そして、一週間が経った。



 ネーブブルグ遺跡の騒動でネックベット医院には数名の者が担ぎこまれたが、それは怪我人ではなく、単に鬼の死骸を前にしてその瘴気にあてられた者達だった。幸いにして重傷者はいない。
 例外はダスターという冒険者だったが、彼は“鬼に挑んで敗れた者”として、つまり、良くある事として処理された。
 ただ……犬の死骸の側で泣き喚く少女には、少々難儀したようだ。
 駆けつけた者は死骸を放置して少女を町に連れ帰ろうとしたが、彼女は絶対にそれを許そうとはしなかった。
 結局、少女のたっての願いで、その犬はネックベット医院の側、憩いの森の片隅に埋葬されることになった。
 明らかに亜獣と判る死体に拘泥する少女に人々は奇異の眼差しを向けたが、彼女は全く意に介さない様子だった。
 そして、そんな少女の事も犬の事も、この数日で綺麗に忘れ去られていた。
 人々に取っては既に終わった事件。何も無かったかのように、再び日常が回りだしている。
 ただ一人、彼女だけがまだ事件を引き摺っていた。



 夕暮れの森の中。
 憩いの森の周遊道からほんの少し外れた場所に、その墓はあった。
 外輪部に近いこの場所からは、木々の隙間から街が見える。見上げれば、梢の向こうには近くの医院の建物が迫っていた。
 墓は、土を盛って作った塚に小さな石碑を墓標とした簡単なもの。埋葬された亜獣はその名を知る者さえ殆どなく、参る者となれば少女一人を除いて皆無だった。
 五味は事件以来、初めてここを訪れた。深い意味はない。ただ、なんとなく……だ。
 だが、驚いたことに、墓には先客がいた。
 緑を基調にした衣装に身を包んだ男が、片膝をついて墓前に何かを話しかけていた。
「どうだ、生を全うできただろうか? そうであったことを願うよ」
 僅かな姿勢の変化にあわせて、女のように長く美しい金色の髪がさらりと肩から流れ、零れ落ちる。
「はは、くだらない事を気にしてるんだな。だが、死者に許されるのはただ消えることのみ。何者であろうとそれを覆すことはできん」
 まるで本当に誰かと話しているようなそぶりだが、周囲には誰もいない。死者の概念残滓を汲んで話している風にも取れるが……流石にそれはあるまい。
「どれだけ長く生きようと、如何に充実した生を送ろうと、死には必ず思い残しがあるものだ。諦めろ」
 男が立ち上がり、小さな墓石を見下ろした。そのまま数秒、無言で塚を見つめる。
「……なんてな」
 ふ、と男は微かに自嘲の混じった息を漏らした。
「やはり俺には、芯なる者ほど超然と振舞うことはできんようだ」
 男は再び墓前に屈み込むと、石碑に右手を当てて少しの間静止し、口の中で何事か呟いた。それからまた立ち上がると、白い花を無造作に放り投げた。
「ついでにそれもくれてやる。せいぜい安らかにな」
 花は土の露出した地面に落ちると、ニ、三度転がってから石碑の手前で止まった。
 頃合を見計らって五味も墓に近付く。立ち去り際の男と、五味の目が合った。
 朱色の綺麗な瞳。
 男は僅かに意外そうな顔を見せたが、特に何も云わずに去っていった。五味の方もまた、無言で男を見送る。
 墓前に片膝をつき、五味は石碑を見つめながら黒犬の姿を思い起こした。
(……ん?)
 その時、ふと、妙なことに気がついた。
 微かだが、墓石に異質な色を見たような気がした。注意深く観察すると、石の表面にごく薄い紋様が浮かんでいる。手を翳して影にしなくては見えない程の、ほんの僅かな光。
 円を基調として複雑に入り組んだ曲線は、ゆっくりと色味を変化させながらそれと気付かぬ程の淡い光を放っている。
 ごく簡単な何かの印章。いや、これは……。
(象形? ……そんな莫迦なことはないか)
 印章の元になった概念異渉紋様――グリフ。それを記述することは、人間にはできない。
 振り返ったが、男の姿は既に無かった。



 夜。
 ――ああ、また夢だ。
 リサリサはそれを認識した。
 あれから、何度か似たような夢を見た。
「がじちゃんが死んだと思ったのは嘘で、本当は生きている」そんな、夢。
 その夢を見るたびに、嬉しくて目が覚めた。
 そして、すぐにまた現実を知って、泣いた。
 毎日のように、それを繰り返してきた。
 死に直面した時は、衝撃の方が強くて理解が追いついていなかった。日が経って、夢を見るようになってから、本当の悲しみが襲ってきた。本物の喪失感を知った。だけど……あまりに繰り返し夢を見るので、もうそれにもすっかり慣れてしまった。
 そして、今また少女の前に黒犬の姿があった。



 周囲に何もない。ただの真っ白な部屋の中。
 少女と黒犬が向かい合って立っていた。
「よお。元気か?」
 黒犬が口を開いた。
 ――うん。あれ。声が変かも。これじゃ反対だよ。
「良いじゃねーか。細かいこと気にすんなよ。夢なんだし」
 ――そうだね。
 リサリサは黒犬を見つめて佇んだ。なんだか、いつもの夢と少し違う。
「どうしたんだよ黙り込んで。気色悪いな」
 目の前の犬は、本当はもう死んでいる。今日はそれが解っていた。
 だけど……それでも構わなかった。それでもやはり、話をしたいと思った。
 ――ねえ。
 声を出そうとすると、代わりに自分の言葉が脳裏に浮かんだ。どうも調子が狂うが、ちゃんと聴こえているようなので気にしないことにする。
 ――どうしてあの時、逃げてくれなかったの?
「口を開いたと思ったらそんなことかよ。俺が逃げたら、お前が死ぬって云ったろ?」
 ――それはもう聞きました。
「じゃそれで納得しろ。雄より雌、年寄りより若い個体を残す。これは極めて基本的な生存戦略だ」
 ――なんか、納得できない。
 リサリサは口を尖らせる。
「だと思ったよ。でもま、どっちか片方死ぬとしたら……俺しかねーだろ。どうせ俺は、誰にも求められていない存在だ」
 ――そんなこと……ないよ。
「それ、慰めてんの?」
 ――それに、ちゃんと命令したのに、どうして?
 リサリサが困惑と後悔の入り混じった哀しげな眼差しを黒犬に向ける。
 あぁ、と声を上げて黒犬はばつが悪そうに一旦視線を外したが、すぐにまたリサリサを見返した。
「……云ってなかったっけ? 俺は“制約の環”を外してもらったんだ。お前の命令はとっくに無効だったんだよ」
 ――え? どうやって?
 あの遺跡の関係者はもう誰も居ない……云いかけて、リサリサはすぐそれが間違いだと気がついた。
 ――あ……! あの時の綺麗な男の人ね?
「その時だな。“綺麗な”は余計だが」
 黒犬があっさり認める。
 そうだった。憩いの森で出会った髪の長い男、彼は黒犬の前の支配者だと云っていたではないか。ということは、つまり彼は環を作り出した人達の一員だ。
 もし環を外せたとしたら、あの時をおいて他に考えられない。
 ――あれ? でもおかしくない?
 リサリサは軽く握った右手を口許にあて、思い出すような仕草を見せた。
「何がだ?」
 ――水浴びしたのって、あの次の日だったよね? その時、私の命令ちゃんと効いたような……。
「そんな事あったっけ。何か勘違いしてるんじゃねーの」
 ――そうかな……。でも、外したなら、なんですぐ教えてくれなかったのよ。
 リサリサが頬を膨らませた。
「だな。うっかり忘れてた」
 ――こんなの忘れるわけないじゃん!あ、ひょっとして……。
「……なんだよ」
 リサリサは自分の思いつきに自信を得て、意地悪く笑った。
 ――それを教えたら、もう私と会えなくなると思ったんじゃない?
「んな訳ねーだろ。普通に忘れてたんだよ」
 ――ふーん。
 リサリサは後ろで手を組んで、軽く身を乗り出すようにして黒犬をじろじろ見つめた。
「なんだよそれ。……ま、でもとりあえず元気は出てきたみたいだし、そろそろ帰るかな」
 ――え。もう?
 返事を待たずに、黒犬は少女に背を向けて歩き出していた。
 その姿が、少しづつ遠ざかる。
 リサリサは走って追いかけようとした。だけど沼地にでも踏み込んだように、足は一向に前に進まない。彼女は必死に走り方を思い出し、左右の脚を交互に動かした。
 ――待って。行かないで。
 黒犬が立ち止まり、軽く振り返る。
 リサリサは手を伸ばしたが、指先すら届かない。逆に黒犬との距離は遠ざかったようにすら感じた。いつの間にか、彼女は泣いていた。
「お前は馬鹿だけど、そこそこ良い友人だったよ」
 黒犬は少女の姿を優しく見つめて、青い目を細めた。
「……じゃあな、リサリサ」
 そして、黒犬の姿は消えた。



 リサリサは、ベッドの中で目を開けた。
 自分の部屋の天井が、滲んで見える。
 ――がじちゃん。
 口の中で、そう呟いてみた。
 ――大丈夫。
 リサリサは半身を起こし、涙を手で拭った。
 窓の外に目をやると、幽かに空の端が白んでいる。もう明け方が近かった。
 ――私は、大丈夫だよ。
 いつもの夢を見た後は、胸が潰れるような気持ちになった。
 今日のは違う。
 これまでに見た夢とは、全然違っていた。
 少し時間が掛かったけれど、ようやく私は、彼の死と向き合うことができる。
 ようやく私は、彼の最期の思いを受け止めることができる。そんな気がした。
 薄く射し込む朝の光の中で、リサリサは軽く目を閉じた。
 あの時、言葉にする前に消えてしまった彼の最期の意思。それを、もう一度心に思い描く。
 ――きっと、こんな感じで良いんだよね?
 リサリサはそれを自分なりに理解して、心の中の黒犬に語りかけた。
 勿論返事は無い。だけど、彼が生きていたとしても、きっと照れて誤魔化しただろう。
 あの時感じた彼の思い、それは間違いなく、暖かいものだったから。

 1500ポイントの経験値を得た。

五味はレベル66にレベルアップした!
クォッチはレベル66にレベルアップした!
クレティウスはレベル66にレベルアップした!
GEOはレベル66にレベルアップした!

──End of Scene──
少女と黒犬、完。
称号<絆を知る者>獲得。