世の中は男女平等社会になった。その結果、女性が元気になった。若い女性に限らず、身近な存在でオバタリアンという階層が女性は元気だという社会現象をもたらしたことは耳目に新しい。
大学の非常勤講師をしている知人が、学校でイベントを企画すると女子学生がリーダーシップを取って、男子学生は隅で様子を見ているパターンが多いと言っていた。孫が通う保育園でもその傾向を見て取れる。
日本の男らしさというのは、「男は黙って…」「男たるもの…」
「男の甲斐性は…」のような言い方に代表されるように、イメージ的には石原裕次郎、高倉健とか、西部劇ではジョン・ウェインといった要素が強かったが、そういう男らしさに違和感を覚える男たちが最近増えてきているようだ。
高倉 健
ジョン・ウエイン
現代は女性の社会進出が目覚しい。男女共同参画社会実現の掛け声のもと、BGとかOLを超えて、警察官、自衛官、鉄道員といった30年位前の時代には男の独壇場だった職場にも女性が存在する社会になった。
古い「男らしさ感」に縛られて、必要以上に苦しんでいる人がいるのではないか、と危惧するのは余計なお世話かもしれない。最近は草食男に肉食女と称される。
かっこいい男の条件。それは、逆境でこそ輝くことだ。逆境で力を発揮してこそかっこいい男だ。そして逆境になると、ついつい思い出してしまう男がいる。
何か問題が起こったとき、みんなが「あの人だったらどうするだろう。どう考えるだろう」と気になってしまう男がいる。
逆境になると、周囲の人が思い出してしまう人間が読者の周りにも、一人ぐらいはいると思う。
そんな逆境で強い男は、「この人にはかなわないな」と思わせるスケールの大きさを持っている。
老人が身体や能力の衰えに対して如何に向き合っていくかを研究する中で、老年学者達はある種の老人が発達させ保持している一つの状態を記述するために「超越」という言葉を使い始めている。
スウェーデンのL・トルンスタム教授らは「老年的超越」という言葉を使い説明している。老年的超越とは、つまり物質的・合理的な視点より神秘的・超越的な視点への移行である。
老人はそのような視点を、日々の生活に常時かかわることから意図的に身を引きながら獲得していく。
このような意図的な「引退」は社会との生き生きとしたかかわりあいを失わせることはない。携わらなくても、関与しつづけるというあり方があるからである。
このような逆説的な状態が超越的であることの内実を示しているのである。
現実には、引退を選択できるような余裕のある人は少なく、多くの老人は強制された引退に直面する。身体組織の衰えや、衰えに対する心理的情緒的反応によって、接触の範囲が狭まっていく。この傾向は社会によって生み出されている。
老年期の自己感覚に関して、社会的な有効性と活力がある超越を作り出そうとするとき、時間的な環境が重要になってくる。
男たちは現在の重荷から逃れるためにすばらしい未来に目を向ける。しかし老年期の社会が提供するモデルは超越を手放すことを奨励するモデルだ。新しい生活や役割を探すこと、つまり新しい自己を探すことではない。
この誤った老年期の概念が正常な発達を行き詰まらせているが、それに負けないで、男は年を重ねれば重ねる程もっともっと人間的になるようにしなければならない。
“強くなければ男でない、やさしくなければ生きられない”
男は社会が男に課した限界を超える自由を発見し、それを実らせなければならない。生まれたときには、男として生きる宿命を与えられた。
自分自身の足で立つ事を覚える壮年期までには、人生を全うするためには他者に与えることを求められていることを知る。
それによって、この世を去るときには男として与えてきたものを体現する存在になることができる。
このような視点からいうと、死は人間が与えられる最期の贈り物でもある。男の義務は、あるがままの姿を明確にして拡大すること、意識を純化することであろう。
さらに、最後まで尊厳を持って、男として生きなければならない。
そして、人生の定年に、多くの人たちに惜別の想いを残し、生まれでた故郷に輝かしいお土産をもって帰還するには、一生涯をかけた努力が必要になるのだろう。
あした
「 朝 に道を開かば、夕べに死すとも可なり」 (孔子)