、太くて、しっかりした、ゴシックの文字が、大きく記されていて、それを見ただけで、わたしはもう、そのあとの説明など、読めなくなってしまいました。

 

 真っ暗になったわたしの目に、さっきの、あの人の、涙で濡れた蒼い顔が、小さく、浮かんできました。

『もう終わりだ』

 口には出さなかったけれど、あの人は、そう思ったのでしょう。そうして、きっと、自殺するための、勇気、みたいなものを得たくて、それとも、もしかして、ただ、家に帰ってわたしの顔を見るためだけの、覚悟、みたいなものが欲しくて、全く駄目なものを、喉に通したのでしょう。

 

 しばらくして、闇の中に、小さな光が射しました。そうだ、通帳に、まだお金が……。わたしは、はっ、と思いついて、銀行の通帳を箪笥の中から引っ張り出して、そうして、中を開けると、

 

 351.621

 

 と、小さく刷られていました。暗闇の中に差し込んだ、小さな光が、少し、ほんの少し、大きくなったように、思えました。

「まだ、大丈夫」

 ひとり呟いて、そうしてリビングの灯りを消しました。

 

 寝室のドアを開けると、あの人は、もうベッドの上で、布団を、頭から被っていました。わたしは服を脱いで、下着だけになって、あの人が、きっと涙しているベッドに身をすべらせて入り、胎児のように、膝を抱え、背中を丸くしているあの人の頬に、くちびるを置きました。

 

 やはり、あの人は、まだ眠ってはおらず、わたしのほうへ向き返って、じっと、わたしの目を見つめました。本当に、悲しそうな目をしていました。

 

 母性本能。

 

 というものでしょうか。わたしは、何か、不思議なちからに駆られて、今度はあの人の唇に、わたしのくちびるを乗せました。すぐに、あの人のアルコールで湿った舌が口の中に入ってきて、激しく、水を得た魚のように、動きました。

わたしも、それに反応しました。時々、わたしの口から、吐息のような声がもれました。

 

 わたしは、あの人のからだに、しがみつきました。あの人の手が、やさしく動いて、わたしの下着を脱がし、そうして、そのまま、わたしとあの人は、行為に及びました。とても激しいとはいえない、静かな、行為でした。アルコールの所為でしょうか、あの人の体は、とても温かった。けれど、何だか悲しくて、切なくて、淋しい、行為でした。

 

 当時としては、珍しいことだったのかもしれません。

 太くて、丈夫そうな、黒い柱があって、その隣の麻の間には、何と書いてあるのか、わたしのように学問のない者には、全く読めない掛け軸が掛けてあって、そのすぐ下には、大きな熊が、魚を喰っている彫り物が置かれてありました。

 

 両側に障子が大きく開けられてあって、初春の、あたたかな陽が、部屋の中に差し込んでいて、わたしは、何だかほかほかと心地よくなっていました。そうして、庭の創りも、実に日本的で、美しくて、時折耳に届く、ししおどしの音も、カコン、と気持ちの好い音を響かせていました。

 

 その時わたしは二十三歳で、その親戚の家の、広々とした立派な部屋で、あの人と初めて会いました。

 あの人は、四十七歳でした。がっちりと恰幅のよい体の上に、丸い顔を乗せて、わたしのほうを見て、愉快そうに、笑っていました。

 

 わたしは、あの人を見ると同時に、やめよう、と思いました。

 立会人として、庭を背にすわっていた、わたしは一度もあったことのなかった親戚のおばさんが、ひとりでずっと喋っていました。

 

 暫くして、おばさんの、

「それでは、あとはおふたりで」

 が、ひと言あって、わたしの父と母は、あの人のご両親に、

「よろしくお願いいたします」 

 と、深く頭を下げて立ち上がり、あの人のご両親も、答えて、

「こちらこそ」

 と、席を立たれ、そうして、わたしと、あの人と、ふたりきりになりました。

 

 しん、とい静かな時間が過ぎました。聞こえてくるのは、ししおどしの、カコン、カコン、という音だけでした。

 わたしは、視線を落として、じっと、泣くのを嚙み殺していました。

 

 数日前のことです。突然、母が、お見合いの話があるんだけど、あなた、どう、と訊かれた時、わたしがその気はないのに、どんな人どんな人、とちょっと、冗談ではしゃいで見せたので、母も、じゃあ連絡しておくわね、といったけれど、わたしは、母も冗談のつもりで答えたのだと思って、そのままにしておいたら、ある日の晩、わたしがともだちと、外で遊んで、家へ帰ってみると、すぐ、母は、色鮮やかな和服を、両手に持って、玄関の、わたしのほうへ駆け寄ってきて、ひと言、

「どう?」

 とわたしに訊きました。

 わたしは何が「どう?」なのか全くわかりませんでした。

「何が?」

 と、わたしが、ぽかんとした顔で問うと、

「何がって、あなた……明日着ていく服よ」 

 と母。

 それでも、わたしが、何のことか理解できませんでした。

「誰が?」

 わたしが、不思議そうな顔でいうと、

「誰がって、あなた……〝あなた〟に決まってるでしょう」

 と、ちょっぴり不機嫌な母。

 そこまっできても、まだ、わたしは母が何をいっているのだかわからず、もううんざりしながら、

「何処へ?」

 と少し声を大きくして訊くと、母は、声を荒げて、怒って、

「何処へって、お見合いに決まってるでしょう。もう先方には連絡しちゃったんですからね。いまさら、駄目なんていわせませんからね」

 

「あのー」

 あの人が、突然、口を開きました。実に、自信なさげな、弱々しい、見てくれとは正反対の小さな声で。わたしも、あの人のことを非難できないほど、微かな、細い、声で、

「はい」

 と、いいました。

 

 あの人は、その日、わたしと逢った時から、もしかすると、前の晩から、ひょっとすると、このお見合いが決まった瞬間から、ずっと、ずうっと、考えていたのかもしれません。わたしと、ふたりきりになったら、まず、最初に何を喋ろうか。

 

 それでも、やはり、四十七歳の、いい年した男が、二十三歳のコムスメと何を話せばいいのかなんんて、思い浮かばなかったのでしょう。ずっと、ニヤニヤ、と、あの人は、さわやかな笑顔を示しているつもりの、助平そうな顔で、わたしのほうを見て、あれこれ考えていたのかもしれません。

 

 ……そして、

「あのー」

 と、やっとの思いで口にして、わたしの、素っ気ない返事に、くじけそうなのを必死で耐えて、

「すみません」

 と、ただそれだけ、と思った矢先、それまでの様子がウソだったかのような大きな声で、はっきりいって、わたしのことを驚かせようとしたのか、すっ、と席を立って、ぱっ、と部屋から出ていってしまいました。

 

 ほっ、としました。本当に、何だか、妙な、安心感というか、解放感というか、何といえばいいのか、こう、試験を終えた中高生の気分、みたいなものを、感じました。

 

 もう、これで、あの人と、逢うことはない。どうして、わたしのような、若くて可愛い(若かったのですね、馬鹿だってのですね、自分のことを、そんなふうに形容していたなんて。いいえ、歳の所為ではありません。わたしは今でも自分のことを……それが、わたしの、わたしらしい欠点です)女が、どうしてあんな……、と、考えながら、わたしは、こころの中、笑っていました。

 

 あの人と、初めて逢った日から一週間か十日ほど経った頃でしょうか、わたしはぼんやりと、ただぼんやりと、街を歩いていました。そうして、ぼんやりしながら〝恋〟という不思議なものについて、考えていました。

 

 わたしが初めて、男の人を受け入れたのは十八歳の時です。

 その人と出逢ったのはーー 何だか、わたしがこれまでの人生の中で、だれと出逢ったのか、そればかり書いてしまいます。やはり、出逢い、というものは、こんなわたしにも、大切な出来事として、訪れるものなのだと、今あらためて思います。

 わたしがその人を初めて見かけたのは、高校生になった、春のことです。

 

 濡れる。

 

 高校生になって、少しずつ新しい生活の緊張感もほぐれてきて、仲良しのグループも出来つつ、教室に笑い声が多くなると、女子の間で、その頃、密かに流行った言葉があります。それが、

 

 濡れる、です。

 

「したの」

 放課後、家の方向が同じだったY子(彼女とは、もう何年も連楽を取っていないけれど、偶然というのはわたしの理解をこえたところにあるもので、もしあなたと彼女が知り合いだったりして彼女が何処の誰かわかってしまったら、彼女に申し訳ないので、本名を書くことははばかられ、また、架空の存在に変えてしまうと、嘘を書くことになってしまうと思われ、こういう書き方をします)が、すごく愉快そうで、とても嬉しそうな、わたしが見る限り、女神のように感じられた、神々しいまでの笑顔を見せて、そういい、わたしは、えっ、と一瞬何のことかわからなかったにですが、短い時間、頭の中で、

『したの、したの、したのしたのしたのしたの』

 とY子の声が、ぐるりぐるりと駆けめぐって、急に、はっ、としました。そうして別の女生徒が、

「いつ、どこで、だれと」

 と、Y子の秘め事を、まるでおもちゃ屋でおもしろそうな玩具を物色する子どものように、あれもこれもと手を出して訊きました。

 

 うふふ、とY子は下をうつむいて少しの間笑って、そうしてそれから、そのまま微笑みを崩さぬまま、

「まあ聞いてよ」

 と、語りだしました。

 

 わたしは、自分がひどく子ども扱いされているのを感じました。少し、いやいや、心底悔しかった。それから彼女は、ここ数日で、彼女のからだに訪れた出来事について、語りました。

 

 Y子のくちびるは、空腹でエサに喰いつくきんぎょのそれのように、パクパクと動きました。わたしは、頷くことも忘れ、彼女のくちびるから発せられる物音に耳を向けました。

 

「それからアタシ、ずっと濡れてるの」

 はっ、としました。その一点から、わたしの心臓が、ドキン、ドキンと大きく動きました。

 

 わたしも……濡れて、みいたい。

 本気でそう思いました。Y子が語ったように、ただその人を見ているだけで、その何といえばいいのでしょうか(はずかしいので書きません)自然と濡れてくる、その感覚を、味わってみたい。

 

 楽しそうに、嬉しそうに、愉快そうに、幸福に満たされたように、〝訪れた一時〟について話すY子が、白いブラウスの上に濃紺のブレザーを羽織った姿が思い出されるので、季節はすごしやすい春だったのでしょう。

 

 その日からわたしはまるで獲物をさがす獣と化して、教室中の男たちを次から、次へと順々に見まわし、見つめ、見すえ、この人か、この人か、とこころの中で自問しながら、違う、違う、どいつもこいつもわたしを濡らさない、と苛立ち、焦り、わたしを濡らすオトコを求めながら、暑い夏を向かえ、そうして秋を過ごし、冬を越え、そうしてまた、新しい春を向かえ、そうしてわたしは、その人と、出逢ったのです。

 

 今、わたしがの胸が、少し強く高鳴りました。ペンを握る指先は、うまくちからが入らず、スムーズに動いてはくれません。おでこの両端が、少し汗ばんできました。そうして、ああ、ああ、恥ずかしい。ごめんなさい、こんなこと書くなんて。

 

 わたしは今、じっとりと、感じています。あの春の時も、わたしは、今と同じようになりました。

 新年度の始業式の日も、朝、学校に向かう通学路を歩いている時から。

 

 はっ、としたのは、Y子の姿に気づいたからです。

 あなたや、他の女たちはどうなのか、わかりませんけれど、わたしは、休みの日は、ずっと、家に閉じこもっているので、そうして、また、本当のともだち、と呼べる友人も、いなかったので、家に電話がかかてくることも、全く、全然ありませんでした。

 

 もしかしたら、わたしは嫌われていたのかもしれません。だから、その時Y子を目にした瞬間、はっ、としたのだと思います。

 

 わたしは、うつむいたまま、Y子に気づかれないように気づかい、そうして、徐々に、徐々に、歩幅を狭め、少しずつ、少しずつ、歩くペースを遅くして、彼女との距離を広げました。彼女の姿が見えなくなりました。校門をくぐりました。話したことはないけれど、見覚えのある顔が見えました。春という季節の所為でしょうか、皆の顔が清々しくそうしてきらきらと輝いているように感じられました。

 どうしてでしょう、わたしの目は、ずっと男ばかり追っていたはずなのに、いつの間にか、きっとY子を見てしまったその瞬間からかもしれません、オンナばかりを見るようになっていて、そうして、わたしの目に映るオンナ、オンナ、オンナ、が誰もかれも、わたしの知らないことを知っている、大人の女に思えました。

 

 ああ、ああ、あああ、わたしだけが、濡れたことがない女なんだ。

 下駄箱に着きました。まあたらしい上履きを出し、わたしの小さなふたつの足は、仲良くその中に入っていきました。

 昨年と、同じ模様の廊下が続いていきます。階段をのぼります。新しい教室に来た、その時です。わたしは、その人を見た瞬間、じっとりと、訪れを感じました。

 

 その日一日が経たないうちに、わたしはその人のことをたくさん知りました。その人と直接コミュニケーションを図った、からではありません。他の女子たちから、その人の情報を入手したわけでも……いや、正確にはそうなのかも。教室の中で、これ以上わたしに相応しいと思える場所はない、というほど暗い席にすわって、黙って、文庫本を開いていると、聞こえてくるのです。

 

 ねえ、ねえ、彼、かっこいいね。でしょう、チョーかっこいいよねえ。彼って頭もいいしバレーボール部のエースアタッカーだし、ほんとマジかっこいい。彼、カノジョとかいないのかなあ。うん、そういう話は聞いたことないけど。硬派って感じが似合ってるもんね。今時。

 

 あんなに赤く染めた髪を肩まで伸ばしているのに、どうして硬派なんだろうとおもいました。

 

 ほんとチョーかっこいいTくんって。彼の姓を聞いて、ドキッとしました。そこへ、また別の女子がまた一人加わって、ねえ、噂なんだけど、Tくんってギャルが好きみたいよー。

 じゃあ、アタシもイケるかなあ。

 

 ギャル。

 

 わたしが高校生だった頃、そういう女子が大量生産しました。髪の毛を踊るような感じに切り込み、赤く染めたり、メッシュ、といったと思います。白いマダラ模様をつけたり、下着を見せんばかりにスカートを短くしたり、ルーズ、と、いったと思います。何だがすごく無様な靴下をはいたり、ガングロ、といったと思います、体中を真っ黒にしたり、そういう女子高生を、ギャルと、呼んでいました。

 

 また別の子が加わりました。

 Tくんでしょう、かっこいいよねえ。ホント、ホント、チョーかっこいい。

 

 その人についての情報を、そんなふうにわたしに提供してくれる女生徒たちはみな、同一のファッションに身を包んでいました。ギャルでした。わたしとは完璧に対極に位置する存在でした。

 

 また、別のギャルがやってきました。その人についてのことが、また聞けると思い、わたしはわざとらしく文庫本のページをめっくったりしながら、耳を立てました。彼女口から届いたのは、

「ねえねえ、見て見て、これこれ。きのう買ったんだ、グッチのバッグ。二十万もしたよお」

「うっそう」

「うっそう」

 

 嘘?

 わたしもギャルたちと同じ反応をしました。二十万なんてお金を、ただひとつの物品にかけるなんて……驚きました。それに、二十万なんて大金、いったいどうして、手に入れることができるのでしょうか。わたしと同じ、月一万円のおこづかいをもらているとして、それを一円も使わずにいても二十ヶ月かかるし、第一、彼女が一円もお金を使わずひと月過ごすなんて、考えられない。想像できない。

 

 バイト。

 そう、アルバイトして、いや、でも、一時間千円稼げる、として、一日に、そうね、四時間が限界かな、それで一週間に五日働いたとすると、

 二万円。

 わたしはひとり頭の中の電卓をたたいて、あ、それなら何とか、と思いました。

 

「したんでしょう」

 彼女たちのひとりがいいました。わたしは、ドキリ、としました。

「もちろん、した、わよ」

 

 顔が真っ黒だったからでしょうか、照れる様子もなく、引くこともなく、彼女のしていることが、正しいように思えました。文庫本のページをめくる手が、震えました。思わず、ページから指をはなしてしまいまいした。

「何、どんな人?」

 ギャルたちの会話が続きます。

「別に、どーってことないオヤジよ」

 

 援助交際。

 

 こんなにも、わたしの身近にあるなんて。ドキドキがドッキンドッキンに変わっていきました。どうして、どうしてそんなこと、できるんだろう。この子は、相手が、何処の馬の骨ともわからない、薄汚い、オヤジでも、濡れるのでしょうか。

 わたしなんて、今日が、初めて、なのに。

 

「仕方ないのよ。男をゲットするのにも金は要るんだから」

 彼女の言葉に、悲しさ、虚しさ、諦め、そんなものは、全くありませんでした。

「アンタらもTくんと付き合いたかったら、しなさい」

 その台詞は、わたしに向けられているようでした。

「そうする、わ」

 

 立ち上がって、そう、宣言したギャルの声は、わたしの、こころの、ずっと奥のほうから、湧き上がってくるもののようでした。そうしてそれは、わたしの中のあちこちにぶっかって、何度も何度も反響しているみたいに、感じられました。

 

 その日の放課後、わたしは「そうする、わ」の女生徒の後を、容疑者をつける刑事のように、細心の注意を払いながら、尾行しました。

 

 この女には負けない、この女だけじゃない、他の誰にも負けたくない、この女に、彼をわたす訳にはいかない、このおんなだけじゃない、他の誰にも、彼を奪われたくない。こころの中に生まれた炎は、強く激しく、燃え上がっていきます。この炎の向かうべき場所は、この女が知っている。そう思って、彼女をつけてきました。地下鉄から山手線に乗り換えると、彼女は鞄の中から真紅のポーチを取り出し、メイクを始めました。左手に鏡を広げて、ファンデーション、ルージュ、アイシャドウ、先刻までは、ちょっと派手ではあるけれど、同い歳の、いつも同じ教室にいる女子高生と思えていたけれど、その彼女が、少しずつ、大人のオンナに化けていきます。

 

 わたしだって、年頃の女の子、化粧くらいするけれど、彼女はわたしの知らない不思議な粉を、まるで魔法でもかけるように使って、きらびやかに輝くオンナになりました。

 

 彼女が髪をかき上げた瞬間、はっ、としました。心臓が喉から飛び出そうになりました。

 本当に、本当に、綺麗でした。同性のわたしが見て、こころ奪われるのですから、男の人が見れば、心を奪われるだけでなく、魂を根っこから引っこ抜かれてしまう、そう思うくらい、彼女は〝オンナ〟でした。

 

 電車に揺られ、同じ制服姿の美しさに揺られ、何だか眠たくなった時、彼女は、すっと席を立って、降車しました。わたしは、自らを覚醒させ、遅れることなくホームへと踏み出しました。もちろん、尾行していることを悟られないように。帰宅ラッシュのピークははずれているものの、都心の駅、しかも何線もの私鉄、地下鉄とつながるこの駅は、ほんとに黒山のような人たちで、しかもその山はベルトコンベヤーの上を流れているかのように次から次へと、絶えることはなく、そんな中、わたしは、彼女の背中を、かじりつくように追いました。駅構内を脱出しても、相も変わらず、人、人、人、何処まで行っても人ばかり。少し疲労を感じたけれど、わたしは諦めたくなかった。その人を……、息が切れて、足の裏やふくらはぎが痛かった、彼女の背中が、彼の、そう、Tくんの背中のように思えて、その、幻影のような白昼夢のような感覚が、わたしを疲労と苦痛から守ってくれてのかもしれません。

 

 彼女が、止まりました。黒山というほどの人ではないけれど、風の音が聴きとれるほど閑散とはしていない、それくらいの人の流れの中で、彼女は止まりました。

 歩みを止め、辺りを見、何故彼女が、軟派目的の男女が集う駅前広場ではなく、このストリートを選んだのか、わかりました。

 

 女を魅せるため、そうして男を見るため。

 ごったがえしの群衆の中では男たちは彼女を見れない。彼女は男を見れない。人通りが少なすぎては何も起こらない。

 賢いな、と思いました。何故か。

 

 彼女は煙草に火を点けました。当然のことのように火を点け、習得しきった手つきでそれを扱い、ふう、と白い煙を口から、勢いよく立ち昇らせました。そんなふうに、同い歳の、同じクラスの彼女が煙をふかしたからじゃありません、その煙草が燃え尽きるより先に、彼女の前に、男が、立ったのです。

 

 長い髪をマッキンキンに染めた、背の高い男でした。歳は、わたしと同じか、ひとつかふたつ上、歳下には見えませんでした。

 わたしには男のうしろ姿しか見えなかったのですが、背中に、戦慄を覚え、膝がガクガク震えました。ただ、視線だけがふたりのほうへ一直線に向かって、じっと、見すえていました。

 

 しかし暫くすると、男は去って行ってしまいました。

 すぐにまた、別の男が彼女に声をかけました。高価そうなスーツをキッチリ着こんだ男です。

 

 いつの間に陽が落ちたのでしょう、ふたりの姿が街灯に映えていました。男は彼女の肩に腕をまわし、どこかをゆび指して、彼女を強引にいざなおうとしました。

 その男にも、彼女はついていきませんでした。また、彼女が煙草を口にしました。

 

 少し、寒くなってきました。

 今度は、頭のうすくなった、サラリーマン風の男が、彼女の前に立ち、一分と経たないうちに、彼女とふたり、歩きだしました。手をつないで。

 わたしには、彼女とその男が、和食堂に夕飯を食べに行く父と娘のようにしか、見えませんでした。

 

 ここからだ、本番は。

 

 急激に昇りはじめた緊張感を胸に、彼女たちを追いかけようとした、その時、

 

「ネェ、ひとり?」

 頭のうしろで、男の声がしました。聞き覚えのない男の声でした。驚くよりも早く、反射的にからだがそっちを振り返りました。瞳の中に、男の顔が飛び込んできました。縁の太い、度のきつそうな眼鏡をかけ、顎の下の辺りが、喉を膨らました蛙のようになっていて、獣のような不気味な顔が、急速に向かってきました。わたしのからだは条件反射的にあとずさりました。

 

「飲みにいこうよ、ネ、ネッ」

 おとこの顔が妖しく微笑みながら、わたしのほうへ近寄ってきます。ずんずんずんずん近寄ってきます。

 

 わたしは怖くなりました。からだがぶるぶる震えながら堅くなっていきます。男が、もっともっと近づいてきて、わたしのほうへ、大きく膨らませた風船のような手の平が、わたしの肩をつかもうとした瞬間、わたしの喉にかかった鍵が、がたっとはずれて、わたしは、どっちが獣だかわからない程の大きな声で、悲鳴を上げ、ネオンに輝く駅のほうへ、必死で、必死で、逃げました。頭の中は、真っ白になっていました。ただ、陽に映える街の灯りが、ぼんやりと見えたことだけ、それだけは覚えています。

 

 翌日、Tくんのことを見た時、気を引き締めなおすことができました。

 

 ……負けちゃ、ダメ……

 

 あの恐怖に、あの戦慄に、負けちゃダメ。

 わたしはTくんのことを想いながら、じっと、席にすわって、文庫本をひろげ、すぐ傍で騒ぐギャルたちの言葉に耳を傾け、門前の小僧が習わぬ経をを読むように、少しずつ、ギャルになるための方法を、彼女たちの空間に飛び交う言葉、それが、Tくんの心へと通じる道と信じて、彼女たちギャルは、何処で売っている服を着、何処で化粧を手に入れ、何処の美容院に行くのか、それらを、全て、学びました。

 

 一ヶ月が過ぎました。

 わたしの肌は、真っ黒になりました。わたしの神は、銀の模様が入りました。わたしの爪は、紅く伸びました。スカートが、短くなりました。ルーズソックスを履きました。

 

 気がつくと、ギャルたちと、ともだちになっていました。職員室に呼び出されるようになりました。親から無視されるようになりました。幼いころからの貯金も使い果たしました。そうして、こんなウワサが、風に流されてきました。

 

『Tくんが、近頃、わたしのことを気にしている』

〝もう少し痩せてればなあ〟

 そういっている……と。

 

 エステだ、エステに行こう!

 

 エステに行って、スリムになって、……そうすれば、Tくんは、わたしのものに。

 トキメキました。これが、恋だ。わたしは女だ。いろいろな想いがこころの中を駆け抜けていきました。

『お金がいる』

 という現実を残して……。

 

 わたしは、電車のシートにすわって、化粧をなおしています。ファンデーション、ルージュ、シャドウ、鏡の中のわたしが、普通の女子高生からオンナに化けていきます。

 

 電車を降り、人ごみの中を抜け、例の場所へ。わたしは鞄の中から煙草を取り、火を点けます。当然のことのように。

 男が、わたしに話しかけてきます。ひとり……ふたり……、三人目の男と、わたしは歩きだしました。わたしは、その中年の、建設会社を経営しているという、不細工でな、身も心も不細工な男に、金拾萬円なりで、わたしの純情を売りました。好きな男が求めるものを、手に入れるために、好きでも何でもない男に抱かれて、金を稼ぎました。

 

「よかったから」

 そういって、男は二万多く置いて、ホテルの部屋を出ていきました。

 

 シーツに赤い斑点がついていました。わたしは、泣きませんでした。男が置いていった十二人のフクザワユキチの不細工な面を握りつぶして、こう思っていました。

 

『戦争だ、これは、戦争なんんだ!』

 

  わたしとTくんの間には、結局、何も起こりませんでした。

 そうして、そのまま、高校から短大へと進み、わたしはいつの間にかギャルをやめ、就職が決まらぬまま、短大を卒業し、何もせぬまま三年がすぎ、あの人とお見合いをし、何がどうしてどうなったのか、一緒になって、子宝には恵まれなかったけれど、平穏な暮らしに、わたしも、これもまあ、いいな、とそんなふうに思い始めたころ……、

 

 解雇通告。

 

 わたしは、通帳の残高に微かに安堵しながらも、すぐに、パートの働き口を探しました。

 古新聞の束の中から、求人広告を引っぱり出し、求人誌を買い求め、街を歩く時は、いつも、ウインドウの求人募集の張り紙を探し、こんな無能な、過去に全く、労働の経験がなくても、できる仕事があるのだろうか、不安にかられ、手当たり次第に電話をかけ、面接を受けました。

 

 喫茶店、スーパー、居酒屋、ハンバーガーショップ、全滅でした。

 あの人も、毎朝、早く起きては、職業安定所へと、自転車を走らせましたが、そっちも、やっぱり、全て、ダメ、みたいでした。

 

 通帳のお金を、日々の生活が、少しずつ、飲み込んでいきます。

『もう、限界……』

 

 ある日わたしは、化粧ポーチをハンドバッグに放り込み、電車に乗りました。電車に乗って、例の場所に向かいました。途中で久し振りに煙草を買いました。夕刻、そこは、あの頃と変わらぬままで、常夜灯の光輝に照らされていました。わたしは三十八になっていました。

 

 もしかしたら、誰も、わたしなんか誘わないんじゃ……、そんな一抹とは真逆の不安もいありました。だけど、もう、ここしか、来る場所がなかったのです。

 いろんな思いが、わたしをせっついて、あの頃と同じように、恐怖を覚え、戦慄を感じました。

 気をまぎらわそうと、煙草をふかしたけれど、指の間で、煙草がぷるぷると震えているのがはっきりわかりました。

 

 幸か不幸か、すぐに男が現れました。

「ひとり?」

 わたしは男の常套句を無視して、

「いくら?」

 と訊きました。

「三万」

「ダメ」

「……四万」

「ケチ」

「五万!」

 男の腕にしがみつき、わたしは歩きだしました。

 

 その日を境に、わたしとあの人の生活は、安定を取り戻しました。わたしは週に三日か四日、例の場所に向かいました。一日に五万から八万、多い日は十万以上のお金を稼ぐことができました。

 あの人の再就職は、一向に決まりそうにありませんでした。

 

 時代は既に、ネットの時代です。パソコンが使えなければ、どこも雇ってくれません。仕事がなければ、収入がなければ、生きていけないのに生きるすべがない男。それが、今の、あの人でした。

 政府は、底辺で生きる国民に、こころやさしくはありません。政治家は国民を金蔓としか思っていません。

 だからわたしは決意したのです。

 

 生きていくためなら、何だってするわ。必要なものを手に入れるためなら、何だってするわ。

 

 わたしのすぐそばで、わたしよりも、ずっと若い娘が、太モモをむき出しにして、男たちを誘っています。わたしも負けじと、ブラウスのボタンをひとつ、外します。

 

『わたしの仕事を、取らないで』

 

 わたしの前に男が立ちます。すごく金を持っていそうな男が。若い娘の視線を感じます。わたしは彼女に、背中で答えるの、

 

『わたしの勝ち、ね』

 

 わたしは負けない、誰にも、誰にも負けないわ‼』

 

 ホテルのベッドで、シャワーも浴びずに押し倒され、何処の馬の骨ともわからぬ男に、濡らされながら、わたしは、いつも、こう思っていました。

 

『戦争なんだ! 人生は、戦争なんだ‼」

 

 そうやって、戦いつづけ、若い娘に勝ちつづけ、全く気持ちよくないセックスを、見知らぬ男と、何度も何度も、繰り返すうちに、スカートの中の、わたしの〝おんな〟は、いつの間にか、何処かへ、消えてしまいました。

 

 

 以上、全10話で、長嶋優の処女短編集は、いったん終了します。

 最後まで読んでくれた方、称賛してくださった方、批判してくださった方、どちらの方々も、ぼくにとって貴重な存在でした。

 本当にありがとうございました。

 この短編集のタイトルを何にしようか、散々考えました結果、

 

『晩年集』

 

 に、することにしました。

 

 さて、次回からは、ぼくがまだ学生だった頃執筆した青春小説をお届けいたします。タイトルは、

 

『時代遅れの若者たち』

 

 タイトルそのまま時代遅れの作品ですが、みなさんの心に、ほんの少しでも刺されば幸いです。

 

 みなさんなにか感じてくださるでしょうか? 不安と期待を抱きながら、アメーバブログへ投稿し続けようと思っています。

 

 それでは、またお会いできる日を楽しみにパソコンをシャットダウンしようと思います。

 

                                              長嶋  優