周回遅れの書きかけの記事がいくつかあるので、休みの間に書けるものは書いてしまおう。

 

1年の周回遅れである。大河ドラマの「鎌倉殿の13人」をみて色々、思い込みで考えてみた。

 

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① 源平合戦

正しくは「治承・寿永の乱」。

劇中では、石橋山の合戦ぐらいから壇ノ浦の合戦まで。

ちなみに改めて、源姓の武士 対 平姓の武士の単純な戦いではない。なにしろ頼朝さんの戦力は坂東八平氏とかの”平”姓の武士を中心とした集団。これは頼朝さんのお父さんが敗北した平治の乱なんかでも同じで、源姓の武将が平清盛側にいたりした。この源平の平は平清盛一門である”平家”であって平氏ではない、ということを再認識。

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② 頼朝さん、蒲殿を問い詰める
富士のタカ狩りで頼朝さんの死亡説が!弟の範頼が担がれ次の鎌倉殿、となったが、頼朝さんは生存していて、範頼は謀反の疑いがかけられてしまいます。範頼は申し開きをしますが、大江殿に手紙の最後に”源範頼”と署名したことを「源氏を名乗ってよいのは鎌倉殿とお世継ぎのみ!!」と糾弾されてしまうシーンがありました。はぁ、これでなんかわかった気がしました。北条政子は
なぜ”北条”政子なのか・・
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③ 北条政子
学校の歴史の教科書では、源頼朝の妻の北条政子と紹介される。父の北条時政と弟の北条義時が源氏将軍にとって代わり政治の実権を握る、という説明があり、少ない説明から父や弟と結託して実子である将軍を〇したあげくに源氏の政権を乗っ取った、イメージがある人物です。ずっと思っていたのが、源頼朝の奥さんなのに、なぜ北条政子なんだろう?です。父や弟と同じ北条姓を名乗るがためにすごい悪女に思えてしまい事実日本の三悪女に数えられたりします。が先ほどの鎌倉殿とお世継ぎのみしか”みなもとの”を名乗れないのであれば、政子さんは政子さん。
中世の高貴な女性は○○の方と呼ばれ、○○に実家の名が入ることもありました。りく(宮沢りえ)も牧の方と呼ばれていますので、政子さんも正しくは”北条の方”だったのではないかと思います。北条家から嫁いできたお方様、ということで、”北条政子”というのは現代人が便宜上表現しているだけの話ではないかと思ったりしました。ちなみに吾妻鏡の中には、3代将軍実朝の死後、次の将軍を帝に近しい人物を招いて継続を図るがミトラ様が幼いため政子が4代将軍になろうしている記述があり「平朝臣政子」と書かれているようだ。昔は夫婦別姓だったということですな。
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④ ”の”
が多くて恐縮だが、”の”である。
劇中で義時が13人の評議衆を集めて頼家に報告するシーン。
「~~、かじわら"の"かげとき(梶原景時)殿、並びに、えま"の"よしとき(江間義時)。以上13名、云々」
苗字と名前の間に”の”が入る。
よく言われる本姓、帝から賜った姓はカバネと組合わせて平朝臣(たいらのあそん)とか源朝臣(みなもとのあそん)と呼ばれるものになる。
”北条”は北条という土地に住む平氏さんであって、いわゆるこの「苗字」には"の"をつけないものと思っていた。
 
織田信長は、おだのぶなが、
豊臣秀吉は、とよとみ の ひでよし
 
と思っていたのであるが(ドラマも時代考証をちゃんとやっていると思うし)、ネットで調べても、実はこの辺はビシッと決まっているわけではなく平安時代から鎌倉時代のあたりでは、苗字にも"の"をつけるのはあり、だったかも、ということである。へぇー。
           <続く>