ふと、思い出したことがあります。

いつかの、免許更新のときのことです。



その日私は、車の免許更新に

行っていました。

特に体調が悪かったわけでも

ありませんでした。



更新のための講習を受けていました。

それで心肺蘇生や救命処置などに

ついての話がありました。



今書きながら、文字を見るだけでも

そわそわしてきますが悲しい



こういうワードや光景は

あの日のことを思い出す、

私の大きなトリガーの1つです。



最近では、状況によっては

このトリガーもかわせる日も

あります。



でもその日は、、だめでした。

講習を聞きなから、

過呼吸になってしまいました。



なんとかひどくなる前に、

部屋の外には出れました。



外に出たあと、

何人かの職員の人たちが

集まってきてくれました。



講習担当だった方に、

「どなたかが事故にあわれた

 ことなどがありますか?」

と、聞かれました。



私は、子どもが事故でなくなった

ことを伝えました。





私のそばに集まってきてくれた人たち。



だまってそばにいてくれる人がいる中。

私の背中をさすりながら

「お気持ち、わかります。」

と、声をかけられました。



過呼吸で苦しかった状況ですが、

時間がたった今でも

鮮明に覚えています。



その人のことはまったく知りません。

もしかしたら、大切な人を

事故でなくしたことが

あるのかもしれません。



それだとしても。

やはり、

気持ちがわかるという発言をすること、

もっと慎重になるべきだと

思います。



なぜ、こういう場面で、

気持ちがわかるということを

言おうと思うのか?

考えてみました。



それを言うと、

相手が共感してもらえたと思って

安心したり、落ち着いたりすると

思うから?でしょうか?



でも、本当に相手の気持ちを

わかりきることは不可能だと

私は思います。



だからこそ、誠心誠意を尽くして

そばで寄り添い、

大切にお話を聴かせていただく。




確かに、同じ経験をしたことがあれば

同じような気持ちになることも

あるでしょう。



でもそれは。

その人とじっくり話をして。

その人の話をじっくり聴いて。

その人の背景や想いを

知った上で。


はじめて感じられること。



そう考えています。



見知らぬ人から、

しかも話もなにもしていない状況で。



気持ちがわかるという言葉で

本当にその人が安心するのか?

考えてほしいなと思います。






目の前で苦しむ私に

何か声をかけないとと、

優しい気持ちで言ってくださった

言葉なのかもしれません。



でも、言葉って誰かを助けるものにも、

誰かを傷つけるものにも

なってしまいます。




こんな場面では、

何か安心できるような言葉や

気の利いた声をかけなければ。



そんなふうに感じるのも

ごくごく自然なことだと思います。



私も長男をなくした経験がなければ

何か言わなければ。

そんなふうに感じるだろうと

想像できます。



だからこそ、教習所でのあの人も

私にそんな言葉を

かけたのだろうなと思います。



でも、もしも。

何か言葉をかけないとと

感じたとしても。



何と声をかけていいか

わからない、そんなときは。



言葉はいらない。

そんなふうに思います。



言葉だけがコミュニケーションの

手段ではありません。



言葉はなくても

そこにいてくれる。

それだけで、そんな人の存在だけで。

救われたり安心したりします。



心配したり、気にかけている。

見知らぬ人であったとしても、

その想いさえあれば、

言葉はなくても。



その想いは届くと思います。



遺族への声かけ、

本当に難しいと思います。



「役に立たない援助」が減るように。

目の前で苦しむ遺族に

なんと声をかけていいかわからない、

それでも何か力になりたい

と思ってくださる方へ。



こんなことを知っていただけたらと

思います。




「役に立たない援助」については、

こちらに詳しく書いています。

良ければお読みくださいね。