ひと月早いハロウィンと歎異抄 | nishicapiのブログ

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中秋の名月は曇っていたのに、時間とともに雲が流れて、晴れ間からお月様が顔を出しました。

きれいでしたね、

今年は8年ぶりに十五夜と満月が同じ日になったそうです。

 

 

ハロウィン商戦がはじまったようですね。

10月の最後の夜なので、涼しくなってきたことだし、ひと月なんてあっという間、もうそんな時期かと感じました。

ハロウィンはケルトのお祭りと収穫祭が開拓時代のアメリカで混ざり合って、今のようなオバケのかっこうしてお菓子をもらう風習になったそうです。

ハロウィンでオバケのキャスパーといえば、映画「パーフェクト・ワールド」が真っ先に思い浮かびます。

切なく美しい物語です。

善と悪、そして運命について考えました。

何度も観ていますが、人生の苦悩と救済について、堂々巡りなことも多いのですが、いろんなことを感じます。

 

さて、人生のやるせなさについて、歎異抄を話題にしたいと思います。

思うままにならない人生、苦しいことだらけともいえる人生、息詰まる場面で何度か読み返しています。

自己肯定感が少し高くなるように思います、あるいは、向き合う問題に対して余裕が生まれるというか、心優しい指南書として私の悩みに寄り添ってくれるありがたい本です。

ご注意いただきたいのは、個別の問題について、何か具体的な解決策が書かれているものではありません、ただ一呼吸、落ち着くだけなのかもしれません。

モーゼの十戒も「姦淫するなかれ」以外は素直にその通りだと思い、ここまでのところ運よく「人の道」を踏み外さないで生きてくることができました。

もちろん、失敗だらけ、聖人君子でもないし、他人を恨んだり妬んだりします。

ごまかしたり、嘘をついたりもします。

親鸞聖人も言っていますが、人は、縁(私はこの言葉を運命と運命の交差点ぐらいに捉えてます)次第でどんな怖ろしいこともしてしまうかもしれないのです。

また、生態系とは不可思議な相互依存関係の究極のバランス状態であり、生きとし生けるものは例外なく他の生命のおかげ(=殺傷そのもの)をもって生命をつないでいます。

人は生まれたその日から「悪人」であるともいえるのです。

そして同時に、Nothing goes to waste. 自然界では、無駄になる命など何一つないのです。

※オイフォリーの傾向(脳内麻薬の分泌)が若干強いのかもしれませんが、健康的で美しいバランスに心地よさを抱くのです。

 

ときどき瞑想してストレス発散しているのですが、若き頃は自力本願、実力で世の中を成功の対岸まで渡り切れると信じて疑わなかったこともあったように記憶していますが、今はそうは思いません。

幸せの青い鳥は身の回りにいつも一緒にいたと思うようになりました。

それでもなお、人生には思いがけない苦難に満ち溢れています。

救済について、トーマス・マンやドストエフスキーや遠藤周作を通して正面切って考えてみたりもしました。

でも、今でも迷い続けているのですが、自力ではどうにもなりませんでした。

※(いずれ時が熟したら可能な限りぶっちゃけて、怨み言のオンパレードでもそれでも、救いとはどういうものか、その影らしきものについて書くことができればいいなと思います。)

 

私の菩提寺は浄土宗という縁もあり、知恩院へもお参りしました。

知恩院の麓に親鸞聖人と夫人が暮らしたと伝わる庵もあります。

早来迎の仏画が有名ですね、弥陀の本願をいち早くかなえるという願いが込められたものですが、大きくて美しいです。

如来より賜りし信心を誰もが持っていると、法然も親鸞もそこはまったく同じ見解(悪人正機も善人正機も私の解釈では究極の本質部分ではあまり違わないと思います!)のようです。

 

比叡山へもお参りしました。

不滅の法灯によって1200年間たえず一隅を照らし続けてこられたありがたい寺院です。

朝早い時間だったのですが、靄の中車を降りてみると、生きたモグラがいました。

何これ、かわいいと思いました。

 

「歎異抄」について、五木寛之さんの現代語訳(原文も巻末に掲載♪)が文庫本で手に入るので、お薦めです。

 

 

参考までに過去の記事(かなり「とんがって」ましたね、でも本心です)をリンクしておきます。

 

 

 

 

 

※無神論と信心のはざまでもがいているのが多くの場合なのだと思います。

 

 

 

人生いいこともやなことも、いずれも必ず起こります。

また現象としては同じであっても受け止める心境次第で善悪は揺らぎます。

時がたてば人の脳ミソは好ましいことも嫌なことも忘れていくようにできています、きわめてすぐれた装置であります。

そこを瞋恚(=怒りや恨み)が蒸し返して苦しめるのも自分自身、気持ちの良い側面に光を当てるのも自分自身、まさに自由意志なのです。

我執はどんなにもがいてもなくならなけど、心静かにみつめることができれば、欲もまた満ち足りた心を呼び覚ます契機であるのではないかと感じる次第です。

鳥のさえずり、犬との戯れ、ビールの爽快さ、これ以上何が不足なのだろうか?

 

夢はアリューシャンへ行ってみたいけど、沖縄で満足できそうです。

アフリカサバンナへ行ってみたいけど、富士サファリパークもめちゃくちゃ楽しいです。

 

双極性障害という現象、、、
統合失調症
アスペルガー
PTSD
認知(痴呆)症
排泄(排便嘔吐などなど)障害の後始末は匂いが大変で苦痛です。
書きたいことを垂れ流して野放図に書きっぱなしにはしたくないのですが、心を清潔に保つには毒を吐き出すことも時として必要です。

 

衛生面のメンテナンスはローコストで持続可能でなければならないのです。

清潔であることについて思うところがあります。

私が思う清潔さとは、美そのものなのですが、大海原、サバンナ、ジャングル、田園風景、清流、広葉樹などです。

金儲けも不潔とは思いません。

収拾がつかなくなるのでここらで筆を止めます。