「元気そうだね」と
言われたあとに残る
あのもやもや。
「元気そうだね」
「少し安心したよ」
そう言われるたびに、
私はうなずきながら
笑顔をつくっています。
でも心の中では、
言葉にできない“もやもや”が
静かに広がっていました。

長男をなくしてから、
外にいる私はできるだけ普通に
振る舞ってきました。
「思ったより元気そうで安心した」
その言葉を聞くたびに、
私は心の中で
小さく揺れていました。
元気に見えるのは、
必死で取り繕っているだけ。
泣く場所を選んで、
気丈にふるまって、
誰にも迷惑をかけないように
しているだけなのに。
泣けば心配される。
泣かなければ
「もう大丈夫なんだね」と
言われる。
どちらも苦しくて、
どこにも本音を置けませんでした。

泣き崩れないように、
重たい空気にしないように、
相手を困らせないように。だからきっと、周りには
「元気に見える私」が
映っていたのだと思います。
「思ったより元気そうでよかった」
その言葉を聞くと、
安心してくれている
相手の気持ちも伝わってきます。
心配してくれていたんだろうな、
どう声をかけたらいいか
迷っていたんだろうな。
そう思える自分もちゃんといます。
それでもなぜか心は
すっきりしませんでした。
もしかしたら周りは、
“私に元気になってほしい”
というより、
「元気でいてくれたら、
自分が安心できる」
そんな気持ちも
少しあったのかもしれません。

“元気そうなら、話しかけやすい”
“もう大丈夫そうなら
踏み込まなくていい”
そんな空気を
私は感じ取ってしまって
いたのかもしれません。
もちろんそれが
悪意だなんて思っていません。
きっと多くは、
どう寄り添えばいいか
わからない中で、
精一杯選んだ言葉
だったのだと思います。
でも、遺された側の心の中では、
元気そうに見える=元気になった
と判断されてしまうことが、
とても苦しいときがあります。
元気そうにしているのは、
必死で日常を保っているだけ。
泣く場所を選び、
気丈にふるまい、
夜になれば一人で崩れている。

「元気そうだね」と
言われるたびに、
これ以上、弱さを見せちゃ
いけないのかな。
そんなふうに自分の気持ちを
しまい込んでしまうこともありました。
正直に言うと、
今でもこの言葉をかけられると、
心の奥が少しざわつきます。
もやっとした感覚は
完全には消えていません。
それはきっと、
私がまだかなしみの中にいるから。
でも、
相手が悪いからでもなくて
喪失というものが
外から見えない形で続いているから
なのだと思います。

もしあなたも、
誰かの「元気そうだね」に
うまく返事ができなかったり、
心がざわついてしまったりするなら、
それはとても自然なことです。
あなたは、元気になりきれなくていい。
元気そうに見せなくてもいい。
悲しみのかたちは、人それぞれです。
安心してもらうために
生きているわけじゃない。
あなたは、あなたのペースで
あなたの苦しみや痛みと
一緒に生きていていいんです。