神力坊より、十三丁目の肝心坊まで十一丁。参道のかたわらには一丁ごとに丁目の刻まれた風雅な石灯篭が苔むして立っている。江戸時代のものともいう。
登り行くすべての人々は、この灯篭の標示によって
「あと何丁だ」
と行程を数えては励まされる。
また参道の一方の肩には宝暦年間、身延四十二世耐慈院日辰上人の代、赤沢の地区民が植林し、周囲の山地と共に身延山へ寄進したという杉並木が、灯篭と灯篭の間に連って何処までも続いている。
巨大な杉の並木と、苔むす灯篭・・・・・・・・その組み合わせは、そのまま幽邃なる霊山の雰囲気をただよわせ、一幅の絵となって登詣者の目を楽しませる。
然し、ためにあたりは視界をさえぎられてほの暗く、一面に密生する熊笹やシダの葉は、一層ほの暗い山の森厳さを濃くする。
時折、梢のあい間から射す光芒が、一箭・二箭・・・・・プリズムのように輝き、参道と並木の肌にちらつく。
光と影の交叉・・・・・・・その中を一団の信徒が、目にしむような純白の行衣をまとい、数珠を頸にかけ信心堅固の杖をつき、大音声にお題目を唱えながら元気一杯、一歩一歩と登って行く。お題目のコーラスは、深い谷間へとこだまする。
道は見上げるようにけわしい。然し、至る所に杉の根が竜蛇のもつれるように這っていて、これが結構な踏み段となり、また流砂止めともなっている。
道は行く毎に幾重にも折れ曲がり、曲折は頂上までも続いている。平坦な所は、坊を除けば殆どない。
然し道を曲がる度毎に、そこには一団また一団、営々として登っている信徒の姿がある。七面山の参道には、信徒の後を断たない。
と言って、登詣者すべてが元気溌刺とした人ばかりとは限らない。息子に背負われた老婆もあれば母に手を引かれた幼い子もいる。或は両脇から抱え込まれるように支えられている痛々しい病人も見受けられる。
姿ばかりとは限らない。元気に登っている信徒の中には、事業不振に悩む者、家庭の不和に悩む者、或は家族の病気に悩む者・・・・・・・・登詣する人々はすべてそれぞれに切実な悩みと、真剣な祈りを持っている。
また、その反面には、心願成就し、深い感謝にみちみちてお礼参りに登っている人も非常に多い。
こうした霊験あらたかな天下の霊山なればこそ、五十丁のけわしい山坂をもいとわず、次から次へと後も切らずに登って行く。
何事も、目的地へ達するまでが苦しい。七面山の道も、登る五十丁が修行の道であり、祈りの道である。この苦難の外に別に修行があるのでもなければ祈りがあるわけでもない。日蓮教学でも、この理を称して「因果不二」と言われている。
登詣する信徒は、既に一歩一歩に祈りをこめ、七面大明神の御加護を受けて、滅罪の苦しみに堪えて行く。
やがて十三丁の肝心坊につく。右に本堂と庫裏が軒続きにあり、左に休憩所がある。坊の縁起は、お万の方が三度登詣される間、中適坊・晴雲坊と共に休憩所として建てられ、降って宝暦年間に改創されたものという。本堂には子安八幡が祭られている。
妙福寺の分霊ということであった。
(※本文は全て昭和35年発行当時のことです。)