<第1話>ぼたん雪~前略太宰治様~
みなさん、申し訳ありません。
今ままで愚かなバカ話を書いてまいりましたが、ぼくは本当は、小説家になりたいのです。そして、いままでどこにも出す当てのなかった短編小説を、この『愚かな少年』に投稿しては? と思い立ち、いったんバカ話はお休みしてその書きためた小説を投稿することにしました。申し訳ありませんが、しばらくお付き合いください。
楽しんでいただけたらありがたいです。
出会いはその名の通り、真っ白なぼたん雪のふる寒い日だった。
その数日前、ぼくはNHKのひきこもり特集を見て、ああ、世の中にはぼくと同じように、人生が思い通りはこばず、自室にとじこもり、いい年をして働きもせず、親のスネをかじって廃人のようにいきて(?)いる人間がおおぜいいることを知った。いや、思い知らされたのだ。
ぼくは小学4年生の時授業中(たしか算数の時間だったかな)クソをもらし、教室から逃げた。
『先生、トイレに行きたいんですけど』
そう一言いえば、ぼくは不登校になんかならなかっただろう。しかしその一言がいえず、クソをもらした。
その日は朝から腹の具合がよくなかった。
それまで登校前にトイレに駆け込むようなことは一度もなかった。だがその日は遅刻するかもしれない時間にトイレに駆け込んだ。ゲリをしていた。
『ママ、ゲリしてるから、今日は学校お休みする』
体調不良を母親にうったえれば、ぼくの人生は、まったく別にものになっていたかもしれない。しかし母親にも
担任の先生にも、その「一言」が、どうしても、どうしても、言えなかった。
運命というものは本当に残酷だ。
ぼくの名前は則夫と書いて「のりお」。
授業中に逃避し、土、日をはさんだ三日後、ぼくの便失禁のことなど誰も気にしてはいないだろうと高をくくって登校したが、教室に入ると、第一声、
「オッ! ゲリオが来たぞ!」
どうして小学生というのはいじめのネタになるようなことに超人的な想像力を持っているのだろう。クソをもらしたぼくの逃避行をクラス中のみんなが覚えていた。
そうしてぼくは「ゲリオ」よばれるようになり、不登校になり、そうしてついに、ひきこもりになった。
ぼくの家は、決して裕福ではなかったけれど、同時に極端に貧乏というわけでもなかった。だが父親の勤めていた建設会社がリーマンショックのあおりを受けて倒産してしまった。社長さんは2億円の負債を抱えて首を吊ったらしい。
それから父親は毎週のようにハローワークに通ったが、採用してくれる会社は見つからず、建てたばかりの自宅を売却し、その金でなんとか家族三人食いつないだが、ついには貯金も底をつき、気がつけば長い月日が流れていた。
信じてもらえないかもしれないが、ひきこもりをしていた間、ぼくが何をしていたかと言えば、勉強だ。ぼくはやさしい母親が大好きだった。いつも、いつかママの自慢の息子になろうと、大検(そういう制度があることはネットで知った)を取得し、東大に合格した。
「則夫、よくがんばったわね」
と、母親は泣いて喜んでくれた。そのころ父親は交通誘導員の仕事に就き、母親もスーパーのレジの仕事がをパートでして、ぼくの少年時代の屈辱も、長い人生の一点の汚点に変わり、ぼくは自分に自信が持てるようになっていた。そうして勉強の一方唯一の趣味は、読書だった。そしてインターネットの読者サークルを見つけ、おもしろそうな本を見つけては、書店にはいかず、ネットで購入した。そうして東大に受かり、自分のことを「ゲリオ」と呼ぶ人間がいなくなったある日、ふと立ち寄った小さな古本屋で太宰治の『人間失格』というタイトルに強く惹かれ、おそらく青春小説だろうと手に取り、すぐ
仕送り(ぼくは青森の生まれなので東大合格と同時に上京した)のお金で即座に購入し、それがあまりにも衝撃的な小説だったので、それ以来ぼくは太宰治の愛読者になった。
人生が、やっと自分のものになった。そんな気がした。そうして失われた日々を取り戻すように、ぼくは、生きた。
朝起きて、トーストを食べ、大学へ行って勉強し、帰りにネットでも購入不可能な本を買うために時々古本屋に寄り、おもしろそうな本を見つけては迷わず買って読む。いつしかぼくのクラス1Kのアパートは本だらけになっていた。
ぼくはいらなくなった本を売ったり、仕送りをつかったりして、また本を買った。そうして雪のふる寒い冬のある日、ぼくは絶世の美女と出会い、一瞬で恋に落ちた。彼女の、ちょうど胸のあたりにつけられたネームプレートには「たにがわ」と、本人のものであろう女性的な美しい文字で書かれていた。
ぼくにとって、人生二度目の恋だった。
ぼくの初恋は、クソをもらした一年前。ぼくの隣の席の田中映子という、赤い縁のメガネがよく似合うかわいい女の子だった。ぼくに生まれて初めてのいバレンタインのチョコレートをくれたのも彼女だった。そうしてホワイトデーの日、ぼくたちは早すぎるファーストキスをした。5年生になってからも彼女がクラスメイトだったら、ぼくは『先生、トイレに行きたいんですが』といえたかもしれない。だけど、5年生二なるとき、ぼくたちは同じクラスにはなれず、ぼくはクソをもらし、地獄の日々が始まり、ぼくは、ひきこもりになった。
そうして人生二度目の恋。
たにが(おそらく「谷川」と書くのだろう)さんに恋をした。下の名前はなんていうのだろう? 名前なんか訊いたら不審者と思われてしまうだろうか?
時の流れは速く、ぼくは大学4年生になっていた。卒業後は就職はせず、大学院に進むつもりでいた。たにがわさんは何歳なんだろう? いつか急にいなくなったらどうしよう。ぼくは焦る自分を感じていた。
思い切って告白しようか? せめて連絡先だけでも教えてもらえないだろうか。彼女が一生あの古本屋にいる保証はどこにもない。
ぼくは、告白する覚悟を決めた。しかし覚悟とは、自立した生活を送り、家族や友人の力を借りずに愛する人を守る、ということだ。
ぼくは学費も親に払ってもらっている。そうして親からの仕送りで生計を立てている。そんな男が恋した女性に告白する資格なんかはたしてあるだろうか? しかも彼女は働いている。彼女はぼくを受け入れてくれるだろうか?
ぼくは中途半端な覚悟を引きずって、彼女の働く古本へ向かった。
少しずつ、足が震えてきた。ノドが乾いてきた。鼓動が激しくなってきた。
店に着いた。しかしたにがわさんの姿はなかった。ぼくはたにがわさんがいないときだけ店番をしている初老の男性に勇気をふり絞って、訊いた。
「あのお、すみません。たにがわさんて(ぼくは右手のひとさし指で宙に谷川と書いて)ふつうに『谷川』ってかくんですか?」
「そうですけど、どうしてですか?」
「いや、その、べ、別に、し、失礼します」
ぼくは逃げた。小学4年生のときからまったく成長していない。
その後の一週間、ぼくは毎日彼女の古本屋を訪れたが、彼女は姿を見せなかった。
やめてしまったのかな? そうしてぼくは失望し、その古本屋に行かなくなった。
しかし、絶望と奇跡は表裏一体。ぼくは成人式(行かなかったけど)のために母親が買ってくれたスーツとコートに身を包み、なんのあてもなく、古本屋の周りを毎日歩き回った。そうして、ある日、失望を希望にしようと店の中をうかがうと、谷川さん! 彼女がいた! ぼくは猪突猛進とはこのことか、といわんばかりに古本を陳列する谷川さんに向かって、一直線に歩いた。早足で。
「すみませんん!」
「はい」
「いきなりこんなこといわれると、ぼくのこと変人だと思うかもしれませんけど、実はですね、今日ぼくの誕生日なんです。夕食、付き合ってもらえませんか?」
ぼくはウソをついた。そうして肩にかけたザ・ノースフェイスのショルダーバッグからメモ帳とボールペンを取り出し、電話番号を書いてそれを彼女に渡して、また、逃げるように、走り去った。
アパートに帰り、スマホをガラステーブルの上に置いて、その前に、ドカ、っとすわり、かかってくる可能性が限りなくゼロに近い着信を待った。
四時間待って、スマホは着信しなかった。そうしてぼくはいつの間にか眠りに落ちて行った。
スマホが鳴った。電話番号は080からのものだった。
「はい、仲村です」
「ナカムラくんっていうんだ。谷川書店の者ですが、この声、わかる?」
ぼくは混乱していたが、スマホから聞こえる声は、はっきり記憶していた。まさかあの古本屋が「谷川書店」という屋号だったとは……気がつかなかった。つまり、彼女はあの古本屋の娘だということだろうか?
「遅くなってごめんなさい。お店棚卸しだったから。わたし、美しい雪でみゆき。ナカムラくんは下の名前なんていうの?」
「の、ノリオです。法則の則に夫で」
「今日お誕生日なんでしょう? 夕食ごちそうしてあげる」
「え? マジっすか? いや、本当ですか?」
「則夫くん、家はどこ?」
「大学の近くのアパートです」
「大学って東大?」
「はい、そうです」
「すごい! 頭いいんだね」
強く念ずれば花開く—。
「それじゃ、赤門の前で待ってるから。どれくらいで来れる?」
「十分で行きます」
「それじゃ、わたし、車で行くから」
ぼくは有名なデザイナーのアシスタントをしていたことがあるといっていた母親が買ってくれたブランドもののブラウンのシャツに黒いスーツと黒いコートを羽織って、意気揚々とではなく、不安のかたまりとなって赤門に向かった。
車はすでに着いていた。赤のセダン。プッ、プッ、というクラクションが二回鳴った。ぼくは車のほうへ駆け寄り、
「どうもすみません。遅れまして」
と、あやまった。
「冷えちゃうから、早く乗って」
美雪さんの車で十五分。イタリヤ語で「召し上がれ」という言葉が店名のイタリアンレストランに着いた。
店内に入ると一番奥の席に案内された。
「則夫くん、何か苦手なものってある?」
「特にないですけど、すごくからいものが苦手です」
「そう」
フルコース。前妻のサラダからマルゲリータピザ、イカ墨のパスタ、メインのステーキにデザートのティラミス。すべて至極の味がした。そうして食事を終えて車に戻ると美雪さんがぼくにキスをして、お誕生日おめでとうと、祝ってくれた。
そこで夢が覚めた。ぼくはなぜか泣いていた。しかし「偶然を装いながら奇跡はいつもそばにいる」と誰かが歌っていてのを思い出した。
谷川さんに会いたい。ぼくは強く祈り、そうして、夢の中で来ていたものと同じ服を着て谷川書店に向かった。
どうか、谷川さんにあえますように……。
いた。
奇跡は起こった。そうしてぼくは夢の中と同じように勇気をふり絞って谷川さんに声をかけた。
「す、すみません。いきなりこんなこといわえると、ぼくのこと変人かと思うかもしれませんが、ぼく、仲村則夫といいます。今日、誕生日なんです。夕食、付き合ってくれませんか?」
頼む。
ぼくはまぶたを閉じた。
十秒ほど思案にくれて、谷川さんは口を開いた。
「いいわよ。でも、悪いけど、お店が終わるまでどこかで時間つぶしててくれる。あ、それから電話番号教えてくれる。仕事が終わったら連絡するから」
ぼくは、ザ・ノースフェイスの黒いショルダーバッグの中からメモ帳とボールペンを取り出し、名前とスマホの番号を書いて1ページはがし、谷川さんのほうへ差し出した。
ぼくはいったん帰宅し、谷川さんからの電話を待った。
着信。
時刻は午後7時8分。
「はい、仲村です」
「則夫くん?」
「はい、お忙しいところすみません」
「わたし、みゆき深い雪って書いて。則夫くん、お住まいはどちら?」
「大学の近くです」
「大学って、東大?」
「頭いいんだね。尊敬しちゃう」
「そんなこと」
「それじゃ、車で迎えにいくから、赤門の前で待ってて、ね?」
アパートを出て七分。赤門の前に白いボックスカーがハザードランプをつけてとまっている。
深雪さんだ。テールランプが一回点滅した。
ぼくは助手席のほうへ走り、車に乗ってお礼をいった。
深雪さんの運転する車は国道を横切って住宅街の中へと入っていった。
いったいどこに向かっているのだろうか? こんな住宅街の中に食事処なんかあるのだろうか?
ぼくの疑問をよそに、車はとっても大きなマンションの駐車スペースでとまった。
「ここ、どこですか?」
「わたしんち」
「え?」
ぼくは驚いた。古本屋の給料でこんなマンションに住めるなんて。
深雪さんの部屋は八階にあった。
カードキーを押しあてて玄関を開けると、深雪さんは、どうぞ、と短くいって、ぼくを部屋の中へ招いてくれた。そうして広々としたリビングにもうけられたグレーのソファーを指さして、
「すわって」
と、また短くいった。
「すぐ晩ごはんつくるから」
ソファーの対面にはシアターのスクリーンのような大きなインチのテレビがあった。ぼくはテーブルに置かれたモコンを手に取り電源を入れた。
緊張しまくっていたぼくは、落ち着かず、何度もチャンネルを変えては部屋の中にただよう芳香に酔いしれて行った。
どのくらいの時間がたっただろうか。深雪さんがダイニングのほうからぼくを呼んだ。
ダイニングテーブルの上には、ビーフシチューとマカロニサラダ、それに木製のかごの中にフォカッチャがいくつか、おいしそうにならべられていた。
「ケーキはないけど、これでカンベンしてね」
「そんなあ、カンペキですよ」
「それじゃ、お誕生日おめどとう」
ぼくは超能力者だったら簡単にねじってしまいそうな銀色のスプーンで、まずビーフシチューから口にした。
「どう?」
「ふごふおいひいでふ」
一口目のいいビーフシチューはちょっぴり熱かったけど、とてもおいしかった。
それから、ぼくたちはいろんな話をした。
ぼくが青森出身で今は一人暮らしをしていること。深雪さんは離婚歴があり、家業である古本屋の仕事のほかに夜の仕事もしているということ。
「そうだ! ケーキがないならお酒飲みましょう!」
「則夫くん、今日でいくつ?」
「二十二です」
深雪さんは、嬉々として立ち上がり、キッチンの棚からウイスキーだかブランデーだか、ぼくにはまったくわからないガラスのボトルを取り出し、それから一緒にグラスをふたつ、テーブルの上に、そっと、置いた。
ぼくは、やべえ、とい思った。
むかし、父親の勤める建設会社が健全だったころ、父親にさそわれて赤ワインを飲んだことがあった。
その日、仕事からいつもより早く帰宅した父親は、妙にキゲンがよく、とっても楽しそうだった。
「則夫、おまえも男なら酒がいけるようにならなくちゃ、将来一人前の男になれない。今から特訓だ!」
そういわれて赤ワインをのまされたが、ぜんぜん父親のように陽気にはなれず、それどころか夕食に食べたカレーライスを吐いてしまった。すると、父親は、
「なんだあ、則夫、そんなこっちゃお父さんみたいな立派な大人の男になれないぞ!」
ぼくには、酒が飲めないくらいで人生が決まるとは思えなかったが、当時ぼくはひきこもっていたので、酒が飲めても、将来大成することはないだろうと、人生をあきらめていた。
そんなことを思い出していると「はい」という深雪さんの美しい声がぼくの思考を現実に戻した。
どうしよう。酒が飲めないことで嫌われたりしないだろうか?
そんな不安をいだきながらも深雪さんのつくってくれたこはく色のお酒を一口飲むと、仰天するほどおいしかった。
やっぱりプロだからだろうか、お客が、うまい、と感じるお酒のつくり方を熟知している。そのお酒は、色は違うが、子どものころ母親とよく行ったレストランでいつも飲んでいたクリームソーダのような味がした。
そうしていったい何杯のお酒を飲んだだろうか? 深雪さんが、急に、ぼくに寄りかかり、あまえるように、
「ねえ、則夫くん、だいて」
といって、ぼくのくちびるにじぶんのくちびるをからませてきた。そうして体温が沸点に達するころには二人ともはだかになっていて、ぼくは深雪さんを本物の雪を食べるように、ゆっくり、やさしく、丁寧に、時間をかけて、食べた。そうしてぼくの精神とたましいは天高く舞い上がっていった。
翌朝、目が覚めると、ぼくは一人、大きなベッドの上にいた。
あ!
ぼくは深雪さんの不在で昨晩の記憶を取り戻した。しかしその記憶は曖昧で、深雪さんのつくってくれたお酒がとびきりおいしかったことは覚えているのだが、そのあとのことがあまり思い出せない。たしか二人でさんざん愛しあった、っと思う。それ以上思い出せない。
ぼくは深雪さんを探してマンションの部屋すべてを歩き回った。「深雪さーん、深雪さーん」と彼女を呼びながら。すると、昨晩食事をしたダイニングテーブルの上に
『きのうは最高だったわ 深雪』
というメモ書きと一万円札がきれいな貝殻の下に置かれていた。
この一万円には、はたしてどんな意味がこめられているのか?
なんだか、やるせない気持ちがして、ぼくは一万円をそのままに、そうして、メモの手紙だけを黒い長財布に入れ、ショルダーバッグを肩に深雪さんの部屋を出た。カギがオートロックだということは、いなか者のぼくにも容易に想像できた。
そうしてぼくは東大合格のお祝いに母親が買ってくれた超高級腕時計で日付と時刻を確認し、大学へ向かった。そうして大学に着くと、すぐ、ゼミの坂田教授の部屋をノックした。
「はい」
「仲村です」
「どうぞ」
「失礼します」
ぼくはドアを開けて、ガソリンスタンドの待合室のような坂田教授の部屋に入り、ゆっくりとドアを閉めた。
坂田教授は少し早めの夕食を食べていた。コンビニのかつ丼。
「すみません、今日は無欠なんかしてしまって」
「いいんだよ、男にはそういう日もあるもんだ。わたしも学生のころは無欠なんかしょっちゅうだった」
ぼくは言葉に詰まりくちをつぐんでしまった。
「今日はもういいから」
アパートに帰ったぼくは、本棚の中から太宰治の『斜陽』を取り出して読み始めた。もう何回目かわからない。たぶん三十回は読んでいる。ぼくも女だったら、かず子ように生きたい。読むたびにいつもそう思う。
古い道徳とどこまでもあらそい、太陽のように生きる。
30ページほど読んで、ぼくは再び外出した。そうして複雑な気持ちを抱えて谷川書店を訪れた。しかし深雪さんにはあえなかった。次の日も。その翌日も。
ぼくは大学には行かず、アパートで本を読んですごすようになった。
小説だけでなく、実用書や自己啓発本もたくさん読んだ。
そんな生活が半年ほど続いたが、ぼくはもう「深雪さんなし」では生きていけなくなっていた。
ひきこもりだったころのダメな男にまた戻ってしまうにだろうか? そう思えて仕方なかった。そうしてその予感通りぼくは破滅していった。
毎日、深雪さんを探して町中を歩き回った。ぼくは深雪さんがつくってくれたお酒の味と一夜の情事で、深雪さんに取り憑かれてしまったんだ。まるで、耳なし芳一のように。
もう、深雪さんに会えない。
しかしやはり人生なにが起きるかわからないものだ。
深雪さんを探すこと一年。ある日の夜、ぼくの目に深雪さんが映った。しかし、深雪さんは、赤いコートを身にまとって、背の高い金髪の男と腕を組んで「K]というホストクラブに入っていった。
なあんだ、男がいたのか。
ぼくの運命の赤い糸はプツリと切れ、あんなに好きだった深雪さんに対する気持ちが、まるでぼたん雪が溶けるように消えていった。
ぼくはもう、誰でもいいから「女」がほしいと思うようになり、そうして、新宿駅の喫煙スペースへおもむき、そこにいた赤髪の若い、たぶんぼくと同じ年くらいだろう、女に近づき、一言、タバコを要求した。
「タバコ、一本くれる?」
赤髪の女は「ニッ」と笑ってからメンソールのきついタバコをプラダのバッグから取り出し、箱の中から一本引き抜き、ぼくのほうへ差し出し、すぐに火を近づけた。
「エホッ、エホッ」
「なに? 吸ったことないの」
「そんな、しょっちゅう吸ってる」
「やめなよ、似合わない」
「へえ、キミは?」
「わたしもかな」
赤髪の女は短くなったタバコを灰皿の中にぶち込むと、すぐもう一本吸い始めた。
「ねえ」
と女。
「なに?」
「わたしがこれ吸い終えるまでに決めてほしいことがあるんだけど」
「なに?」
「いっしょに死んでくれない?」
「え?」
「もう一本タバコあげるからさ」
そうして赤髪はタバコを吸い終えると、
「どう?」
と、ぼくの目をまじまじと見ながら訊いてきた。
ぼくは、
「ああ、いいよ」
そう答えた。
空にはぼたん雪が舞っていた。
そうして新宿から電車を乗り継いで鎌倉の断崖絶壁までたどり着くと、太宰がバーの女と来たころにはなかっただろうフェンスを乗り越え、それから女はブーツを、ぼくは白いスニーカーをそれぞれぬいでそろえると、抱き合ったまま海へと落ちて行った。
そこで、また、夢が覚めた。
結局ぼくは三十五歳になってもひきこもりのまま、自室からほとんど出ず、スマートフォンの殺人ゲームばかりやって、なにもない、阿鼻叫喚の、そうして、無味乾燥とした日々を、きのう見たひきこもり特集となんら変わらぬ、ああ、とため息しか出てこない、思い通りにならない人生を、ただ、茫然と送っている。
そうして、時々、死にたくなるんだ。