尚実の変態ホットライン -4ページ目

尚実の変態ホットライン

ゆりかごという名の孵化器のなか、リハビリ中。

不景気、不景気とニュースが騒いでいると思ったら
わたしたちの業界もかなりの影響を受け、
もう他人事とは言い難いほど実感するまでになってしまった。
そんな日常でわたしが思うのは
Masterのお仕事とお忙しくされているお体のこと。
どうか、Masterのお仕事が無事にうまくいきますように。
Masterのお体に不調がありませんように。


そんな時事の影響をまったく受けないのは
こまったわたしの欲望と自我。
バランスをとるのにいつも必死になっている。
後戻りできないことは十分身を持って知ったから、
ストップをかける毎日。
これがいまのわたしにできる精一杯。
Masterのことを身勝手に思いやること。
そのことだけが、わたしを思いとどまらせる。


もしも、
お忙しいMasterの足元に
いますぐ飛んでいくことができたなら、と思う。
真剣にそれをしようと思えばわたしはやってしまうだろう。
少々のリスクも、あとあと起こる面倒にも盲目になって
きっとやってしまう。わたしはそういう女だ。
いや、そういう女「だった」
でも、Masterはそんなことは望んでいらっしゃらない。
だから、わたしはそいういう部分を捨てた。(ようとしている)
守るべきものがあって、壊してはならないものがある。
もしもMasterがそれをわたしに望むなら
なけなしのものすべてをかけてわたしは従うだろう。


「わきまえる」とは
きっとそういうこと。
自分の欲望の奴隷にならないこと。


だからわたしはせめて
いろんなところに鍵をかけて。
じっと耐えて待っていたい。

バランスを崩すのは簡単だ。壊すのもわたしの場合簡単だ。
でも必ずその先にわたしはそれ相当の救いを求めるだろう。
返ってこなければ、わたしは身勝手に
ひとり、ひどく傷ついてしまうだろう。
そうやって溜まっていったものは
いつか爆発してしまう。
そしてなにもかもをむちゃくちゃに傷つけてしまうだろう。

だからわたしは求められたものだけを差し出す。

ナオミは、ずっと勘違いしてた。

御主人様は、ナオミのことを愛してくれてるって。

わたしはきっと、愛をはき違えていたと思う。

だって 御主人様にわたしを愛して欲しいって

心の奥底で思ってるかも知れないから。


御主人様はずるい。

わたしがいろんなこと諦めてわきまえたら

耳元で わたしはお前を愛している って

甘く甘く囁く。

嬉しくて有頂天になったら

突然目も合わせないで

わたしはお前を愛してなどいない。愛さない。

責めに耐えたからご褒美をくれてやってるだけだって

わたしが泣いて疲れて諦めるまで言い捨てる。


わたしはどうしていいか分からなくなる。


童女のような女

泰葉。
わたしのただいまの注目株。



幸いにして
わたしの周りの男性は口を揃えて
「彼女が嫌い」
だと言う。
彼女の言葉遣いや、エキセントリックなところは
なるほど男性の最も嫌悪するべきものかもしれない。
あんなのが妻であり母であられた日にゃ
男はたまったもんじゃない。
一生懸命外で築き上げた
社会的アイデンテティも揺らぐというもの。



でもわたしは彼女のひたむきさ、必死さ、子供らしさが
とても好きだ。大好きだ。
そして密かにラブコールを送っている。
それを口に出して言うと
みんなはわたしの人間性にまでも「?」という疑問を投げかけるので
心の中でひっそりとファンをしている。




さて、彼女を見るといつも思い出すのが
作家の「岡本かの子」さん。
いつも道化師のようにドきつい化粧を施していた岡本太郎の産みの母である。
なぜ「産みの母」と表現するか。
それは太郎にとって、「かの子は母親であったためしがない」からだ。
そして太郎のすばらしいところは、
自分の「産みの母」が「母性」を持ち合わせていないところを
「それが彼女のすごいところで、素晴らしいところだ」と言ってのけるところ。
かの子が持っていたのは、「母性」ではなく「大母性」だと言ってのけるところ。
岡本太郎を産んだのは岡本かの子という普遍的な大母性だったのだ!




大母性。
かつての母系社会にあって女は太陽だと言われていた時代の母性。
ダイナミズムがすべての源であった頃の母性。
激しい童女であろうとする母性。
大母性は愛の束縛を必要としない。




岡本太郎の太陽の塔は
なにもかもがそんなまっすぐで粗野だった時代の
おおきな愛を表現したのかも知れないな、と想った。




もう一人、忘れてはならない「大母性」
それは中上健次の母「フサ」
気性の荒い母。生きるためになら何をも厭わぬ強さ。
生き抜くためにとる傲慢の神々しさよ。
母系社会にあって、男は「父」になることはなく
永遠の「あに・あいや」であると健次は言った。
「父性」が不在である社会が路地である。


他にも居る。
いまさら言うまでもなく
アレン・ギンズバーグの母「ナオミ」
わたしの名は、そこからMasterがつけてくださった。



わたしがそういうものに惹かれるのは
幼少期の母がやっぱりそうであったからかもしれない。
いま、わたしは「わたしにとっての母性」を
ひとつの生き方として求めているのかもしれない。