うちには、天使がいます。 49.幽閉 | うちには、天使がいます。

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ピアノ弾き語り落ちこぼれシンガー・うたうやまねこと、そのパートナーゆかさん、そして寄り目のみけねこメイさんの、命の記録です。


再開から2回めの更新です。
もう2年以上の歳月がたってしまっているので、
この文章は基本的に当時の日記とメールのやりとり(と、そこから呼び出される記憶)
から構成しているのですが、
ゆかさんからのメールを読み返すと、その中にはまだ生き生きとしたゆかさんがいて、
つらくなることもなくはないです。
それでも、記憶を記録に変える作業、
ゆかさんのためにも、卵巣がんやトルソー症候群で苦しむかたたちのためにも、
もう少し続けていきたいと思います。


・登場人物
<ゆかさん>
やまねこの奥さん。2020年9月、卵巣がんにより永眠。
2018年4月初めに腫瘍が見つかり、月末にはトルソー症候群による脳梗塞を発症。
手足や会話に障害が出ながら、摘出手術を経て、2018年7月現在抗がん剤治療継続中。
副作用が徐々に現れつつも、介護保険による脳梗塞のリハビリも動き始めました。
諸事情により、ふだんは実家で母と暮らしているのですが、
7月25日、母が突然の心不全で入院してしまい、一時的にひとり暮らしに。
<やまねこ>
ゆかさんの夫。
落ち着きがなく要領が悪く、いまいち頼りないだんなさまですが、
たまにライブハウスでピアノを弾いて歌をうたっていたりします。
<メイさん>
17年前にへその緒つきで捨てられていたところをやまねこと出会い、
それからずっといっしょに暮している、寄り目のみけねこ。
かなり臆病な性格で、ゆかさんがさわろうとすると「しゃー」と言います。

(なお、病院関係者のかたがたほかの名前は、すべて仮名です)


いきなりひとり暮らしになってしまったゆかさんですが、幸いすぐに週末が訪れました。

週末はやまねこのうちでいっしょに過ごすことができるので安心です。
2018年7月27日、金曜日、
仕事が終わってゆかさんを迎えに行きました。
「暑いし、冷蔵庫の食材腐らせないようにできるだけ持っていこう」
ゆかさんは脳梗塞の後遺症がまだ強く、包丁を握ったりはできないため、
食事の準備は基本的に母が行っていたのです。
最低でも来週一週間はゆかさんは実家で一人暮らししないとなりません。
みちみち母の病院に寄り、追加の入院用の荷物を渡して、
ふたりでやまねこのうちに帰ってきました。


そして土曜日は台風が来ていたこともあり、
いちにちふたりでのんびり過ごして、

日曜日にはまた実家に送っていくことになるのですが、
ゆかさんは携帯ショップに寄りたいと言いました。
「なんかすごく調子悪いの」
というわけで、早めに15時くらいに出発することにしました。

けっきょく機種変更することになり、
機種選びやらプラン変更やら終わったのが、18時近く。
そのあと設定に30分くらいかかるとのことで、少し買物したりして時間をつぶしたのですが、
戻ってきて説明を受ける段になって、どうも担当の店員さんが経験が浅いようで、
こちらがなにか質問すると「少々お待ちください」と奥に下がって、
誰かに訊いて戻ってくるような有様で、
とにかく要領を得ず、無駄に時間がかかります。

ここらへんからゆかさんは少々気持ちが焦り始めたようで、
何度も「時間かかっちゃってごめんなさい」と謝るようになりました。
やまねこは「大丈夫だよ」と答えていましたが、
若干いらいらが顔に出てしまっていたのかもしれません。


そしてようやく手続き全部終わって、晩ごはんを買って、
実家のマンションの下で車を降りたところで、
やまねこはつい「すっかり遅くなっちゃったね」と口走ってしまいました。
その瞬間、ゆかさんの中でなにかが爆発してしまったようでした。
「ごめんなさい!」と叫んで、道端で泣きだしてしまったのです。
やまねこには全く悪気はなかったのですが、不用意な言葉だったとは思います。
「ごめんね」とやまねこも謝りますが、
ゆかさんは「ごめんなさい!ごめんなさい!」と叫んで、涙が止まりません。
「わたしのせいで迷惑ばっかりかけて、わたしがいるせいで」
「そんなことないって!店員が要領悪かっただけでさ、ゆかさんぜんぜん悪くないし、
別に遅くなったって大丈夫だし」
なんとかゆかさんを抱えるようにして部屋まで上がり、
いっしょに晩ごはんを食べているうちに少し落ち着いてくれたようでした。
「ごめんなさい。なんだか『わー』ってなっちゃって」

今までもこういう、突然の感情の爆発は何度かありました。
脳梗塞以来、どことなく「感情のキャパシティが小さくなってしまった」ようなかんじは、
たしかにあるのです。
とにかくやまねこに、もっと配慮が必要だったのです。
「(慎重に言葉を選んで)これから準備すると遅くなっちゃうかもしれないけど、
あした検査、気をつけて行ってきてね」
実家をあとにしました。


7月30日、月曜日。
ゆかさんは検査で通院の日です。
朝、「気をつけて行ってらっしゃい」とメールを送りました。
ゆかさんもいつもは同じタイミングで「行ってきます」メールをくれるのですが、
音沙汰がありません。
きのうどことなく気まずくなってしまったから、引きずっているのでなければいいけど。
まぁ、慌ただしいだけなのかもしれないし。

いつもは検査を待っている間や、検査が終わったタイミングでもメールが来るのですが、
やまねこが仕事を終える時間になっても、一度も連絡が来ないので、
だんだん不安になってきました。
連絡がないということは、検査の結果が良くなかったのか?
ひょっとして、緊急入院になってしまったとか?
だとしたらしたで、ゆかさんが連絡できなくても、病院から連絡ありそうなものだけれど。
こちらからメールしてみても返信がありません。
不安が少しずつ大きくなってきます。
とりあえず落ちつこう。いったん帰って。

連絡が来ないままうちに着いてしまいました。
もう不安で不安でしかたありません。
とにかく声を聞いて安心したいと思い、20時ころ電話をかけてみました。

留守電になっていました。
落ちついて、落ちついて。
お風呂に入ってから、もういちど電話します。やはり留守電です。
もう不安が限界に達してしまいました。なにかあったに違いない。様子を見に行こう。
車に飛び乗って、実家に向かいます。


ゆかさんの実家は、しんとしていました。
マンションの通路に面しているのはゆかさんの部屋で、そこは照明が消えていましたが、
奥のほうには照明がついている気配はありますが、
もともと母もゆかさんも照明を点けっぱなしにする傾向があるので、
必ずしも誰かいるとは限りません。
インターフォンを押してみました。
反応がありません。

いよいよおかしい。
最悪なことが頭をよぎりました。
きのう気まずいことがあって、今日の検査結果も良くなくて、
精神的にまいってしまったのかもしれない。

きっとそうだ。

そもそも無事に帰ってきて、ここにいるのかどうか。

最悪の最悪、極端な選択を、それは考えたくありませんが、
絶対にないとも言いきれません。

ゆかさんの部屋の窓には格子がはいっていますが、
格子越しに窓を動かしてみると、鍵はかかっておらず、すーっと開きました。
真っ暗な部屋に向かって「ゆかさん?」と呼んでみます。
もちろん近所に聞こえるような大きな声では呼べません。返事はありません。

もういちどインターフォンを鳴らし、
返事がなかったらどうしたものか、
病院に電話して、ちゃんと帰ったかどうか訊いてみようか、と考えていると、

かちり

鍵が開く音がして、ドアが開きました。
ゆかさんがぐったりした表情で立っていました。

「どうしたの!?連絡ないから心配なっちゃって」
「ごめんなさい。ソファで寝ちゃってたの」
とにかく安心して、涙が出そうになりました。
ふたりでリビングに入って、ソファに座りました。

「とにかく無事でよかったー!なんか悪いことたくさん考えちゃって」
「ごめんね。ゆうべほとんど眠れなくて。
それで今日病院行って、帰りにおかあさんの病院にも寄ってきて、
帰ってきたらくたびれてくたびれて寝落ちしちゃったの」
「どうして眠れなかったの?なにかあったの?」
「それがね」ゆかさんは話し始めました。
「ゆうべどうも寝苦しくてなかなか寝つけなくって、冷房つけて寝るのも良くないから、
おかあさんの部屋の窓を開けにいったの。
で、帰りにね、おかあさんの洋服掛けにぶつかって倒しちゃって」
指さした先に、まだ倒れたままの洋服掛けが転がっていました。
まん中にポールがあって、上のハンガー部は回転式になっているタイプです。
「下敷きになって、動けなくなっちゃったの」

「え?」
「おかあさん、すごい数の服掛けててあったから、
重くて重くて、どけることも抜けだすこともできなくて、
おトイレ行きたくなってくるし、このままずっといることもできないし、
どうしよう、って」

よく見ると、洋服掛けのポールは少し曲がっています。
服をたくさん掛けすぎて、重みで曲がってしまったに違いありません。
もともとバランスが良くなくて、ちょっとしたはずみで倒れてしまったのでしょう。

「でも、出られたの?」
「うん。あたし、頭いいね」
ゆかさんは少し得意そうに目を輝かせました。
「一枚ずつ、洋服はずしていったの。
そうすれば軽くなるぞ!って。
それで最後に出られたの♪」
「すごいねゆかさん、よくやった!天才!」
脳に障害をかかえてしまってはいいても、
この時のゆかさんはとても誇らしく、いとおしく感じられました。

「でもけっきょく寝られたの4時ころになっちゃって、
朝もぎりぎりに起きて病院行って。
ごめんね連絡できなくて。とにかくしんどくてしんどくて」
「うぅん気にしないで。
いろいろネガティブに考えちゃったりはしたけど、
なにかあったんでなくて(あったといえばあったんだけど)ほんとによかった。
晩ごはんは食べた?」
「まだだけど、今日はとにかく休みたいかな」
「ごめんね休んでたのに起こしちゃって。
じぶんもあんまり遅くならないように帰るね。あさってまた来るよ」

ひとり暮らしは波乱の船出になってしまいましたが、
きっときっと、乗り切ってくれるでしょう。
ゆかさんであれば。