秋らしくなったこのごろ、バラが咲いていた、親水公園にいい匂いの薔薇が。

ピンクの薔薇をみてると、気分が華やぐ。
政治が面白くなってきた。
国の中央機関が極めて不効率に不公正にばらまく政治か、地方分権か、きれいごとだけ主張するグループか、を選択する選挙になりそうだ。
私は憲法を改正して地方分権(女も男も等しく自己責任、厳しい競争、弱肉強食、ネオコンに近いのかな)する道を選びたい。
薔薇咲く散歩道を歩いていると、ふと生きることについて考えてしまう。
NHKが人体の臓器ネットワークについて8回シリーズを放映する。
プロローグと第一回「腎臓」をみた。
腎臓がおかしくなると多臓器不全を引き起こしかねないと知って、いままで何も知らなかったなと思いながら、塩分をおさえた食事と質の良い睡眠(目覚めの太陽の光と就寝3時間以上前に食事および入浴)について意識しようと思った。
生き物とともに生きることについて、基本的には増えすぎた野生生物は食べるのがいいと思ってる。
外来生物だからとか、恐いとか、危険な毒を持つ生き物もいる。
※とにかく虫は苦手。イナゴは無理だけど、スズメバチなら食える。
固有種の保護や生態系のバランスを保全する努力も継続的に行う必要はあるだろう。
ベジタリアンについては、個人の信念で自己の活動として(せいぜい家族や親密な仲間の範囲内)やるのは勝手にしてくれという感じだけど、自意識過剰で恩着せがましいから嫌い(かくいう私も自意識過剰で自分勝手だ!)。
植物だって菌類だって生命だし、生態系の中心的な担い手だ。
もちろん、殺生は抵抗あるし躊躇する。
哺乳類は特に愛おしいと感じる。
屠殺(とさつ)はかわいそうだ。
だからといって、生きるには他の有機物=生命を食べる以外にないのは揺るがない科学的事実。
せめて、無駄にせず残さず食べるのだ、できるなら美味しく楽しくね、食卓までの多くの人の汗(調理はもとより、どんなに最低でも生産と物流ぐらいはイメージできる)と命そのものに感謝して。
個人的には、ジビエとか狩猟には性的興奮を感じざるを得ないのかもしれない!?
植物だけ食べて清潔なつもりになってることは、もちろん個人の勝手だけれども、その生き方を押し付けられるのには決して我慢がならない。
ベジタリアンの発想は、選別して肉を食する異集団を見下すという姿勢が透けて見えるから、人種差別と根本的に同じ思考回路だと思う。
結局のところ、限られた地球の中で、奇跡的なバランスを構成する命の循環のなかで、覚悟して肉も魚もおいしくいただくのが人として自然だと感じるのだ。
突拍子もなく論理が飛躍するが、さらにいえば、滅びるべきは人間のほうだと思ってる。
殺生を禁じる仏教は矛盾だらけだと思うし、親鸞が言った通り、すべての人間は殺生から決して無関係のまま逃れられない悪人だ。
※あまりにも残酷な現実に、悪人であるがゆえに悩み苦しみ、悪人こそが正機する、阿弥陀如来より賜りし信心の力で、他力にすがり願うことによってしか救われないと感じざるを得ない。
無関心や穢れをそのまま放置することこそが不潔だと思う。
地域猫の取り組みは、心の底から賛同しているわけではないが、殺処分の実施を減らすための現実的な解答のひとつ、それも非常に有効な手法である。
野生生物を餌付けするのは本来よくない。
でも、家猫は人と暮らしながら生きてきた動物なのだ。
人間が責任を持たなければならないのかもしれない。
耳をカットされた地域猫

せめてなついてるこのねこちゃん一代限りはかわいがろうということだ。
避妊または去勢して殺処分の拡大再生産を止めて、そのかわり餌あげて、アレルギーあるひともいるかもしれないけど、糞尿にいらいらするひともいるだろうけど、制限をしてぎりぎりの妥協点をみつけたものと私は受け止めている。
結局は人間の勝手な都合で厭らしいし不潔な思考パターンだと感じる。でも、それ以外に現実的な有効な手段は多くない。猫カフェも悪くないと思うけど、どこでも成立するものではない、まったく追い付いていない、殺処分対象の野良猫は4万匹以上だ。
なでてあげると「ごろごろ」とのどを鳴らしてかわいいんだよ。