―車の運転は控えろー


車は凶器になる。シルバーマークも結構だが、万が一事故を起こしたら余生は大変なことになる。自身で済む事故でも最悪だが、自分以外の傷害事故を起こしたら、この世の終わりと思う位の覚悟がいる。


警察庁の発表によると、69歳以上の高齢ドライバー約四千人を検査したところ、約26%にドライバーの認知機能が低下していたことが分かったという。また、昨年1年間の死亡事故を起こした運転手を年代別でみた場合、30歳代から60歳代までの各年代は1万人当たり0.6人だったが、7074歳は1人、7579歳が1.6人、85歳以上では4.2人で、年齢とともに増えているともいう。この認知症の高齢ドライバーに対して、来年から新たな対策を警察庁が始めようとしている。


新聞報道によると、車の運転に必要な、認知機能を把握できる簡易検査を義務付ける方針を決めたという。免許更新の際に検査を実施する。


認知症については02年の道路交通法改正で免許の取り消しや停止の行政処分が規定されていたが、30万人にも上るといわれる認知症の疑いのあるドライバーで、実際に免許が取り消されたり停止された数は06年6月までで192人に過ぎないとのことである。


飲酒運転の厳罰化は、東名高速での事故や福岡での事故で幼い命が奪われてしまったことを契機に始まったが、この認知症高齢ドライバーも高速道路での逆走事故や操作ミスでの事故での犠牲があって問題視されるようになってきた。


この検査の義務付けで認知症が分かれば、事故を未然に防ぐために取り消しや停止といった措置が行われるケースは増えてくることになるのだろう。


長野県の中央自動車道で80歳ドライバーが14キロ逆走し、大型トラックに衝突、さらに約10キロ逆走して非常駐車帯で止まったという事故があった。新聞報道によると、その運転手は「「どこに行こうとしていたか分からない。給油したことも覚えていない」と話しているという。追突されたトラックの運転手は軽傷であった。警察は高齢ゆえの判断能力低下が原因と見ているようだが、ひとつ間違えば、とんでもない大事故になりかねなかった。


群馬県の場合、2004年のデータだが、高速道路の逆走は34件あり、車を確認できなかった14件を除いた20件のうち、13件が60歳以上の高齢者で、7件で認知症が見られたという。


2004年末時点での65歳以上の運転免許保有者は約927万人。全体の11.8%の割合を占めている。2010年になると、高齢者の割合は15%に達すると見られている。


高齢化が進むことと交通事故との関連をみると、2005年に交通事故死者数は四九年ぶりに七千人を下回り、発生件数も前年より減少しているのに対して、高齢運転者による死亡事故は増加。65歳以上の高齢者の占める割合は過去最高の42.6%に達していると言う。軽傷の場合が10.2%、重傷の場合は26.5%となり、高齢になればなるほど事故での危険性が高まるという結果になっている。


また、負傷でみると、高齢者が事故に遭うのは自動車乗車中が最も多く、全体の半分近くを占めている。次いで、自転車乗用中が23%、歩行中が16%という割合になっている。他の年代と比べた場合、歩行中に事故に遭う場合が多い。


高齢者が負傷する事故の件数は、ここ10年で2.4倍に増えている。これから高齢ドライバーが増えれば、高齢者自身の事故や巻き込まれての事故が増えていく可能性が高くなる。あと一〇年も経てば、町中に「シルバーマーク」ばかりが溢れることになる。


これから定年が年金支給開始との関係で、65歳まで引き延ばされる。年金財源が行き詰まれば、67歳とか、70歳とさらに引き延ばしていくだろう。これにあわせて、高齢者という定義そのものを変えていこうという動きもある。これから高齢者ドライバーは爆発的に増えていく。


家族が「危ないから」と免許を返納したり、自動車を取り上げたりしている場合はあるとは聞くが、現在は認知症であっても強制的に免許証を取り上げることはできない。70歳以上のドライバーに、免許更新時に高齢者講習を義務付けているくらいである。


車の便利さに慣れると運転を止めるというのは至難だと思うが、元気だった(若かった)頃に比較してヒヤッとハッとするような事象が続いたら、運転することの可否を真剣に考えたほうが良い。


便利さを捨てきれず、事故の可能性を高めるか、不便を覚悟で安穏な老後を選択するかの判断だ。


昨今、交通事故の加害者責任は重くなっている。特に人身事故を起こした場合の罰則は厳しい。状況によっては収監もありえる。


健康のため歩こう。移動距離があれば、公共交通機関の利用する。そんな意識の切り替えが安全な老後を保障する。歩くことは健康維持にもつながる。


煙草を買いに車で行くことなど最悪の非健康法だと心得よう。








―OB会―


OB会も色々あるが、過去の自分の評価を知りたければ、会社のOB会に参加することをお勧めしたい。


特に、会社のOB会は仕事に取組んでいた時代の先輩・後輩に会える。現役時代には仕事を遂行するために社員の折々かつ様々なコンビネーションが成立する。


その中で色々なコミュニケーションが繰り返される。気が合う、合わないという関係もできる。


仕事を消化する過程で力量も問われる。上司からの評価もある。部下の信頼も積み上がる。職場は社員同志のインターフェイスの繰り返しが行われ、人間的な魅力も確認される。


現役を離れても、社内で魅力的かつ信頼の厚かった人間の周囲には集まる人間の数が違う。そして楽しい思い出話しや苦労談がにぎやかに展開される。


人間的に魅力がなく、嫌な思い出がある人間は片隅に居ざるを得なくなる。相手になる人間が少なく、話題の展開に乏しくなるからだ。これはそのOBの部下だった人間たちの上司だった人間に対する傾向と言える。


OB会は現役だった頃の会社の人間関係の反射にも等しい状況を提供する。OB会はリタイアしても、現役時代における当事者の評価を暗黙のうちにしている。


さらに、リタイアしても魅力的な人間には昔の人脈を通じて、新しい出会いが展開する可能性がある。






―バック・ツウ・ザ・フューチャー―


リタイアした人間は懐古主義に陥る傾向がある。同じ境遇の人間であれば、話題として共通したものがあるが、世代が異なると問題が起きる。



グループの話題は年長者がリードする場面が多い。そこで、現役を離れた先輩がクドクドと過去の自慢めいた話しは嫌われる。



話の内容・表現が現役世代の間接的な批判として受け止めるからだ。貴重な経験として拝聴してくれれば話し甲斐もあるが、時間経過が異なる相手に対して昔話は極力避けたほうが良い。



どうしても昔話をしたければ、同じ境遇だった相手を選ぶべきだ。



会社のことであれば入社の同期会は無難な選択になる。現役時代の話題も同期同志であれば、お互いの自慢話や失敗談など聞き流したり、笑って済む。



もっと、もっとバック・ツウ・ザ・フューチャーして懐古談をしたければ小学校、中学校、高校などの同級会を活用する。こちらは会社時代の話題より、もっと軽い懐旧談になる。



同級生と言う関係は簡単に学業時代に戻れる。卒業後、社会的にどのような立場であったかは二の次になる。



校庭、教室、教師、授業、遊び、いたずら、運動会、遠足、修学旅行等々話題は山ほどある。



他人が聴けば他愛のない思い出話しだが、不思議なもので童心に帰られる貴重な時間が持てる。



特に、子供と大人の中間期を過ごした高校時代は話の中身にリアリティを伴う。現在の知識・経験を持ちながら、高校生にタイムスピンしたような錯覚を催す。



人間の故郷回帰願望の貴重な場面が同級会である。








―善意のお返しを期待するなー


〈福沢諭吉の心訓〉


・世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことです。



・世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。



・世の中で一番寂しいことは、する仕事のないことです。


・世の中で一番醜いことは、他人の生活をうらやむことです。


・世の中で一番偉いことは、人のために奉仕し、決して恩にきせないことです。


・世の中で一番美しいことは、総てのものに愛情を持つことです。


・世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことです。



善意はあくまでも善意であって、見返りを期待するものではない。見返りは感謝とか敬意というかたちで充分だと割り切る。


見返りを期待することは取引につながる。それでは善意をはみ出して恣意になりかねない。相手が困っていればいるほど、弱みに付け込んだ行為となる。


中国の篤志家に朱家という人物がいた。数百人を救い、救った人には会わないよう心がけた。会うと相手の心に負担を与えることを意識的に避けたからだ。


お返しを受けたら援助でなくなるという信念があった。そして貧しい人間から順に手を差し伸べた。


朱家は粗衣粗食で通し質素な生活だった。考えれば、金持ちに気前の良い人はいない。倹約生活をしていたからこそ善意・善行出来たと言える。







好奇心を持てー



人間はこの世に生を受けたときから好奇心を持って生まれる。好奇心が己を進歩させる原動力になる。


好奇心とは、物事を探求しようとする振舞い、気持ちで、多くの動物に見られる行動である。自発的な調査・学習といった知的活動の根源となる感情が好奇心だ。


その意味では、ワイドショーで芸能人の生活をほじくり回そうとすることと、素粒子の行動を解き明かそうとすることに差異はないと考えられる。


目新しいものに出会ったとき生まれるその他の心情としては恐怖 が挙げられる。人間が目新しいものにぶつかった場合は、好奇心が生まれるか恐怖が生まれるかのどちらかである。


本質的には、好奇心とは未知の物事に対する行動や精神的な働きを示す言葉で、自然環境や周囲の出来事の情報や関連するものを求めようとさせることにつながる。 また、聞きなれない名称は人々に好奇心を植え付けるため、注目を集めるために名前を付けることも行われる。


一般に、女性よりも男性が好奇心は強いとされる。それが正しいとすれば、好奇心=探求心とするとき、専門的な職業に就いている男性の割合が女性よりはるかに多いのは自然の成り行きと考えられ、男女差別 には当たらない。


動物には好奇心があり、よく遊ぶ。うちの飼猫も子猫のうちはよくじゃれついてきたが、大人になると猫の前に動くものを見せたところで気が向かないとシラっとしたりする。



人間はどうかというと、一生の間遊び続ける。



遊びというのは新しい技能の獲得や習得に結びついている。遊びの中で新たな能力を獲得し、その能力がまた遊びを発展させ、そして更なる技能・能力が必要とされる。



人間が一生涯遊ぶ能力を失わないということは、一生涯学習できることを意味している。



そして、この遊びをさせる好奇心というものは、飢えなどの生理的欲求が満たされている環境でこそ高まるそうだ。



飢えている状態で遊び心など沸くはずもないし、クリエイティブにもなれない。



自分の現在のキャパシティの範囲外のものを無用、無意味と判断して、自分の範囲内のものしか学ぼうとしない姿勢を持っている人は、実は学ぶ力が弱いのではなく、脳みそ的な学ぶ力ばかりが発達していて、感じることに関する能力が弱いと思う。


要するに、そういう自分のキャパシティの範囲外を学ぶ姿勢が弱い人ほど、頭でっかちで頭でだけ考えている人間じゃないかと思う。



自分のいまのキャパシティの範囲外のことを学ぶには好奇心みたいな、頭で考えて生み出せるのとは別の力がいる。そういう好奇心は、いくら勉強しても、本から何かを知識を得ようとしたところで養えない。



むしろ、それは普段の生活とか、あるいは、その反対の非日常的な体験(見知らぬ土地への旅行だとか、寺社などでの神秘的な体験だとか)の中で、頭で理解せずに、なんとなく感じるものがあって、そこで好奇心が養われる。








―裏切られる方が裏切るよりましー


人間は物心ついた頃から親兄弟をはじめとする自分以外の人間と接触して成長する。そして数え切れない人間の中で生活をする。愛情・友情・好意・善意・同情等々色々な感情を持って人間同士の関わりを深めていく。


半面、人間は生きていくために折々に選択を迫られる。右か左か迷った時に選択する道は自分に有利だと思う方向を選ぶ。そのためには信頼関係を崩さざるを得ない場面もある。


正に打算という決断である。


裏切られた時の怒り、悲しみと共に何とも言えない挫折感を味わうことになるが、もう一歩踏み込んで裏切った相手の心情・立場を考えるゆとりを持ちたい。


裏切った方も裏切られた方も傷つく度合いは大きい。よくよく考えれば、その行為を発動したのは裏切った方で、裏切られた方ではない。愛情とか友情を捨てるという決断や行動はその時は良いが、精神的に尾を引く。


その負い目は生涯続く。裏切った対象の広がりによっては、墓場まで続く重いものになる。


裏切られても同様の感情は残るが、行為者ではないという優越感が残る。精神的にも優位になる。


信頼は人間関係で最も大切な感情である。信頼があってこそ、愛情も友情も深まり豊かな人生が展開できる。


裏切られた時は落ち込まないで、裏切るよりも裏切られる方がましだと開き直ろう。


稀代の英雄、伊達正宗は権謀術数が行き交う戦国時代を生き抜いた到達点として“得意淡然、失意泰然”と言った。その意味を噛み締めたい。








―役に立つー


高齢化社会を考えた場合、老人のために何をしてあげるかではなく、老人が社会にどんな貢献ができるかということが重要になる。


そのような人たちが貢献できるシステムをつくりあげていかなければならないのに、わが国の場合全くできていない。


それと共にシステムではなく、インフォーマルなものも社会の中にとり入れていかねばならない。


ややもすると行政発動によるボランティアという発想が飛び出す。無償の奉仕を権力側が求める考えは封建時代のものだ。


現在の民主主義思想のもとで、奉仕すべき側が奉仕される側に奉仕を求めるという無茶苦茶な考えが横行する。


市民協働とかNPO活用という行政側の提案は、単なる行政コストの節約と責任転嫁の視点以外の何者でもない。


古来より、助け合いという美徳は珍重されてきた。これは規則で決められたものでも、強制されたものではない。人間本来の気持ちなのだ。


家庭でも、社会でも自然発動で良いことをして感謝されるパターンが大切だ。


陰徳という好意が社会の感動を呼ぶが、自分が生きてきた社会への恩返しをするためにささやかな存在でも役に立つという思いを持ちたいものである。




団塊世代の皆さん男っぷりを上げよう!           老害にならない“男の美学”






―社会の一員であることを自覚するー


明治以来の「欧米に追いつき追い越せ」の右肩上がりのGDP膨張路線が約百年を経て行き着くところに行き着いて、世界諸国を追い抜いて前に見えるのは米国の背中だけになった。


成熟した先進国として次の百年の入口に達したにもかかわらず、発想も政策もシステムも転換できないまま、相変わらず膨張路線を追い続けてマネーゲームのバブルに突入し、その転換の必然性を正しく捉えきれずに茫然自失に陥った状態が「失われた一〇年」だ。


その中で、この一種の経済停滞(全世界35兆ドルの7分の1に当たる5兆ドルの実質GDPを維持している状況)を不況と誤認して一層の公共事業バラマキに励んだ小渕政権とその後継の森政権が立ち行かなくなった後に、小泉政権が出現して「自民党をブッ壊す」「改革なくして景気回復なし」と叫んだ。


それ自体は、時代の課題を正しく捉えていたと思う。


しかし、ベストセラー『国家の品格』の著者である藤原正彦氏は毎日新聞で「考えるべきは、市場原理主義の弊害だ。これは規制をなくして人々に競争させ、弱肉強食の社会を作る。日本はアメリカの言いなりになってこのシステムを導入した。その結果、「人の心は金で買える」などという金銭至上主義がまかり通るようになった。(中略)弱者のためにこそ、規制は必要なのだ。ところが現実は「官から民へ」「小さな政府」というスローガンにより規制はどんどんなくなっている。行きつく先は少数の金持ちと、大多数の貧困層、すなわち勝者と敗者ばかりで普通の人がいない社会だ」と言う。


ここ10数年の間、日本人のモラル低下が大きな話題になっている。


社会ルールを守るという基本的な思考パターンが崩れている。


公共の場で時々自分の事しか考えていない勝手気ままな振る舞い、周りの迷惑など無視する。自然破壊も、ゴミの投げ捨てや散らかしも平気だ。注意すれば、かえって横暴な態度を取る人間もいる。



社会ルールとは個体では生命活動が弱過ぎる「人」が協働する事によって生命活動を強化する仕組みだと考える。



構造改革の掛け声のもとに進行した規制緩和は社会ルールを無視して良いというものではない。



現役引退は社会から遠ざかるという意識が強いが、とんでもない誤解だといえる。


社会とのしがらみがないからこそ、豊富な知識と常識をもとにした冷静な判断の出来る社会の一員としての自覚が貴重になる。


年金を貰っているから社会に文句を言えない、という意識も無用と考える。年金は当然の権利であって、そのことで社会の片隅に引っ込むことはない。


良識ある社会の一員として、社会のあり方に対する提言や公共活動への積極的な参加が望まれる。







一歩引けー


現役時代は競争社会で「我こそは」という気持ちが強くなるが、現役社会から退いた場合は一歩引く姿勢が好感を持たれる。心構えを列記する。



ムッとすることがあっても、すぐにキレない。
嫉妬心などでムカムカしても、とっさにキレたりしない。些細なことは、ぐっと腹に据える。そして、許しがたい侮辱にあったときには、効果的に怒りを伝える。


○○してほしい」と期待しない。
「守ってほしい」「楽しませてほしい」など、いつも「ほしい」だけで心がいっぱいなのは、まだまだ成長しきれていない証拠だ。もらう愛情ばかり、期待しないように心がける。


許すこと、あきらめること。
「○○してほしかった」といつも過去に縛られているのも、まだまだオトナになりきれていない。過去にあったことは水に流し、これから人生をよくすることを考える。


人の話を聞き、自分も素直に主張する。
人の話を最後まで聞かずに主張したり、逆に言いたいことを言えなかったりしない。他人も自分も尊重したコミュニケーションを心がける。


見返りを期待せずに、人のことを思う。
他人に施しをして見返りがなくても、「○○してあげたのに」と思わない。自分を忘れて、自然に自分以外の人のためを思うことができたら、立派なオトナだ。


このように、「オトナな心」というのは、ちょっとしたムカつきやねたみなどをぐっとこらえ、他人や過去を許すことができる心である。また、いつも「ほしい、ほしい」と心を飢餓状態にしないで、人に与えることが自然にできるような広い心が欲しい。


実際は、自分では本当にオトナになれているのかどうか、なかなか見分けられないが、そのポイントは、いつも年下、後輩に慕われているかどうかにある。甘え上手であれば、年上の人を喜ばせるのはたやすいが、「与える心」をもったオトナでなければ、年下の信頼を得ることはできない。


欲望をコントロールして、施しができる人の周りには、自然に年下の人が集まってくる。


他人に対しても一歩引いた「オトナ」な態度で接することができる人が増えれば、もっと多くの人が生きやすい世の中になる。