【 3/2(土) 】
娘の4月からの就職先が大阪と決まりましたので、急ぎ引っ越し先を決めるべく、
数十年ぶりに本町に出現。
子供との待ち合わせまでの合間に靭公園まで行って見る。
ワンコイン弁当をおばちゃんから買って食べたことがあります。
岡なんとかビル(笑)も健在でした。
この日は急いで引っ越し先を決めました。これで荷物の送り先決定。
 
 
【 3/24(日) 】
子供は22日、奥さんは23日に既に長崎入りしていて私は24日の夜に到着予定。
朝一に名古屋を出て新幹線で小倉まで。
前から行きたかった門司港に立ち寄ってから行くことにします。
向こう岸の税関の建物をスマホで望遠で撮ったが異国みたいで
いい雰囲気でした。
名物の「焼きカレー」を食して満足しました。
 
 
【 3/25(月)-26(火) 】
25日はひたすら引っ越しの荷造りをし、
26日に引っ越し業者が来てマンションを引き払いました。
これで長崎はまた遠いだけの町になりましたが、
子供が4年間お世話になった町なので感慨もひとしおです。
長崎駅から撮った長崎らしい写真。左がNHK長崎放送局、右が三菱城下町らしく三菱電機の看板、
その下がバスターミナル(バスで博多とかに行けます)、その上の小高い山には住居が立ち並びます。
 
最寄り電停 ーー市電ーー 長崎駅前、長崎駅 ーー「かもめ」ーー 
武雄温泉 ーー「リレーかもめ」ーー 博多 ーー地下鉄ーー 
福岡空港 ーーSFJ68便ーー セントレア ーーミュースカイ
 ・・ 結構な乗り換え行程、親子3人での移動は私的には結構楽しかった。
 

最初は、妻とのコミュニケーションツールとして始めた「LINE バブル2」。

 

もはや中毒になっていますが、その「LINE バブル2」が年末より、「進撃の巨人」とコラボ中。

 

 

リヴァイ兵士長のデフォルメキャラを見ているとコミックの本編を読みたくなってきた。

 

まんが・コミックを読むのが非常に好きで、昔はよくまんが喫茶に入り浸っていたが、

最近はもっぱら電子コミックを使うことが多くなった。

 

実は「進撃の巨人」も電子コミックの発売にあわせ、毎巻購入して読んでいたのだが、

 

 

当時はまだ仕事が超忙しく、追い詰められた精神状態では、落ち着いて読む余裕がなかったこともあって、第20巻で挫折していた。何しろこの作品、設定が難しく、ストーリも突然過去の話が織り交ざったりして、理解力が減衰している状態では、ついていけなかった。

 

例えば、第10巻。

とても唐突に、ライナーが変なことを言い出す。「俺が鎧の巨人でベルトルトが大型巨人」だと。そして唐突に巨人に変身する。

今読み返すとついていけるのだが、当時はえ?、え?という感じだった。

 

例えば、第20巻

エレンのお父さんが巨人に何らかの関わり合いがあることは、なんとなくわかっていたが、王家を手にかけて自分が巨人に?エレンも子供の時に巨人にされていた?よく理解できない。

 

・・と、ここで購読をいったんやめてしまったわけです。

 

今回読む気になったので、再度1巻から読み直し、残り21~最終巻まで購入し読み切りました。

ちなみに”進撃の巨人”ってエレンが変身する、意思を持った巨人の一人の名前なのね。今さらだが理解した。

 

 

何とも悲しいエンディングで、始祖の巨人(か?)になったエレンの姿は禍々しく、木の下のエンディングは、ちょっと原作デビルマンのラストイメージと重なってしまった。あちらは完全な終末だけど、こちらは争いを繰り返した後の描写。共通点は空虚だな。

 

ただ、1回読み終えただけでは、まだ理解できていないという自覚がある。

たぶんもう2回ぐらい読み返すことになりそうだ。

 
 
 

⑤ 「風と雲と虹と」

大河ドラマで初回から最終回まで視聴した最初の作品が「風と雲と虹と」であった。平将門が主人公で、大河ドラマで取り扱った中で一番古い時代らしい。
 
大河ドラマというのは主人公の一生を描くのが通常で、平将門も平将門の乱で討たれるまでを描いている。主人公が最後、矢で射抜かれて終わり、というのは当時の中一にすれば
トラウマものであったが、最終回で最初は将門は兜をかぶって、敵陣深く猛攻をかけている。敵将の俵藤太も恐れおののくのであるが、流れ矢が当たるシーンでは、なぜか将門さん、射抜いて下さいとばかりに兜を脱いでいるのである。兜被ってりゃよかったのに・・
というのが当時の感想であった。
 
で、鎌倉殿の13人に戻るのだけど、畠山重忠の乱で、義時と重忠が一騎打ちするシーン。もちろん史実ではないのだが、ここで両者とも馬上でまず兜を放り投げ、義時が重忠に組付き馬から落ち、取っ組み合いとなるわけである。
 
ここで思ったわけですが、中世の鎧兜は白兵戦では邪魔になるくらい重いのだろう。将門も義時も、信長や家康の時代よりはるかに大きい兜を被っており、将門さんも敵陣に攻め込み、ここが勝機と思い重い兜を脱いでしまった、という流れだすると、あの「風と雲と虹と」の最終回、将門のいでたちが唐突に変わったのが妙に合点がいった。
 
たぶん、そういうことなんだろう。
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⑥ 「太平記」
義時の死後、義時の家系は”得宗家”と呼ばれ執権職を世襲で続け、鎌倉幕府の実権を握っていくことになる。
 
鎌倉末期、これも面白かった大河ドラマであるが、「太平記」の時代で、主人公は足利尊氏。時の暗愚な執権、北条高時を片岡鶴太郎が怪演している。
 
鎌倉初期、源頼朝は朝廷とは一線を画す武家による政権を鎌倉に作った。ここで日本の政治は、未完成ながら二重構造になった。北条義時は、将軍家が実朝の暗殺で途絶えた後、京より貴族を迎える形で傀儡化し、執権として幕府内の実権を握った。さらに承久の乱によって朝廷は権威はあるが権力は武家政権であることを明確にした。ここでは政治が三重構造になった。
 
鎌倉末期はさらにさらに、得宗家は代々執権職を継承していくが、そのうち傀儡化されていき、御内人と呼ばれる執権のこれまた家来が鎌倉の実権を握っている時代になった。劇中では長崎円喜が源氏の足利尊氏親子を恫喝するなど権力をふるっている描写がある。四重構造である。
 
出る杭は打たれる、で時の権力者は陰で暗躍したいのかもしれない。
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⑦ 北条義時
北条義時は後鳥羽上皇を流罪にするなど史上初、朝廷を裁いた人であり不忠の者とされることが多いが、後世の勝海舟は義時を「不忠の名を甘んじて受け入れ、国家のために尽くした」と評価している。
幕末という時代、幕府や徳川家より国家が大事と考えていたからと思われ、自分も義時に笑われないように事に当たったということである。
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周回遅れの書きかけの記事がいくつかあるので、休みの間に書けるものは書いてしまおう。

 

1年の周回遅れである。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」をみて色々、思い込みで考えてみた。

 

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① 源平合戦

正しくは「治承・寿永の乱」。

劇中では、石橋山の合戦ぐらいから壇ノ浦の合戦まで。

ちなみに改めて、源姓の武士 対 平姓の武士の単純な戦いではない。なにしろ頼朝さんの戦力は坂東八平氏とかの”平”姓の武士を中心とした集団。これは頼朝さんのお父さんが敗北した平治の乱なんかでも同じで、源姓の武将が平清盛側にいたりした。この源平の平は平清盛一門である”平家”であって平氏ではない、ということを再認識。

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② 頼朝さん、蒲殿を問い詰める
富士のタカ狩りで頼朝さんの死亡説が!弟の範頼が担がれ次の鎌倉殿、となったが、頼朝さんは生存していて、範頼は謀反の疑いがかけられてしまいます。範頼は申し開きをしますが、大江殿に手紙の最後に”源範頼”と署名したことを「源氏を名乗ってよいのは鎌倉殿とお世継ぎのみ!!」と糾弾されてしまうシーンがありました。はぁ、これでなんかわかった気がしました。北条政子は
なぜ”北条”政子なのか・・
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③ 北条政子
学校の歴史の教科書では、源頼朝の妻の北条政子と紹介される。父の北条時政と弟の北条義時が源氏将軍にとって代わり政治の実権を握る、という説明があり、少ない説明から父や弟と結託して実子である将軍を〇したあげくに源氏の政権を乗っ取った、イメージがある人物です。ずっと思っていたのが、源頼朝の奥さんなのに、なぜ北条政子なんだろう?です。父や弟と同じ北条姓を名乗るがためにすごい悪女に思えてしまい事実日本の三悪女に数えられたりします。が先ほどの鎌倉殿とお世継ぎのみしか”みなもとの”を名乗れないのであれば、政子さんは政子さん。
中世の高貴な女性は○○の方と呼ばれ、○○に実家の名が入ることもありました。りく(宮沢りえ)も牧の方と呼ばれていますので、政子さんも正しくは”北条の方”だったのではないかと思います。北条家から嫁いできたお方様、ということで、”北条政子”というのは現代人が便宜上表現しているだけの話ではないかと思ったりしました。ちなみに吾妻鏡の中には、3代将軍実朝の死後、次の将軍を帝に近しい人物を招いて継続を図るがミトラ様が幼いため政子が4代将軍になろうしている記述があり「平朝臣政子」と書かれているようだ。昔は夫婦別姓だったということですな。
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④ ”の”
が多くて恐縮だが、”の”である。
劇中で義時が13人の評議衆を集めて頼家に報告するシーン。
「~~、かじわら"の"かげとき(梶原景時)殿、並びに、えま"の"よしとき(江間義時)。以上13名、云々」
苗字と名前の間に”の”が入る。
よく言われる本姓、帝から賜った姓はカバネと組合わせて平朝臣(たいらのあそん)とか源朝臣(みなもとのあそん)と呼ばれるものになる。
”北条”は北条という土地に住む平氏さんであって、いわゆるこの「苗字」には"の"をつけないものと思っていた。
 
織田信長は、おだのぶなが、
豊臣秀吉は、とよとみ の ひでよし
 
と思っていたのであるが(ドラマも時代考証をちゃんとやっていると思うし)、ネットで調べても、実はこの辺はビシッと決まっているわけではなく平安時代から鎌倉時代のあたりでは、苗字にも"の"をつけるのはあり、だったかも、ということである。へぇー。
           <続く>
 

この一年の4大出来事。

 

①前年1年間の町内会長からの解放

②定年

③息子の大学進学

④娘の就職内定

 

この4つに限りますな。このうち①~③は2月~3月に集中した。

これら集中した3つの出来事は、思いがけず私の精神衛生上に変化をもたらした。ありていに言うとどっと気が抜けたのである。この一年、無気力ではないものの億劫なことが増えている状況から脱出できていない。

 

4月以降、

 

同じ職場で引き続き働いている。が、客先に出向いたり、電話・メールの応対は控えている。若手にやらせないとキリがないからである。

 

仕事はしているが、ほぼ定時に帰宅する。タカシマヤが営業している時間に名古屋駅を通るようになったから、時々、デパ地下で買い物をする。これは今まで見なかった世界でデパ地下が楽しいことはそれなりに感動した。PAOPAOの肉まんがお気に入りだ。嫁のほうが帰りが遅いので、帰宅次第、洗い物、風呂の掃除、米を炊く、洗濯を取り込み、たいていNHKのニュース7を見ながら洗濯物をたたむ。息子の洗濯物の量がやたら多い。ここまでは日常のルーチン仕事になってしまった。

 

土日は家でダラダラしている。テレビのお気に入りは、地元の番組で、土曜日のぐっさん家と日曜日のタイチサンだ。ぐっさんが時々近所に現れたり、国分太一も円頓寺を徘徊したりしている。もうひとつ、土日では無いが水曜日の夕方中京テレビでスギちゃんが東海地方の喫茶店でモーニングをはしごしているコーナをよく見ている。

 

鉄道模型の運転会は、前日の準備から出られるようになり(仕事に追いつめられているときは土曜日も職場にほとんど行っていたので)、月一の土日に引き続き参加している。

 

キャンプは2回ほど行ったが、やっぱり気が抜けているので、行くのがおっくうになり止まってしまった。

 

このようにルーチンは回っているものの、色々取り組む気力が大幅にダウンしている1年だった。そういえば当初の予定では、定年後仕事が楽になれば、ギター教室にでも行こうと思っていたのだが、計画倒れ中。

 

完全に周回遅れ状態になってしまったのが、ブログの更新で御覧の通り、筆が進まない状況が続いている。何しろ平日は夜の9時ごろには布団に入りスマホでゲームやらYouTubeやら見ながらそのうち寝てしまうので、家でめっきりパソコンをいじらなくなってしまった。

ブログを更新していないので、いくちゃんから生きとるか~と心配していただく始末で申し訳ありません。

 

そうこうしているうち、娘が就職が決まり、さらにほっとしてしまった。娘と電話中についつい「あぁ、これで思い残すことなくなったなぁ」と言ってしまい我ながら子育て依存が大きかったことに気づく。

下の息子も大学生となり、夜通しカラオケで家に帰らないこともざらになったし、改めて子離れはしておかないかんでしょうなぁ。

 

いくちゃんには「生きてますよー」と返事をしたのだが、9月に入ると10年前に患い、人生初の入院に至った、膵炎が突然再発した。ただ今回は入院ほどでなく投薬で抑えることになった。土曜日の夜中に突然腹痛が起き、さてさて救急車呼ばないかん状況か?、と迷いながら、結局、夜中の夜間窓口にたどり着き、あげくに貰えた薬はロキソニン3錠だけ、という状態だった。本人は急性のイメージで日曜に外来をやってくれていた近所の内科に行くと、医者に言わせると、2回目なのでもはや”急性”ではなく”慢性”ということらしい。「つまりは持病ということですか?」と聞くと「そうです」と返された。いやぁ困ったなぁ。何回やっても結構痛いんですよ、この病気。

これからつきあうことになるのか、、

1か月ほど薬を飲んで血液検査で数値は正常に戻った。「痛くなったらまた来るように」とのことだ。慢性だもの。

 

仕事もいろいろ悩んでいる。還暦を迎えながら”不惑”どころか、すっきりしない毎日だ。友人のタカ〇〇はその辺はえらい。前、円頓寺をぶらついた時に話していたが、定年前にやることを見つけて資格を取ったと言っていた。頑張っているはずだ。

こちらは、定年後は再雇用となり、待遇は悪くない。その点は会社には感謝しているが、本来任務の1つとして、技術の継承が謳われているのだが、相変わらず中堅どころに流出が止まらない。今年も結構人が辞めている。色々原因はありそうだが、会社の組織の立て直しは急務だろう。もう一つの私のミッションである開発の仕事も設計者不足で相方となるメカ設計の人があてがわれない状況だ。社内に開発環境がないのであれば、正直私も会社にいる意味がないと思っているのだが、この状況で私も辞めますわ、と唐突に言うのも管理職の人が気の毒なので、経営者には事あるごとに警報じみたメッセージは残している状況。これで改善されなければ、お暇を考えなければならんだろう。

 

総括すると、完了事案が重なり、仕事でモヤモヤしているため、すっきりしない1年でありました。

巻き返しを図ろう、、、図れるかな、、