精神科の作業療法士を始めて6年ほどたちますが、心というのは、扱っていくのに本当にあやふやなものだと思います。
身体に麻痺があったり、身体に痛みがあったりしたら、それはそれ自体を問題としてセラピストと患者さんで共有して扱っていく事は比較的簡単な事です。
しかし、心の問題というのは、気持ちがうつっぽい、不安があるなどという問題をセラピストと患者さんで共有して扱っていくというのは、身体の問題と比べて難しいように思います。
身体は血が出ていれば見れば分かります。
しかし心は傷ついて血が流れていても、見た目では解りづらいものなのです。
うつや不安、焦りや、興奮といった心のあらゆる問題に効くとして精神科作業療法は行われてきました。
しかし、その効き方は身体に対するセラピーのように分かりやすいものではありません。
効果がわかりやすいか、わかりにくいかという事は、患者さんにとっても大事な事ですが、
実はセラピストにとってもすごく大事な事です。
セラピストという仕事をする以上、
「人の役に立ちたい。」
「人に助かった。役に立ったと言われて喜んでもらいたい。」
そのような思いは誰でも持っているものです。
効果が分かりやすいセラピーというのは、患者さんが
「やってもらって良かった」とはっきり言えるだけでなく、
セラピスト自身も
「自分のやった事がこれで良かったのだ。」と自分自身を認められる良い判断材料になるという事なのです。
そんな意味では精神科のセラピストは、他領域のセラピストと比べて、
「自分はセラピストとして役に立っていないんじゃないか?」という思いを持っている人は多いのかもしれません。
精神科で働いていると、うつ病で一日中寝込んでいる患者さんのベッドサイドに行って、毎日ちょっとだけ声をかける という関わりをする事があります。
このような患者さんの場合、うつで気が滅入って寝込んでいますので、起きてきて何かをするという事は難しいわけです。
毎日ちょっとずつ声をかけていき、少しずつ信頼関係を作りながら、どこかにベッドから起き出すきっかけはないものか?と探しながら、毎日少しずつ少しずつ声かけていく。そういう関わりをしていく事があります。
さて、この場合。
毎日少しずつ声かけをしていくという行為は「セラピー」という範疇に入るのか?入らないのか?
そういう事を考えて悩んでしまう事があるわけです。
ただ声をかけているだけなのだから、そんなものはセラピーではない。セラピーというのはもっと枠組みがしっかりしていて、効果もはっきりしているものをいうのだ。
という考え方もあります。
しかし、その考え方というのは、
逆に、「うつ病で寝込んでいる人に対して、セラピストは何も出来ない。」という事を証明してしまう事になってしまいます。
それでは、何も(セラピーと言えるような事は)出来ないのであれば何もしない。
といってそういう患者さんには全く関わりを持たないという事にもなってしまうかもしれません。
うつ病の患者さんに、毎日ちょっとだけ声をかけるというこの関わりは、言ってみれば、何とかその方の心にアプローチしているという事なのかもしれません。
しかし、この例のように心を扱うという作業は、あやふやなものなのです。
心を扱えているのかどうかもあやふやだし、
その事に効果があるのかどうかもあやふや、
その事をセラピーと言って良いのかどうかもあやふや。
そんなあやふやなものだなと思うのです。
そんな時、身体を扱うというのは、非常にはっきりした関わりが出来たりするものです。
「ここが痛い」というので、「どれどれ」といって触ってみたりしながらコミュニケーションを取ったりする事は、セラピスト側にとってもある種の安心感の持てる関わりが出来ます。
精神科の患者さんは、ちょくちょく色んな所に痛みを訴えたり、下痢と便秘を繰り返していたり、夜眠れなかったり、熱が出たり、身体的な症状が出る方が多くいます。
そのような身体的な症状は、病気の影響、薬の影響はもちろんあるのですが、
「心を扱う」という際に、その身体的症状が一つの良いコミュニケーションの道具になっているなとも思うのです。
例えば、精神科の看護師さんが、患者さんと「気分の落ち込み」について毎日話をするという事は、あまりありませんが、「便秘なのか下痢なのか?便はちゃんと出ているのか?」という身体の事について毎日患者さんと看護師さんが話しをするという事はよくあることなのです。
そういう意味でも身体というのは、一つのコミュニケーションの媒介になるんだなと思うのです。
最近自分の職場では「身体から入る精神科医療」というのを、一つのテーマにしています。
身体から入る事で、セラピストも患者さんもお互いが安心できる治療関係を作っていきたいなと思う今日この頃です。