神戸女学院大学教授の内田樹先生と、精神科医の名越康文先生の対談を聴きに出かける。タイトルは「非活性化する若者たちとオタク文化」。特に印象的だったのは、両先生が「若者像」をある意味で「進化した存在」としてとらえておられたことでした。若者たちの使う言葉の種類はとても少なく(時には、カワイイ、のみ)、人の話もほわーっと聞いているように見えるけれど、その表情には実は淡い色あいの微妙なグラデーションがあって、話し手の意図を確実に「受信」しているのがわかると。 自分たちが若かった時代、確かにたくさんの言葉を機関銃のように使っていたものの、コミュニケーションは実は雑で、不必要に極論に走り、誰もが「発信」ばかりしていたと。

自分の時代に根っこをはやして、次に来る世代を「イマドキの若者」として批判するという、一般的な流れに乗っておられないところが、この対談のスカッとしたところでした。どこか自分の場所にとどまって、そこから意見を発信してくる人ではなく、自分もまた走り続けながら景色を中継してくれる走者のような人、そんな人の話を聴くために人は集まるのだと思います。「自分」をフレームの外に置くな、「自分もまた変化していく」というのは難しくて、でも楽しいことなんだ・・・言葉の発信基地のように見えるおふたりの先生から、このメッセージを強く感じたのでした。
「英語がうまくなりたい」という話は、「それをつかって何がいいたいのか」という話題になかなかつながっていかない。コミュニケーションツールのはずが、「もし英語発音大会というものがあれば、それに出て人に勝ちたい」というようなニュアンスさえ感じる.。なぜ、ただひたすらテクニック向上(とくに、発音がちゃんとしてる)の道を走りがちになるのだろう。 私はそこに「不安がない」からではないかと思う。「英語がうまく話せる」ことで困ることは何もないし、人を怒らせることもない。でも「何がいいたいのか」という方面は、探っていっても正しいのか間違っているのかわからないし、人にも受け入れられないかもしれない。不安でいっぱい。

バレエでも、ちょうど同じ事情にぶつかる。ほんらい「自分がどんな人間なのかを踊りで表現したい。」というのが、めざすところだろうと思うのだけれど、もちろんそのためには技術が必要で、でも技術追求の道をつっぱしっているうちに自分の「全幕が終わって」しまったりしかねない。

あるていど、ある技術が使えるようになったら、不完全なままそれを使って「こんなことがいいたかった!」と思えるようなことを表現してみるこころみは、大切なのではないでしょうか。(不安がつのった時は、いつもかたちの練習に戻りましょう。)

神戸女学院大学教授、内田樹先生の5月2日付けブログ「リンガ・フランカのすすめ」を読んで、思わず「そうなんですよね!」とつぶやいた。どこがこころに響いたのかというと、(詳しくは内田先生のブログをお読みください。) 英語が国際共通語になったといってよい現在、非英語圏の人々は何かを発言するときに、その中身以前に「発音や文法が正しいか」というチェックの壁の前に立たされることになる。 このアンフェアな壁をとりはずすために、「流ちょうな英語」とは別の、「非英語圏のひとたちが意思を通わせるための英語」 という言語「リンガ・フランカ(国際共通語」を持とうではないかというアイデアそのものが。

私は、特に「流ちょうな英語(またはその他の言語)」を話すことをめざすのは、「身体能力を磨く」(走るとか泳ぐとか踊るとか)ことにとても近いと思っている。 まず音の質感を聞き分けて、(ロックンロールのように体感するほうがよい)、それをまた身体を細かく使って再現する(のどの奥とか、くちのタテヨコのひらき方とか)。 これが上手くなってくると、かなりカッコよく話せるし、練習も楽しい。 でも、「話している内容がどうか」ということとは、到達点の違う道筋、だと思う。 生徒に「英語がうまくなりたい。」といわれるたびに、「それはすばらしいことだけれど、うまくなってもあなたが日本語で話している以上のことが話せるわけではないのよ。」と答えてきた。 続く。