海放浪ストーリ、頑張って書き終えます。
海放浪3
海放浪2
海放浪1
の続きです
こうやって書いていくと正直言って思い出せない部分がある。
あの夏はたしか親友だったVちゃん家族と海岸でキャンプしたはずだ。
2部屋もある、とてつもなく大きなテントで
vちゃんのお姉さんとご主人は仕事のために帰って
私たちと幼いvちゃんの甥っ子たち二人、海岸に残った。
子供達を過ごした海辺ははっきり覚えている。
それから
もうひとり親友だったEちゃんと一緒に2週間ほどキャンプしたはずだ。
大学入試に受かって両親からおめでとうとプレゼントされた一人用のテントに
二人で眠ったんだ。。。
ネットで調べてみるとあのサンパウロのショーは1981年の2月中旬だとある。
3月に新学期だったとして計算が合わない。。。
今、考えて多分、海放浪のストーリはあのショーの前に始まったのだと思う。
始まりの記憶はあいまいだが
終わりの記憶ははっきりと覚えている。。。
バスターミナルで目の前に入ってきたバスはサンパウロ市行きだった。
そろそろ帰ろうか。。。そう思った。
正直いって
母が作る3度の日本食
そして
清潔なシーツや布団。
もの凄く懐かしく感じた。
帰ろう。そう決心してバスに乗った。
すでに遅い時間でサンパウロには夜遅く着くだろうともまったく考えなかった。
サンパウロのパスターミナル。
真夜中の11時。
無頓着ですっかり家族が懐かしい気持ちだった私は家へ電話を掛けた。
電話にでた母、『迎えにきてくれる?」と聞いたら
突然叫び始めた。
「あんた、一体誰様だと思っているの?」
無理も無いだろう。長い間電話一本入れてなかったのだから。。。
携帯も無かった頃だ。。。
公衆電話から掛ける電話は怒られるのが分かっていたので避けていた。
父が受話器を奪う。
「何処にいるの?」
「バスターミナル」
「そこからパンアメリカン行きのバスに乗りなさい。パンアメリカン広場まで迎えに行くから」
あの頃のサンパウロ バスターミナルは非常に危険な地域にあった。
停留所はまだ人で一杯だったけれど
待っても待ってもお目当てのバスは来ない。。。
真っ暗な道端、独ぼっちになった。
ヤバいとまたバスターミナルへ戻る。
公衆電話からまた家に電話。
また母が出る。
「バスが来ないよ」
「どうするの?パパはパンアメリカン広場であなたを待っているのよ。
一体あなたって人は。。。ベラベラベラベラ。。。」
まくしあげ続ける。。。
受話器を耳から外しカウントする
1、2、3、4。。。
今思えばなんて強情だったのか。。。。
長い間、認めたくなかったけれど母と私は似た者同士だと思う。
100位まで数えて少し静かになったのを見計らって
言った。
「もういい」
「もういいって何?』
「ここで寝て明日帰る」
そしてがしゃんと電話切った。
はっはー
お見事!
あれだけ臆病風に吹かれていた私が
突然勇敢になった。
あの頃のバスステーションはLuz区域。
窓ガラスが赤、緑、黄色で建物はカニを思わせる趣味の悪いものだった。
おまけに照明はとてつもなく暗い。
第一に雑誌を売る店に寄って訊いた。
『今夜何時に閉めますか?』
『24時間です」
ああ、それなら店の近くに座って夜を過ごそう。。。
大きなリョックを横に置いて寄りかかり寝る用意をする。
そのうちなんか小汚いおっさんが。。。
「ねぇ、君何しているの?」
「眠りたいんですけれど」
「なんで君みたいな子がバスターミナルで寝なきゃならないの?、
ホテルに連れて行ってあげる』
ああメンドクサイ。。。
一生懸命追っ払っていたら
少し離れたイスに座っていた若者達が私の方を見て
笑っているのに気がついた。
おっさんを追っ払うとおいでと手招きする
重たいリュックを担いで近づくと
「ねぇ、君のバス何時?」
「朝まで夜越ししなきゃならないんだ」
「だったら僕らの横に座ったら? 僕らは6時のバスだから安心して休めるよ」
有り難いとまた寝る用意を。。。
すっかり疲れてリュックに頭をよせて
寝ぼけた視界に
突然弟の姿が。。。
ひょろひょろっと背の高い独特な歩き方をする一歳違いの弟。。。。
突然理解した
懐かしかったのは
日本食より清潔な布団より
思い出すかぎりいつも一緒だった一歳違いの弟。。
夢かと思った。
夢じゃ無かった。
迎えにきてくれた。。。
「信じられない。
お姉ちゃんがねバスターミナルで眠るって言った後
ママは思い出せる友達、全部に電話かけたんだよー
そしてまさかあの気違い、
本当にバスターミナルで夜越しするつもりかもって。。。。」
携帯のなかったあの頃。
パンアメリカンに車を止めて待ち続けた父を思うと胸がいたみます。
あれから親になって色々理解しはじめました。。。
弟は
たしかあの頃
日本語を話す時は私のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた。
ブラジルに来て、ポル語を覚え始めて。。。。
大分話せるようになって、それでも二人の間では
ポル語は小っ恥ずかしく日本語を話していた。
それから少しづつポル語になって
名前を呼び捨てになった。
私と弟は一年4ヶ月違い
殆ど赤ん坊の頃から一番大切な友達だった。
それからブラジルに来て
シャイな私と違って
弟は遥かに早くポル語を覚えた。
そしてブラジル文化も。。。
いつも守ってくれた。
いつも新しい環境について教えてくれた。
思春期は色々難しかったけれど
弟はいつも一緒で守ってくれた。
思えばあの夏は初めて弟と離れて生きていくを意味していた。
私はリオへ、弟はサンパウロ大学物理部に入学した。
今、考えるをあの「海放流ストーリー」は
あの頃、思っていた理解以上に不可思議が意味があると思う。
私にとって全てを断つ事。。。。
日本から
家族から
そして
一歳の頃から依存していた弟から。。。
そしてクライマックスは迎えにきてくれたあのひょろひょろ姿。。。
彼の存在があまりにもありがたく
そして
離れなくてはならないことを
初めて認識した瞬間でした。
そして失っていくことの尊さも。。
そしてあの夏
私はスーツケース一個で
新しい人生に旅立ちました。。。