ゴッホのお墓はフランスの田舎町オーベールにあります。
アムステルダムのゴッホ美術館で彼の病状に焦点をあてた特別展、「狂気の境界線」on-the-verge-of-insanity、が行われているようです。
リンク
https://www.vangoghmuseum.nl/en/stories/on-the-verge-of-insanity
ゴッホの絵は美しい。
どうしても相模原の狂乱殺戮についてひとこと申し上げたい。
知的障害者とその家族が、懸命に治療や職業訓練に取り組み、生命を輝かせていた。
それがなぜ、意味不明な屁理屈で絶たれなければならなかったのか?
俺は涙を流した。
恨みや妬みから発した行為による結果に、人の社会はあまりにも無力だ。
挫折は改善やさらには成長に向けた軌道修正のための薬にもなるが、精神を傷つける。
人が嫌がる行為によって目立とうとする心理もわかるけど、許容できるのは合法的な活動の範囲に限られるはずだ。
市中引き回しのうえ磔獄門というのは、冤罪もあっただろうし、それでも時代はそれを求めた。
そして、責任能力はあるにきまっているから、くそ野牢のオナニーにとことんつきあうみたいでしゃくだが、最大のペナルティ以外に考えられない。
政治も現金給付みたいなまったく効果のないばらまきが簡単に決まってしまい、さらに増額までしてしまう世の中、どこまで落ちれば目が覚めるのか、本気で不人気だけど避けて通れない構造改革を実施しろよ。
でも、こうして世の中に不満をため込んでる俺自身も、あのキチ害と何が違うのだろう、親鸞聖人は、人は誰でも状況次第で、親鸞聖人でさえも、いかなる悪人にでもなるものだと喝破されている。
スタンフォード監獄実験で証明された人格理論もある意味このことなのかな。
幼稚であることは、新たな発想を生む成長の可能性でもあるが、無垢に他人を傷つける。
明るい日差しが恵みであると同時にすべてを乾燥しつくしてしまう膨大なエネルギーでもある。
今この瞬間をひとつひとつ大切に、いささかでも命を無駄にしないように、命に感謝していたい。
せめてできるのは、静かに瞑想し祈ることぐらいだ。

若き日にLA(アメリカ合衆国カリフォルニア州)のゲッティセンターで観たヴァン・ゴッホのアイリスである。
今夜、この絵や新宿の損保ジャパン美術館のひまわりを気軽に見学できることって幸せだと思うし、豊かなことだとつくづく思うのだ。
はっきりいってバブルの力で手に入れた物だけど、おなじあぶく銭の使い道としては、見事なものだと思う。
どうでもいいことだけど、明日、晴れるといいな、隅田川の花火、今年は雨天順延はなし、俺は選挙には雨降ったって行くけど、花火大会は中止になってしまう。
※予報では快晴 ☼