その人は北国の、山奥の小さな家に住んでいる。
最後に春が来たのはいつかわからない。
曇天が続き、ずっと寒く、雪も中々解けない。
そんなところで雪解けと家主の帰りをずっと待っている。
その人は数年前からその小さな家にいる。
家主をただ待つ生活は寂しくないのか、と問えば「寂しくない」と言う。
その家にはその人に必要なものが何でもそろっているそうだ。
時々他の国に住む友人からの手紙を読んだり、
双眼鏡を取り出して
庭で遊ぶ小鳥たちを眺めるのが何よりの楽しみだと語っていた。
最近は友人が住む国で春が来たという知らせを受け取ったという。
家主はよく旅に出るという。
以前は旅先からたくさんのポストカードを送ってくれていたが、
ここ数年は頻度が下がってしまったそうだ。
忙しいのだろう。そうその人は考えるようにしている。
その家には爆弾が仕掛けてあるそうだ。
でも、家主はそれを知らない。
「このボタンを押せば、何もかもがなくなる。もちろん自分も。
いつか必ずこれを押す日が来るはずなんだ。」と話していた。
その家の周りも、昔は綺麗な花がたくさん咲いていたそうだ。
窓から家主とそれらを眺めて
おしゃべりをする時間が楽しかったという。
しかし、季節は移ろうもの。今ではその風景の面影は残っていない。
その人は寒さの中で、薪もくべずに過ごしているという。
「一人で過ごしているのに、部屋を暖めても仕方がない。
家主が返ってきたときだけ火をいれればいい。」と言っていた。
とにかく布を重ねていれば、寒さは十分凌げるそうだ。
その家の壁から小さな、朽ちかけの花が咲いている。
その人はそれを育てていると言っていた。
もう一度その花が復活したら、家主に見せたいそうだ。
「朽ちる前は、ほのかに赤い、かわいらしい花だったんだ。」と語る。
少し前に、家主が旅先から花を手にして帰ってきたそうだ。
部屋に飾りたいと家主は言ったそうだが、その人は断ったそうだ。
残念そうな顔をして、
家主はその花をどこかにやってしまったという。
何度も何度も家主は飾らないか、と聞いてきたが
何度も何度もその人は飾らないと言ったそうで、
それを今更になって後悔して、
壁から生えた小さな嘘くさい花を枯らさないように育てている。
家主は花が好きだったそうで、
花さえ家にあればもう旅には行かないんじゃないか、
とその人は考えている。
その人は時々、この家から出ていければどんなに幸せかと、
星も月も見えない夜空を見上げて考える。
寒さになれるためにずっと我慢してきたその体はすっかり悴み、
凍えた体は春の温かさ、
澱んだ目には夏の眩しさを求めているようにも見える。
あのボタンを押してさえしまえば
長い待ちぼうけをする必要もなくなり、
完全なる自由が来る。
何もかもがなくなる、栄光のその日を想像して眠りに落ちていく。
その人に、それでは旅に出ればいいのでは、と問うと
「自由になるためには、まずは破壊することが必要なんだ。
全てがなくなることによって、また新しい人生が始まる。
旅に出てもいいが、この家が残っていてはだめなのだ。
ただ今はだめなんだ。家主に別れを告げるまではだめなのだ。」
そうその人は言っていた。
今までで、一番力強く、その考えに信念を抱いているようであった。