講義を受け持つようになって10年以上が経過しました・・・。
目的をもった方々ですので、多くは真面目に取り組んでくれますが、時として「親から無理やりやらされている!自分はもっと自分らしく生きたい!」といって、反抗的な態度で接してくる子も事実おります
こうした子を受け持った場合、わたしはまず徹底的に話し合います。
変な時代だなぁ~~と感ずるのは、なぜか他の子の親が出てきて「特定の子ばかり手をかけるのは不平等だ!」と訴えてくることです・・・。
なぜこれが不平等なのですか?だって、本人が何のためにここに学びにきたのか分からないと言っているのですから、わかるように説明し、ぼやけた目標をしっかりと定め、最終的にはやり遂げた達成感を、苦楽を共にした仲間と味わって欲しいと当たり前のことを行っているに過ぎないのですョ・・・っと、親御さん(中には大先輩もいらっしゃる~~)には説明します
常に綴っておりますが、先人は「お互いの足りない所(差)を補いあって(取り除いて)生きることが、日本人の日本人らしさ」と、これを「差取り(=悟り)」と今に伝えているのですから、環境が異なる中で育った者同士を、同様に教える事自体が、わたしにとっては不平等であり、「無責任」だと思うのです
一人一人の考え方や生活してきた環境という「差」を如何に取り除いて、達成感を感じてもらうのか?今こそ、「差取り」の本義を皆で共有しあう時ではないのかな?・・・と思います。
わが国に残された多くの文献や考古学の発見は、単に「見つけたーー!!」といったお宝発見的なものではなく、当時の人生観や価値観が手に取るように伝わってくる道徳的な意味を多分に含みます
例えば「三角縁神獣鏡」。半島経由で伝わったこの鏡は、先人にとっては「身の丈を写す道具」と捉えられ、自身の姿をうつして、本当に今のままの生活で良いのかな?と考え直す意味をこめて、これを「鑑み(考身)=かがみ」と名称しました
つまり、往古の先人にとって自身の立ち位置とは、常に社会や他者との付き合い方から構成されていると捉えていたのですネ
これって特段難解な意味ではありません。
果物や米が、雄しべや雌しべによって作られているが如く、自身も両親という他者から誕生します
所謂「自分らしさ」という価値観も、すべて生活環境の中で出会った「他者」によって構成されていきます。
言い換えれば、他者の「自分らしさ」とて、皆様が作っているのです
こうした星野←リゾートではありません。ご指摘ありがとうございます!もとい、星の数ほどの他者との出会いは、言の葉が誕生する時間軸の中でやがて「会える」と表現され、「和える」とも表記されるようになりました
そう!ごまの和物(あえもの)という時に口にしている「和える」ですっ
他者によって作り、作られていく「自分らしさ」は、やがて「和える」という一つのお料理のように、熟成され、これが「和食」に込められた先人の思いでもあるのですネ
こうした「和」の時間軸を長く守り、差を取り合って「平ら」な横の繋がりを尊重しあう関係性こそ「平和国家」の名に恥じないライフスタイルなのではないのでしょうか