うちには、天使がいます。 50.止まらないしゃっくり | うちには、天使がいます。

うちには、天使がいます。

ピアノ弾き語り落ちこぼれシンガー・うたうやまねこと、そのパートナーゆかさん、そして寄り目のみけねこメイさんの、命の記録です。



・登場人物
<ゆかさん>
やまねこの奥さん。2020年9月、卵巣がんにより永眠。
2018年4月初めに腫瘍が見つかり、月末にはトルソー症候群による脳梗塞を発症。
手足や会話に障害が出ながら、摘出手術を経て、2018年7月現在抗がん剤治療継続中。
副作用が徐々に現れつつも、介護保険による脳梗塞のリハビリも動き始めました。
諸事情により、ふだんは実家で母と暮らしているのですが、
7月25日、母が突然の心不全で入院してしまい、一時的にひとり暮らしに。
<やまねこ>
ゆかさんの夫。
落ち着きがなく要領が悪く、いまいち頼りないだんなさまですが、
たまにライブハウスでピアノを弾いて歌をうたっていたりします。
<メイさん>
17年前にへその緒つきで捨てられていたところをやまねこと出会い、
それからずっといっしょに暮している、寄り目のみけねこ。
かなり臆病な性格で、ゆかさんがさわろうとすると「しゃー」と言います。

(なお、病院関係者のかたがたほかの名前は、すべて仮名です)


2018年7月30日、月曜日、
倒れてきた洋服掛けの下敷きになって動けなくなり、
あわやのところで機転をきかせて脱出!
という、波乱のスタートになってしまったゆかさんのひとり暮らしですが、
その後の一週間も浮き沈みの激しいものになりました。

いちにちひとりで実家にいる、と言っても、ひまを持て余すわけではなく、
連日のようにだれかが訪問してくるのです。
訪問看護師さん、リハビリの作業療法士さん、お掃除のヘルパーさん。
生協からの荷物も届きます。
かたわら、8月1日の水曜日には、母の病院に行っていっしょに栄養相談を受けたり。
(母ひとりだと先生の話をちゃんと聞かないため、とのこと)
ちょうどその日仕事帰りに買物を届けて、いっしょに晩ごはんを食べたのですが、
福祉用具の業者さんから、歩行車が届いていました。
4輪のキャスターバッグのようなもので、どこかで見かけたことあるかたも多いと思います。
「なかなかのすぐれものよ」とゆかさんは言いました。
「けっこう荷物入れられるし、疲れたら上に座って休むこともできるの」
と、ごきげんでした。

かと思えば、翌木曜日には母の親戚から突然電話がかかってきて、
「おかあさんが体調崩したのはあなたが心配かけたせいよ」と言われて、
電話口で「ごめんなさいごめんなさい」と大泣きしてしまったとのことでした。
本人は悪気ないつもりでも、
背負っている人にさらになにかを背負わせるような、心ないことを言う人はいるものです。


8月3日金曜日の夜にはいっしょに母のお見舞いに行き、
そのままやまねこのうちでいっしょに週末を過ごしました。
が、日曜日にやまねこのLIVEが入っていて、
土曜日にはメイさんも病院につれていかなければならなかったので、

今回はそれほどゆっくりできません。
メイさんの血液検査の結果は、
「前回高かった白血球は下がりましたね。正常値です。
ただ、甲状腺機能亢進症の疑いがありますね。
年齢が高くなると珍しいことではないんですが」というものでした。
腎臓、肝臓に続いて甲状腺。もう、あっちこっちがたが来てるかんじです。
もう17歳だからしかたないのかもしれないけれど、
できればいつまでも元気でいてほしいな。
帰ってから調べてみると「よく食べるが、基礎代謝が高くなるためやせてくる」
なるほどそういうことか。メイさんちゃんと食べてるけど、
いちばん多いときは4kgあったのに、今は2.7kgしかないもんな。
ゆかさん、母、メイさん、なんだかみんな調子悪いな。
やまねこだけどうしてこんなに頑丈なんだろう、などと、
なんとなく申し訳なく思ったりもしました。


ゆかさん、4回目の抗がん剤の入院は、8月7日の火曜日からです。
月曜の夜には入院用の荷物を預かりに行きます。
ゆかさんはなんと「待ち合わせしていっしょに晩ごはん買おうよ」と言って、
歩行器を使ってひとりで近所のスーパーまで迎えに来てくれました。
こんなかんじで、リハビリがどんどん前進していってくれるといいね、と話しながら、
いっしょに食事するのはしあわせな時間です。


そして火曜日、ゆかさんは無事に検査を通って、入院することができました。
今回は希望通り、仲よくなったスタッフさんたちの多い5階です。
仕事が終わって、荷物を届けに行くと、
「CTの撮影もあったんだけど、先生に『結果良好みたいで、よかったですね』
って言われたよ」と言い、
前回の入院で仲良くなった患者仲間の八神さんとも、また同室になれてうれしそうでした。
「でもね、点滴のルートがなかなか取れないの」
針が血管に刺さりづらくなってきたとのことなのです。
「何度も刺したから腕の血管硬くなって、針刺そうとしても逃げちゃうみたいなの。
だから今回は点滴、左手の甲からになっちゃった。けっこう痛いよ。
検索したらね、血管を柔らかくするにはくるみがいいんだって。
売店行けたから、くるみのお菓子買ってきたんだ」
「そっか。まだまだ先は長いからたいへんだね。
うちにもくるみ買っておくね。
せっかくだから少しリハビリする?」
「うん」
階段を一歩一歩、4階まで。下って、また上って。
「だいぶ歩くの早くなったね」
顔を見合わせて笑いました。


水曜日は抗がん剤本番の日ですが、
台風が近づいていたので、お見舞いはお休みにして、
そして8月9日木曜日、いつものように仕事が終わってから病院へ。
水の点滴の日ですが、すでに終わっていたので、
「今日もリハビリ行こうか」と言ったところで、
突然ゆかさんが、

「ひゃく」

しゃっくりでした。
飛び上がりそうな勢いで、また、

「ひゃく」

「大丈夫?お水飲もう」
飲んでみましたが、止まりません。
「どうしよう?リハビリ、しゃっくり止まるの待ってからにする?」
「大丈夫よ。行こう」
「でも、かなりからだ揺れるよ。階段危ないかも」
「大丈夫大丈夫」
「ほんとに?」
いつもに増してしっかり手をにぎって、歩きはじめました。
道々も「ひゃく ひゃく」は止まらず、
ゆかさんはだんだん可笑しくなってきたようで「あははは」と笑いだしました。
「笑ってる場合?慎重に慎重にね」
と言いながらやまねこも笑いをこらえきれません。
何度かがくっがくっとなりながらですが、なんとか4階まで降りました。

「どうする?上りはエレベーター使う?」
「大丈夫よ。歩くっ」
「じゃ、ひと休みしてから」
休んでも、しゃっくりはいっこうに治まる気配がありません。
階段の上りは下りほど危なくはありませんが、
「ひゃく あははは ひゃく」と言いながら、病室まで戻ってきました。

病室の入口に近いベッドのカーテンから八神さんが顔を出して「大丈夫?」と聞きました。
「大丈…ひゃく!あははは」
今日のゆかさんはとことん無邪気です。
八神さんも笑いながら「息を止めてね、コップの水を前後左右からひと口ずつ飲むの」
とアドバイスをくれました。

ベッドに戻って「やってみる?」と訊くと、ゆかさんは、
「だめだよ。ぜったいこぼしちゃうよ」と言います。
放っておいてもいずれは止まるのでしょうが、
いつまでもしゃっくりしていても体力を消耗してしまうし、やっぱり心配なので、
「いい?水をできるだけたくさん口に含んでね、一気にごくっ!って飲むの。
せーので」

ごくっ

「もう一度、せーの」

ごくっ

しばしの沈黙。
「止まった?」
「うん。止まったみたい」
「よかった。どうなることかと思った」

その時はたまたまだと思っていましたが、
白金系の抗がん剤の副作用でしゃっくりが出ることはあるのだそうです。
ただ、ゆかさんの場合はこの一回きりでした。

 

4回めの抗がん剤も、残り一日です。