―精神年齢は年取るなー


人間の生命は有限だ。人生を客観的に見ると六〇歳くらいで身体の機能は衰えてくる。だからと言って肉体年齢で精神年齢まで衰える必要はない。


「人生60歳で8掛」30×0.8=48歳、「人生70歳で七掛」70×0.749歳というように考え、自分の寿命を肉体的にも、精神的にも絶対積極的に生かしていこう。気力は考え方次第でどうにでもなる。



老化による精神年齢の低下現象を観察すると次のようなことが見られる。



何かにつけ自分以外のせいにしている。
理想の異性は、自分を包み込む包容力や癒しを持つ人を期待する。
見返りもないのに、他人に施しをするのはイヤだ。
自分のペースで話すか、逆に聞き役に徹していることが多い。
計画を、自分主導で進めたことはほとんどない。
挨拶やお礼、おわびをいうのは苦手だ。


本当の自分は、作るものではなく、最初から自分の中にある。



往々にして、ああしなければ、こうしなければという、思い込みに振り回されることがある。



物事のとらえる範囲を広い視点で考え、自分が本当に何をしたいのか、自分の意思を持ち生きられなければ、自分の人生ではない。


長い目で見れば、良いのだという気持ちになれば、心が軽くなる


その上で、気持ちを持ち直し、精神年齢を若く持つことが、自分のアイデンティティを高めることになる。


精神年齢は積み上げてきた知識・知能と経験をベースに相応の生活感覚を鍛えることによって維持できる。


「俺は老人ではない」と自己暗示をかけるだけでは肉体的な老化と同時並行で精神年齢も年を取っていく。


基本的には現役社会で積み上げ、形成してきた知性が精神年齢の老化を防ぐことになる。豊かな老後を迎え、明るく余生を過ごすためにも精神年齢は若くありたい。

―自分のために生きるー


人間は記憶する時、音は音、映像は映像、ニオイはニオイ、言葉は言葉というように別々に保存される。


思い出す時一つの記憶から他の必要な情報を引っ張り出す。


加齢とともに記憶力が衰えたと感じるのは、ある程度の年齢になると知識と経験が豊かになり情報量が多くなりすぎて必要な情報を見つけるのが大変なためで、記憶力が落ちたためではない。


情報が多いため思い出す力が低下して、記憶を手繰り寄せる紐が細くなる。


年を取っていくと、顔は判るのにとっさに名前が出てこないシーンに見舞われる。多数の人脈の中で接触の機会が少なくなったために記憶能力が即座に反応しないからだ。


そして思い出すことをあきらめていると記憶の紐がますます細くなり思い出し力が弱くなる。


紐が細くなる物忘れが多くなる脳の衰え認知症の恐怖、と言う悪いサイクルにはまらないためには、生きる活力を充実しなければならない。


40歳以上の年齢別平均余命も飛躍的に延びている。


たとえば、今では70歳の男性は83歳まで、70歳の女性は85歳まで生きると予測されている。


その長い時間を考えると、自分のために生きるという意識が必要になる。


記憶力の低下は恐れることはない。


脳の機能が必要度の低い記憶を整理しているからだと割り切る。



思い出す力は健在だ。


要するに、自分をあきらめない気持ちが大切だ。




―非観主義は捨てろ―


悲観的な人は、最初から対応する気がない、あるいは気をもんでいるばかりなので、責任を引き受けることなど忘却の彼方にある。

 行動する必要性を感じないまま、気をもんでいる状態を行動していると錯覚している。足元もお先真っ暗になる。
すぐに行動を起さないし、いざという時のための行動も起さない。

そのため不安は大きくなり、依存心が強くなり、反比例して自尊心は低くなってしまう。

ますます自信を失うが、自尊心を辛うじて守るための競争心だけが強いため助けてくれと言えない。さらに悲観的な態度と、依存心を強め、秘密主義になる。周りの人には「超然」として見えるが、本人はお先真っ暗の状態になっている。


自尊心はますます低くなり、競争心はますます強くなる。自尊心が傷つくことを防御するために、他者をこき下ろす歪んだ気持ちが競争心(敵対心)になる。競争心が強くなるほど対等感は失われ、協働意識は崩れる。チームワーク(自分の役割)は果たせなくなる。


楽観主義者と悲観的な人、この両者を大きく分けてしまう要因は、明解だ。


悲観的な人は、感情で判断する。楽観主義者は 理性で判断する。


悲観的な人も、自分では合理的な判断もできるし、できているのだが、感情の波に流されてしまう。何事であれ、感情に支配されていいことはない。


我々はほとんど合理的に判断して行動しているつもりだが、よくよく冷静に考えると、感情的な判断を土台にして合理的な判断をしている場合が多いことに気がつくはずだ。


自分にはうまくやれる自信がない。つまり挫折して嫌な気分になるのを想像して感情的な世界に浸って、準備も計画もしないとうまく出来る訳がない。


つまるところ、やっぱりダメだったと感じるようになるが、やればできることを避けているために出来ないだけだ。


やり遂げる気構えが欠如しているため、やることがなにかにつけて本気になれない。

人生の後半、楽観主義を身につけ自分を励まして競争ではなく協力に喜びを見出す豊かな余生を過ごしたい。


楽観主義はまず自分を励ますことが先決になる。


それに引き換え、悲観主義は自分を否定する。


―楽観主義で行こう―

年をとることは怖いことじゃない。痴呆だって怖くない。
できなくなることばかりに目をむければ、悲しいにきまっている。
 考え方を変えれば、年をとってできるようになること、
年をとっても衰えないこと、というものは沢山ある。

 




楽観主義(プラス志向)とは今と未来がセットの考え方で、

悲観主義(マイナス志向)は過去と未来がセットになっている


大方は楽観的な態度、楽観主義が望ましいと考えているが、傾向的に悲観的な考え方をするほうが多い。

よく誤解されるが、楽観主義は、決してノー天気ではない。あらゆる困難に立ち向かうことができる態度を自分の方針として身につけているのが楽観主義だ。一般的に、楽観主義を望ましいと考える理由はそこにある。漠然としていても感覚的につかんでいるところが楽観主義者の人間力だ。


楽観主義は、いま目の前の現実のことと、未来に向かって行動する目的志向が一つの輪になっている。そうでないと楽観主義でいうプラス志向はあり得ない。自己が望む未来の状態を想定して、いま現在の自分の行動を観察したり、制限することで、未来に対して自信を持っているからだ。


自分はいつでも必要な準備をしている態度によって、困難に遭遇してもきっと乗り越えることができるという自信につながっている。
自信とは自分を信頼できるということになる。必要な準備をしていることで、自分を一番信頼できる支援者に仕上げていく。


未来に備えて準備をしているので、目の前のいまのことに不安を感じない態度が恒常的になっていて、精神状態も安定している。この安定によって、不測の事態にも対応できるため、ますます自分を信頼することができるようになる。


悲観主義な人には、未来と過去があって、今がない。行動しているはずの「今」は、いつも「気をもんでいる時間」になる。


悲観的な人から「勿論」「しかし」、「もし」が出てきてしまうのは、未来と過去だけを見ていて、今を見ないからだ。そのため、何をしたいのか、どうするのかを具体的に考えられなくなっている。自分に必要なことを拒絶している。


気がついている人から見ると、つじつまの合わない考え、解釈、行動と感じるのでこの上なく不思議に見える。


楽観主義の場合には、目的を達成するために、必要な準備をする。
 必要なら行動するので、「しかし」「もし」が出てこない。
出来る、出来ない、好き嫌いという感情に支配されずに判断する。


楽観主義の特長は、勇気があること、つまり自分を信頼しているといえる。他者への信頼があること、他者との関係に対等感があることがあげられる。

悲観主義的な人には、この対等感が欠けている。人より上位に立つか、下位に置くか。何でもいいから、何かで他者より優位に立ちたいだけで、同じ土俵で努力して優ることを目指していない。言葉で人は平等だ、対等だと言っても心の底で対等だと認められない。

楽観主義は、なぜ他者との関係に対等感をもてるのかと言うと、やれば誰でもできると思っているからだ。

物事の成就は、特別な才能のせいではなく、準備を具体的にしたためと考える。やりたいことができるように準備して行動すれば、目標は達成できると考え、行動している。それは誰にでもあてはまることだと考えている。

他者と協力して物事を達成していくことが苦にならない。やればできると思っている。時間がかかることも自分の体験で、知っているので辛抱強く取り組む。そのことを知っているからこそ、横道にそれてムダ足を喰わないように注意しながら、集中する。この状態がコツコツと行動をしている状態なのだ。この経験で、 協力しあうことによって、 自分と他者の間に生じる共同体的な感覚を身につく。


悲観的な人はそうは思わない。


なにかにつけ、差と比較で判断するので、自分には才能がないと考えがちだ。できるか、できないかについては何の根拠もないが、最初から脳の動きを停止させているようなものだ。脳が停止すると身体は動かない。競争的な気質でも競争を正面きってしないのは、そのためだ。考えたことは現実になる。その悔しさや屈辱を認めるのが苦痛になるのでなにかにつけて他者に厳しくなる。


他人との差や比較をするために、 気になってしかたなくなるので、相手の価値をこき下ろすことに神経が集中してしまう。


本来、気にするべきは、他者のことではなく、自分の行動なのだ。


いくら他者をこき下ろしても、自分の目標ややりたいことが達成できるわけではない。ストレスが増えるだけで全く無駄な作業なのだ。そんな思考態度なので、協力して目標を達成することが苦手となってしまう。共同体の感覚が乏しくなる。


悲観的な人の特長は、恐怖心が強い、劣等感、不信と疑惑、敵意がある。


なぜ、こんなに違ってしまうのかというと、あるがままの現実を受け入れているのと、受け入れない違いになる。


よくも悪くもありのままの現実を受け入れていると、 自分も他人もOK と思える。なんでもOK、何かが起これば起った時に起こったことに対応するという姿勢はどうなってもやっていける姿勢そのものなのだ。


どうなってもやっていけると考える人ほど、いざというときの準備を怠らない。何故そうなるかと言うと、自分が解決するつもりだからだ。責任を果たそうと者にとって、準備したり、計画したりするのは物事を進める上で有利だし、後々が楽だからだ。これが他ならぬ自立心であり、自尊心なのだ。


無精は老化の始まりー

生活にリズムが無くなるとどうしても無精になり勝ちになる。


朝の決まった時間に職場に向かい、夕刻家路に向かう。毎日決まりきったような現役生活を離れると、朝起きる時間も拘束がないため不規則になる。


無精はこの辺から始まる。


一日の活動時間にメリハリがないため、生活もだらしなくなる傾向になる。救いは妻が作る朝食の時間だが、朝食を済まし、しばしTVのニュースなどを見る。歯を磨き、顔を洗う、この時間も出勤という拘束がないため不規則になり勝ちだ。


こんな状態が何日も続くと、一日が何となく過ぎてしまうという生活になる。さらに時間はたっぷりあるという観念から精神的にもたるみかねない。貴重な一日が、明日でもいいや、という考え方では人生が終わってしまう。残された貴重な時間を無為にする。


例えば、朝食をとることはとても大事なことだ。「朝は仕事に行くわけでないから食べなくても良い」と言う意見がある。



朝食の大事な点の一つは、体温を上げて活動を活発にする力がある。朝食を食べると元気が出て、午前中の活動に集中できるようになる。



二つ目は、腸を刺激しておなかの中をキレイにする力がある。胃に食べ物が入ると、スルッと便が出てくれるから、気分良く1日をスタートできる。



三つ目は、肥満を防ぐ力がある。朝食を抜くと、食べ物をエネルギーに変える力が弱くなって、体に脂肪が貯まり易くなる。



無精の対極にあるものは清潔である。朝、洗顔もしない、風呂には入らないでは、社会どころか家族にも嫌われる。


年を重ねると加齢臭の傾向が出る。俗に老人臭だが、周囲に嫌な思いをさせるし、身構えはさっぱりしていても臭いがあると不潔感を醸成する。


24時間、ジャージースタイルで日中も就寝も同じ服装で過ごすような生活は最悪だ。色々な意味で無精な生活は避ける努力を怠らないようすべきだ。


60歳は80歳に向けた小学生時代のようなもの。つまり、基盤を創る時なのだ。50代の延長に使ってはいけないものすごく大事な時期である。


力のある60代は自由人になり自分の能力を最大限に発揮して基盤を作り、人生の後半戦に備える10年にする準備期間にするべきだ。


無精は相手に嫌悪感を与える。自分が良ければ人はどうでも良い、では済まない。それ以上に自分自身を大事にしていないし、老化の進度を速めることになりかねない。






―おしゃれしろー


現代では、化粧は女性に限らず、男性のエリアにも進出している。さらに若者だけではなく、老人も行うものもある。


近年、化粧療法と呼ばれる化粧によって行う痴呆などの心理学的治療法が注目を浴びている。


介護が必要な高齢者女性や,痴呆(ちほう)症の高齢者女性などを対象に鏡の前に座らせて毎日化粧をすると、自分から髪をいじりはじめたりする。


徳島県のある病院では40人の痴呆患者にこの化粧療法を施したところ、9割が「生き生きした表情」に変わり、3割が「自分から着替える」などを始め、リハビリへの参加率が向上したという。


人間にとって、他人に自分を見せる「おしゃれ」という行為は人格の確立に重要だからである。



“青春とは
人生の或る期間を言うのではなく
心の様相を言うのだ
逞しき意志
優れた創造力
炎ゆる情熱
怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心
こういう様相を青春と言うのだ

年を重ねるだけで人は老いない
理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚の皺を増すが、
情熱を失う時に精神は萎む
苦悶や孤疑や不安
恐怖 失望
こういうものこそ
恰も長い年月の如く人を老いさせ
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう

七〇歳であろうと
一六歳であろうと
その胸中に抱き得るものは何か

曰く、
驚異への愛慕心
空に煌く星
その輝きにも似た事物や
思想に対する欽仰
事に処する剛毅な挑戦
小児の如く求めて止まぬ探究心
人生への歓喜と興味
人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老いる
希望ある限り若く 失望と共に朽ちる”(サミエル・ウルマン)




おしゃれは相手の好感を呼ぶ。おしゃれは精神年齢の表れだ。おしゃれは心を華やいだ気分にする。特に女性は女らしさを失わないためにも非常に大切な行為だ。


男も男らしさを維持するために、加齢を気にしないでおしゃれをしよう。


現役だった頃、周囲を気にして逡巡したファッションに挑戦する気概を持って若返りを図りたい。似合うか似合わないかは二の次だ。








未知から逃げるなー]



年を取るにつれ、新しいものに臆病になりがちだ。


生きていくのは何が起こるか分からないこと。学校では答えの決まっていることは教えてくれるが、人生をいかに生きるべきかという教科はない。何が起こるか分からない人生をどう生きるかという時に、感情がフル回転する。



答えの決まっていることを効率よくやるのは、典型的な日本人が最も得意とするところだろう。しかし、それだけでは何が起こるか分からない現実には対応できないのも確かだ。



もっと創造的にならなければいけないし、コミュニケーション能力も鍛えなければいけない。



未知の体験を需要することが大事だし、何かに出会った時に、それに気付いて、それを受け入れていく新しい自分を作る。これができないと人生を本当に楽しむことはできない。



脳にはうれしいことが起こって脳が感動した時に放出される「ドーパミン」と呼ばれるものがある。何か行動してドーパミンが出ると、その回路が強化される。これを強化学習と呼ぶ。だから、頭を良くしようと思ったら、何かを学んで喜ばなくてはいけない。



気付くということに対して、トレーニングする機会はない。答えが決まっていることを素早くやることも大事だが、それだけでは今の世の中はやっていけない。



何か新しいことに気付くことがすごく大切だ。脳はオープンエンド、一生学び続けるものだ。そこには高い志と未知に向かう心意気、そして適度の楽天性が不可欠になる。


蓄積した経験は未知の体験に対する耐性を作り上げる一方、変成する経験はその人の思考過程自体を変える。



変成していく体験を重ねることで、蓄積した雑多な知識は査定され、整理されて、実世界で活かせるようになる。



実際に現場で動いている人がいるその場所は、ともすれば自分の方がよっぽど詳しい知識を持っていたりもするのに、知識だけでは何も手出しができない。



知識があれば、動いている人を批判することはできる。ところが、「じゃあやってみろ」と言われて、実際には何もできないから、無力さがつのる。



嫌な体験なら誰にでもある。しかし行動する前に、はっきり失敗すると分からない。ましてや個人の利害を越えて、自分を応援してくれる人達だけの環境は考えられない。


失敗して挫折感を味わう体験も時には必要だが、成功して自信をつける未知との遭遇はそれ以上に大切ではないだろうか。




―金は貯めるなー


そこには、老後は厄介者というコンプレックスと、経済的な不安があって、だからせっせと貯金し、年金も含めて、老人は金持ちのはずだが、大事にチビチビと使っていく。



老後のために貯金するという構造は、金があっても豊かな生活ができないことを意味する。


「ゆりかごから墓場まで」という言葉は英国の福祉を表現した有名な言葉だが、ドイツは年金が充実しているから、誰も老後のための貯金などせず、余暇の生活をリッチにしている。スウェーデンでも都会のアパートに住む人間は郊外に別荘をもっているという。貯金が必要なければ誰だって生活を楽しむための浪費を惜しむはずはない。


数多い老人の中には預金通帳の数字が増えるのを生き甲斐にしている人間もいる。しかし、あの世まで金は持っていけない。己が苦労して手に入れた金は生きているうちに使いきる心がけが、老後を豊かにすると思った方がよい。

金は生きるための道具であって、生きるための目的ではないと割り切る。生きているうちに感謝される老後を過ごした方が良い。


多額の預金を残して、死んでから遺族に感謝されても意味がない。


お金や名声は、一度手に入れた後は重荷になるだけだ。人生に必要なのは、素晴らしい思い出と精神的な豊かさだ。



ニッセイ基礎研究所が平成11年に調査した結果、戸建ての持ち家に住む夫婦は老後に毎月平均して最低でも252千円、ゆとりを持つなら428千円必要という。


また三和銀行の調べではシルバーライフ夫婦二人の平均的な生活費として毎月35万円という結果となっている。世帯年収別か戸建て持ち家かシルバーライフ世帯かといった調査対象の違いで数字差がでていると思う。


尚、生命保険文化センター調査の「ゆとりある老後の日常生活費」は個人年金に加入してほしいので高目の日常生活費をアンケートする人から引きだしており、余り参考にならないという指摘もある。


重要なポイントは老後の総収支(D-G)がマイナスとならないようにかつプラス額が余り多くならないように老後の生活設計をすることだ。


豊かでゆとりある老後生活を犠牲にしてまでプラス額を不必要に残すことは馬鹿げている。


日本人は元来農耕民族なので狩猟民族と異なり 先天的に貯蓄が好きなのかも知れないが左図のような総収支計算をしないまま豊かな老後生活を犠牲にすることは避けたい。


この世のもの全て、あの世には持っていけない。


そして幸せな老後はお金だけで買えない。


幸せな老後は3Kの健康、経済(お金)、心(生き甲斐)の3つとも満たされないとダメだが、お金は無くても健康と心が満たされていればお金のみ満たされている人より幸せなのだと自分を含めた貧乏人は自らを慰め清く貧しく美しく生きたい。


とは言っても“貧すれば、鈍す”だけにはなりたくない。


下手に金を残すと骨肉の争いの種になりかねない。


逆に残された金が無い故に、葬式費用の心配する協働作業が遺族の連帯感を高めることになるかもしれない。




老害にならない“男の美学”

趣味を見つけろー



最近、仕事一筋の人間が時代遅れのような論評があるが、考えれば、戦後の経済復興と現在の豊かさは仕事一筋の人間たちが築き上げてきたものである。



それをあたかも欠陥と称するその社会風潮が理解できない。趣味がない仕事人間はつまらないとか、定年後充実した老後を送れない、はたまた粗大ごみとか濡れ落ち葉だとか人権侵害にも等しい不安をあおっている。



基本的に人間の幸せは、仕事を通じて自分の持っている能力を仕事で発揮することだ。仕事一筋でいいし、仕事が趣味でも良い。ただし、仕事イコール人生にしてはいけない。仕事からはみ出した生き甲斐として趣味をみつければ良い。



サラリーマンの比喩にノミ型とクモ型の表現がある。コップの中のノミはコップの空間の高さしか飛べなくなる。蜘蛛は閉じ込められてもじっと脱出の機会を伺っている。一般的に、サラリーマンはノミ型の傾向が強い。コップを会社に置き換えれば思い当たらないでもない。


ノミ型の悪いところは定年で会社を離れると、コップの高さしか飛べない機能低下だけが残ってしまう。さらに会社という裃を脱ぐと飛べないノミになってしまう。これではいけない。会社という制約がなくなったらこそ、コップより高く飛ぶ訓練をしなければならない。しぶとく、クモ型になる意識を高めなければならない。クモは障害が無くなると、風に乗って飛んでいく。



子供の頃から仕事人間を卒業するまで、趣味のネタは掃いて捨てるほどあるが、趣味は仕事からのはみ出しが一番だ。経験があるし、それなりの人脈もある。仕事は経済的付加価値を求める義務的なストレスが付きまとうが、趣味は興味を持つことが始まりになる。仕事という競争原理は必要がない。自分が楽しければよい。達人を目指す必要はない。人を喜ばせるのは二の次だ。人間には顕示欲があるが、あくまでも自分のために楽しむのが趣味だ。



趣味の効用は暇つぶしではない。老化防止にもなる。手っ取り早いものに読書があるが、ある地域で読書の痴呆(ちほう)予防の効果を試すため、ある地域に住んでいる高齢者に毎週集まってもらい、本を読むことと計算を併せてやった。すると、音読と計算を一日に10分から15分やった人たちは半年間で、前頭前野の働きを示す数値が明らかに上がったそうだ。同じ地域で普通に暮らしてもらった人たちには変化がなかった。



脳の全般的な働き方を判定するテストをやってみても、音読をした人たちはみんな正常値を保つことができた。逆に、普通に暮らした人たちは数値がゆっくりと下がった。



子供の頃の鮒釣りを想いだして、河や海に出かけるのも結構。サラリーマン時代のパソコンを趣味的内容に転換して活用すれば、アップデートな趣味になる。過去の経験を振り返れば、趣味を見つける可能性はたっぷりある。


「俺は何も趣味がない」と沈み込むことはない。


定年後は、これまでとは違って、有り余るほどの時間がある。その沢山の時間を楽しく健康的に過ごすには、生甲斐が必要だ。老後の生甲斐も趣味も無く、ただボーっとした生活を送っていけば、いつの間にか痴呆が襲ってくる。


老後に喜怒哀楽のある生活を送っていれば、痴呆も遠のいて行く。老後の趣味は仕事とは違う。自分の好きなことを選び、とことん楽しむことが出来る。


もう十分だと感じれば、また新しい趣味を何度でも選び直し、色々なことにチャレンジすることが出来るし、その中から自分の体力に合った趣味、長く続けられる趣味を選ぶことも可能になる。



老後にぴったりの趣味には、どのようなものがあるか。例えば、運動だとジョギングや水泳ウォーキングなどがある。特別準備するものなども無いので、気軽に始められる。程よい運動は、健康を保つ上でも大切だ。



そのほかにも動物を飼うことも良い。動物との触れ合いは、心を豊かにする。動物を飼うことは、手間もお金もかかるが、それだけに家族としての愛情も増す。



他にも芸術的な趣味、料理や旅行もいい。最近では男性向けの料理教室などもあり、大変人気がある。このほかにもたくさんの事がある。趣味は人それぞれ、精神的・肉体的に負担の掛らない自分にあったものを楽しむことが大事である。



くれぐれも「無芸怠職」の生活は避けたい。

定年後の夫婦間の悶着は、自分時間の不平等をめぐるもの

人生を生きていく上で、仕事をするということが 非常に重要なことであることはいうまでもない。



 それぞれが仕事をしながら、 お互いにサービスを受け合うことで 社会が動いているからだ。







 人生の中で見ると仕事の時間と同様に、家庭での時間も非常に長い時間となる。


 すなわち、仕事で成功しても、家庭で成功しなければ、本当の意味での人生の成功とは言えないと思う。


 このことは、言い換えれば、仕事と家庭のバランスを取るということだと思う。


 定年後に離婚などという悲劇がおこらないよう、仕事の時間と、家庭の時間を適正に配分していきたいものだ。

 ただ充実感のためには、仕事だけではなく家庭においても充実感がなくてはならない。
 そこから、お金をもらえるだけでなく、 自分がお役に立っているという充実感も得られると思う。