YouTubeを漁っていたら、何とも興味深い動画を見つけた。これ
さすがは私が日ごろ使っている端末、私の趣味が分かっているようだ。
それではさっそく、と、ノスタルジックで不気味な今から56年前の動画を見てみた。
あの昭和の映像内でしか聞いたことがないお姉さんのナレーション、
セピア色でチラチラした、鮮明とはとても言えない映像が私の心を掴んでくる。
団地には足し算引き算を覚える前くらいまで住んでいたので、
増々その動画にのめり込んで行ってしまう。
あの時の私はうんと小さかったから、団地が狭いとか、小さいとかは感じたことがなかったが、動画では大人4人がミチミチになって座っていたので、きっとあの団地の一室も狭かったのではないかと予想する。
間取りはほぼ同じだったと思う。
父の部屋が寒そうな北側にあり、
(どうでもいい話だが、団地から一軒家に引っ越しても父の部屋は北側の寒いところにある。父は日の当たらない北に追いやられがちである。)
キッチンがあり(子供はキッチン立ち入り禁止だったため詳細は全く思い出せない)
居間があり、
東に私の子供部屋があり(どうでもいい話だが、団地から一軒家に引っ越しても私の部屋は南側の日がよく当たるところにある。私は室内にいながらも日の光をよく浴びて育ってきた。)
西に幼き私が何となく恐れていた仏壇がある和室があったはずだ。
(一生懸命あの団地をネットで探してみたが、地元に団地が思いの外多く、これだと確信が持てるものが分からなかったため信憑性は78%である。わざわざこのブログのネタのために親に連絡して聞き出すのは煩わしい。)
向かいにも別の棟があったはずで、近隣に古めかしい銭湯があり、たまに三度の飯より風呂が好きな母と入浴しに行っていた記憶がある。(確かその銭湯は建て替えられたはず)
そして他にはダイイチというスーパー(もしかしたら名前違うかも)と非常に衛生環境が悪いペットショップがあったはずである。(呼吸を浅くして時々動物を見に行っていた記憶がある。とにかくインコの羽が酸素と同じ量舞っていた。)
母は団地生活を「規則や係りが多くてめんどくさかった。掃除当番なんてやってられない。」と話していたような気がする。もちろん私は覚えているはずがない。しかし全く他所を遮断していたわけではなく、仲のいい家族が2世帯いた。そのうちの1世帯とは今でも年賀状を送りあっている。彼女はどうやら今時のイケイケ女子になったのだな、と載せられている写真を見て推測した。会ってみたいとは思うが、一体何を話せばいいのだろうか。
他には何かあっただろうか。
私は一家の一人目なのでフィルムカメラで撮った私の写真や通っていた幼稚園で購入した写真が実家でたくさん眠っている。
昔はよくそれを父の寒い部屋で見ていた。しかしそれも昔だったのであまり覚えていない。
(時々父と母がアベックだった時代の写真が発掘され何とも言えない気持ちにもなった。なぜかその写真は記憶から消えてくれない。)
ただ、写真に写るときの決め顔が分かっておらず、70%くらいの写真が白目になっていたのは覚えている。
私が思い出せる記憶の中で最も古いものは、
銀行の椅子から頭から落下したことである。
母がカウンターで大金を入金している時、
暇を持て余していた幼き私は椅子の背もたれに腰を掛けていた。
後ろの壁に何となくもたれかかろうとしたところ、案外壁との距離が遠くそのまま盛大に落下。銀行に鈍い音が響き渡ったそうだ。知らないおば様が駆け寄ってきたところで記憶は終わっている。(気絶はしてない)何となく痛みまで覚えているので相当盛大に落下したのだろう。
もし椅子から落ちていなければ、私はもう少しお勉強ができる子になっていたのではないだろうか。
私はよく頭をぶつける子だったそうだ。
銀行椅子事件の他にも、もう一つ頭部を負傷した話があるがそれは笑い話にしにくいのでここでは書かないことにしておく。
団地にいた頃で「そういえば」と思い出せるものと言えば他には
糸を指にきつく巻いたのが取れず、うっ血してどす紫になってく自分の指に恐怖を抱いたこと、
たいていの子供は喜んで飲むであろう甘い甘い風邪薬シロップを牛乳に混ぜても飲めず、駄々をこね続けて母に叱られたこと、
結膜炎にかかったため、定期的に目薬を差さなければいけない羽目になったがそれが怖く居間の隅に目薬を持った母から逃げていたこと、
一人で留守番に挑戦したが、和室にある遺影が怖くて速攻居間のソファーで寝てやり過ごしたこと、
愛用していたピンク色の三輪車、
そして手伝いたい盛りの私は引っ越しの時、自分の体ほどある(実際は一般的なサイズ)コルクボードを部屋から運び出したことだ。
背景が団地だった記憶はこの程度しか残っていない。
楽しかったはずであろう旅行のことでも思い出せず、両親から聞いて初めて3歳の時に沖縄に行ったことを知った。
他にもあちこち行っているが、覚えていることと言えば車酔いが非常に多く、車内で戻さないようわき道に車を止めて、よく親を困らせていたことである。当時は高速道路がなく、峠のうねり道を走るしかなかったのでそれも関係していたであろう。
楽しかった記憶はないのかと聞かれると、あまり思い出せない。
人の頭は”楽しい”よりも”驚き”のほうが記憶に残りやすいのではないだろうか。少なくとも私は”楽しい”は記憶に残りにくいものだと思う。今では簡単にSNSなどに残せてしまうのでその事実は埋もれがちだと思っている。
その証拠に人生で1度きりの成人式も、
あんなにはしゃいだ学祭も、
激しい片思いや、初めての修学旅行だって
徐々にセピア色になってしまっている。