“明眸の人” ── 山田五十鈴。 | げたにれの “日日是言語学”

げたにれの “日日是言語学”

やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   げたにれの “日日是言語学”-祇園の姉妹

   “祇園の姉妹”




〓先々日は、午前11時から、午後7時半まで、神保町シアターに詰めて、


   「明眸 (めいぼう) の人 女優・山田五十鈴 (やまだいすず)


という企画上映で、4本の映画を見ました。


「明眸」 というは、「くっきりした瞳」 の義にて、すなわち、“ビジン” の義にも拡大して用いられます。“ビジン” というは、そも、


   「明眸皓歯」 (めいぼう こうし)
     → “瞳くっきり、歯は白い”


という対で使われ、それゆえ、“ビジン” の形容となるわけです。
「眸」 (ぼう) という字は、ふだん、ほとんど目にしません。小説なんぞを読んでいても、「明眸」 の他には、「双眸」 (そうぼう) を見るくらいでしょうか。「両眼」 のペダンチックな表現です。



               カチンコ          カチンコ          カチンコ



〓山田五十鈴さんの本名は、山田美津 (みつ)。13歳になる直前に日活に入社し、「山田五十鈴子」 という芸名を与えられました。これは、


   山田五十鈴


というシャレらしい。説明せねばわかりませんが、現在、「伊勢市」 と言っている土地は、1955年 (昭和30年) に、周辺4村を合併して 「伊勢市」 となるまでは、


   宇治山田市 (うじ やまだし)


と言っていたのです。


〓もちろん、ここには、どちらさまもご存じの 「伊勢神宮」 があります。そして、その内宮 (ないくう) のワキを流れるのが 「五十鈴川」 です。伊勢神宮の内宮を 『古事記』 にて “五十鈴の宮” と呼んだ例があります。


〓そしてですね、伊勢神宮の “内宮” (ないくう) あたりの地名を 「宇治」 と言い、“外宮” (げくう) あたりを 「山田」 と称します。ですから、



   伊勢神宮の門前町は 「山田」



なのです。それゆえ、「山田の五十鈴川」 というシャレが出てくるんです。




   げたにれの “日日是言語学”-伊勢市
    伊勢市周辺の地図。「伊勢神宮」 とある場所が “内宮” である。



   げたにれの “日日是言語学”-伊勢神宮

    伊勢神宮の “内宮=宇治” (赤) と “外宮=山田” (青) の位置関係。クリックすると大きくなります。




〓現在、JR および近鉄が乗り入れる 「伊勢市駅」 という駅も、もともとは、


   山田駅


という名称で、宇治山田市が伊勢市に改称された4年後に、現称に改名されました。近鉄では、ほとんど離れていない場所に、隣接する 「宇治山田駅」 があります。すなわち、かつて、この区間は 「山田駅」―「宇治山田駅」 という並びでありました。


「五十鈴」 という地名の由来は不明です。「伊勢」 という地名については、「磯」 (いそ) の転訛ではないか、という説がありますが、古い日本語には、



   いせ 【 五十瀬 】 多くの瀬。 『後撰和歌集』 (10世紀)
   やそせ 【 八十瀬 】 多くの瀬。 『万葉集』 他 (7~11世紀)



という用例があります。この 「瀬」 と言うは、


   せ 【 瀬 】 川にては流れの速き、また、海にては潮流の速きところにて、
                        歩いて渡れるほど、水深の浅い個所を言う。浅瀬とも。



のことです。あるいは、



   せせ、せぜ 【 瀬々 】 多くの瀬。 『万葉集』 他 (7~14世紀)



というコトバもあり、ここから、「いすず」 は 「いせぜ」 の転訛ではないか、という説もあります。


〓ところで、なかには、


   「五十鈴」 は、本来、「いそすず」 と読むのではないかはてなマーク


と言うカタもおられましょう。


〓ところがフシギなことに、「五十」 は、もともと、“い” と読む のであり、“いそ” というのは、“みそ” (三十)、“よそ” (四十) という他の語形からの類推で、のちに “そ” が付いたものと考えられるらしいのです。
〓『万葉集』 などには、“い” という音に 「五十」 を借訓 (しゃっくん) として宛てたものが多数あり、五十が古く “い” であったのは間違いがないようです。


〓なお、「いすゞ自動車」 の “いすゞ” も、その名を 「五十鈴川」 から取ったと言います。



               映画          映画          映画



〓ところで、この 「明眸の人 山田五十鈴」 という回顧上映は、最近の神保町シアターの企画では、かなり当たっている企画のようです。先々日の場合、各回とも60人は客が入っています。

〓この映画館は、5回見ると1回タダになるというサービスがあります。ですから、各回50人の入りとしてみましょう。また、8割の客が学生・シニア料金と見積もると、1日の売り上げは、


   1,000円×160人+1,200円×40人=208,000円


となります。ミニシアターとしては好成績なんではないでしょうか。



〓ところでですね、若いころの山田五十鈴という人が、不思議と美しいことを知ったのは、


   『伊那の勘太郎』 (いなのかんたろう)
        昭和18年 滝沢英輔 (えいすけ) 監督


を見たときでした。これも神保町シアターで見せてもらいました。当時、25歳ごろの山田五十鈴さんは驚くほど美しかった。

〓だいたい、アッシの年だと、年輩になってからの山田五十鈴さんしか知らないのですよ。おばあさんというイメージしかなかった。若いころの山田五十鈴さんは、そうねえ、今の女優の岩崎ひろみさんを “おもなが” にした感じです。モジリアーニの描く女性に、顔の輪郭が似ている。




   げたにれの “日日是言語学”-山田五十鈴



〓先々日は、2本が 成瀬巳喜男 (なるせみきお) で、2本が 川島雄三 (かわしまゆうぞう) でした。それが狙いで来ていたコアな映画ファンもいたかもしれない。しかし、この映画館のよいところは、コアな映画ファンよりも、むしろ、昔を懐かしむジイチャン、バアチャンが多いことなのです。


〓上映中の映画館は、真っ暗だし、誰かれが話をするでもないが、わずかな溜め息とか、笑いとか、あるいは、声にならない熱気のようなもので、


   ジイチャン、バアチャンたちの喜びが伝わってくる


のであります。これがいい。映画が終わったあとで拍手するジイチャン、バアチャンもいる。今どき、映画で拍手するなんて、なかなか、ありません。



〓成瀬巳喜男の作品は、


   『鶴八鶴次郎』   (つるはちつるじろう) 昭和13年
   『芝居道』   (しばいどう) 昭和19年


で、いずれも


   長谷川一夫 ―― 山田五十鈴


という黄金のコンビなのです。『伊那の勘太郎』 でも二人は共演しております。



〓ハナシはズバッとそれますが、


   『勘太郎月夜唄』   (かんたろう つきようた)  三日月



というと、今のワケエシはどれくらい知っているんだろうか? こいつは 『伊那の勘太郎』 の挿入歌として大ヒットしました。(昭和18年のことであるのを忘れるなかれ)



   げたにれの “日日是言語学”-小畑実


〓歌うは 「小畑実」 (おばた みのる)。1979年 (昭和54年) に亡くなっていますが、昔は、TVで、


   ♪ 影か や~な~ぁぎ~ぃか かんた~ろさ~んか~ ♪


という歌声をよく聴きました。伊那の勘太郎は、水戸の勤皇 (きんのう) の志士 「天狗党」 の面々が落ち延びるのを助けるため、道案内として故郷の伊那に帰ってくるのです。だから、「あっ、あれは、影なのか、柳なのか、はたまた、勘太郎さんなのか?」 と言うんですよ。


〓こういうふうに書くと、ナンか実話に基づいているようですが、実は、まったくの架空のキャラなんです。こいつは、三船敏郎の 『無法松の一生』 でヴェネツィアの金獅子を獲った


   稲垣浩 (いながき ひろし) 監督のアダ名 “イナカン”


から逆成した名前なんだそうです。




〓ええ、ハナシを戻しますると、成瀬巳喜男監督の2本は、いずれも、芸道を扱った興味深い映画でした。後年の “人生の深みに分け入っていく” 成瀬巳喜男とは違う、軽みのある、肩の張らない映画でした。




   げたにれの “日日是言語学”-鶴八鶴次郎
    左=鶴次郎 (長谷川一夫)、右=鶴八 (山田五十鈴)




『鶴八鶴次郎』 は昭和13年の作。新内 (しんない) の太夫 (たゆう=語り手) が 長谷川一夫の 「鶴賀鶴次郎」 で、三味線が山田五十鈴の 「鶴賀鶴八」 です。“鶴賀” というのは、新内節 (しんないぶし) の屋号の1つですね。
〓映画を見たヒトは、


   「新内」「義太夫」 に似ている


と思うかもしれません。落語の 『寝床』 などに出てくる語り物です。あるいは、『掛取万歳』 (かけとりまんざい) などという落語で聴いたヒトがいるかもしれない。文楽 (人形浄瑠璃) で使われているのも義太夫節だし、歌舞伎でも、役者がセリフをしゃべらず、義太夫節に乗せて演技するという演出もあります。


〓「新内」 と 「義太夫」 が似ているのもムベなるかなで、こりゃ、どちらも 「浄瑠璃」 (じょうるり) の一種なのです。三味線に乗せて太夫が語る、という形式ですね。あれは、歌っているのではありません。節を付けて語っている、のです。

〓のちに、新内は、三味線の弾き語りで、ひとりで夜の町を流す、というような形式も生まれ、これが、「新内の流し」 ですね。「ギターの流し」 などというのは、この延長上にあるわけです。



〓また、『鶴八鶴次郎』 という映画は、当時の “寄席” (よせ) がどんなものであったかが描かれていて興味深いのですよ。また、“寄席” に対する “名人会” というものの在り方も描かれていて、落語の歴史を目の当たりにした気分です。
〓寄席の出し物に “新内” (しんない) があって、客が聞き惚れているのも面白い。今の寄席とはまったくの別物だし、当時の寄席の客というのが、今の日本人とまったく違う 「リテラシー」 (芸を理解する力) を持っていたことがわかります。


〓そういえば、昭和20~30年あたりの落語のライヴ音源を聴いていると、今の子どもたちなら 「?」 が10個くらい浮かびそうなクスグリで、あの当時の子どもたちはゲラゲラ笑っているのが確認できます。


〓映画に出てくる寄席の時計は9時近くを指していました。今の寄席なら、とっくに終演の時間です。昔の寄席は、ひとっ町内に一軒ずつあり、近所の人が “夕飯後” に、暇つぶしに見に行くものだった、と聞いています。確かに、それに相違ないようです。場末の寄席だと、ステテコ姿のオッサンなんぞが、ウチワでパタパタやりながら見ている。寄席が家の近所ならば、10時になろうが11時になろうが、帰って寝るだけだから問題ないわけです……




〓『芝居道』 のほうは、昭和19年5月11日に封切られています。映画の冒頭に、いきなり、


   
   げたにれの “日日是言語学”-撃ちてし止まむ



と出てきます。『古事記』 から引用した太平洋戦争中のスローガンです。期せずして、そういう時代の映画なんだ、ということが予告されるのです。


〓この昭和19年の映画は、舞台を明治時代に移し、明治26年から始まります。翌27年から日清戦争が始まります。映画のテーマは二重になっていて、「歌舞伎の客を “お国のために” 啓蒙する座頭」 というのが、まず、あります。まさに、昭和19年の時流に乗ったテーマで、今、見ていてもうなずけるものではありません。


〓“旅順が陥落した” ということで、日本人が、みな、 “提灯行列” で浮かれているときに、座頭が、「こんなときこそ、浮かれていてはいけません」 というようなことを言うんですが、ナンだか目眩 (めまい) がしてきそうです。
〓それと、提灯行列に次ぐ、提灯行列とか、祝いの花火なんぞを見ていると、


   「そうか、昭和20年に敗北するまで、日本人というのは、戦争に勝ったことを、
    ナンの疑問も抱かず、単純に、手放しで喜ぶ民族だったんだ」


ということを、今さらながらに発見し、ボーゼン自失な感じになります。逆に言えば、今でも、この地球上には、「戦争に勝つことを、ナンの疑問も抱かずに、単純に、手放しで喜ぶ国民」 が、少なからずいる、ということになりましょう。
〓戦争に勝ったことを誇るメンタリティ。戦後の日本人は、少なくとも、このメンタリティに疑問を呈するだけの視野の広がりは持ったわけです。



〓こうした時局がらの表テーマの裏に、“芸道” についてのテーマがあります。溝口健二、1939年 (昭和14年) の 『残菊物語』 (ざんぎくものがたり) とまったく同じテーマです。愛する女と引き裂かれ、芸道に励む歌舞伎役者の話です。


〓成瀬巳喜男という人が、どんな気持ちでこの映画を撮ったのか想像も及びません。座頭の芸談にかこつけて、“お国のため礼賛” という表テーマが前面に出ているのは否めません。そうした代償を払った見返りが、インパール作戦のさなか、また、これからサイパン島が玉砕するというときに、


   戦時中とは思えないような巨大な芝居小屋のセットを組んだ映画


を撮ることができたわけです。戦争画を描かなければ、絵の具が配給されなかった画家たちを思い出します。



               カチンコ          カチンコ          カチンコ



川島雄三 (かわしまゆうぞう) 監督の2本は、とても興味深く見ました。アッシは、このヒトの代表作しか見たことがなかった。筋萎縮性側索硬化症 (きんいしゅくせい そくさく こうかしょう) という、今でも難病に指定されている病を得て、45歳で早世した監督です。きのうの2本は、


   『洲崎パラダイス』 の前年の 『愛のお荷物』  (昭和30年)
   『幕末太陽傳』 の翌年の 『暖簾』 (のれん)  (昭和33年)


です。
〓このヒトの根底にあるのは落語です。落語的な人生観です。語り口はぶっきらぼうで、巨匠然としたところがないけれども、見るヒトを幸せにする力があります。ニンゲンへの信頼があります。
〓自分の病を知りながら、それを独り秘めて、ヒトをクスッと笑わせるような映画を撮り続けていました。



   げたにれの “日日是言語学”-暖簾

    『暖簾』  山田五十鈴と森繁久彌


〓特に、『暖簾』 は圧巻でした。昭和9年の室戸台風の描写には特撮まで使っていた。へぇぇぇ、と思いましたがナ。「巨匠」 と身構えたヒトのやることじゃない。


〓冒頭のシークエンスに出てくる 「寺の練り塀」 (ねりべい) のシーンはミゴトでした。これからの話のスケールを象徴するような画でした。中村鴈治郎 (がんじろう) です。居るだけで画になる役者です。
〓こんなふうな寺の練り塀を、別の映画でも見たことがあるなあ、と思い出しました。三隅研次 (みすみ けんじ) 監督の 『女系家族』 (にょけいかぞく) (昭和38年) です。京マチ子さんが、炎天下、異様に湾曲した寺の練り塀の脇を歩いてゆく。あの映画の番頭さんが鴈治郎でした。






  【 山田五十鈴の “聞いてくれはりまふのん” 】



〓『芝居道』 を見ていて気がついたのですが、山田五十鈴さんの大阪弁の発音に、聴いたことのない音を見つけたのです。


〓山田五十鈴さんというヒトは大阪生まれです。旧 大阪市南区千年町、1917年生まれ。ロシア革命の年です。

〓父親は、落ち目になって、食い詰めた新派の女形役者であったため、暮らし向きは良くありませんでした。しかし、芸人の家ゆえ、貧しくとも、俗信に言うとおり、数え6歳 (山田五十鈴は2月生まれなので、満の5歳) の6月6日から、芸ひととおりを仕込まれました。


〓『鶴八鶴治郎』、『芝居道』 でも、そのすばらしさはいかんなく発揮されています。吹き替えなしの 「新内の三味線」、「娘義太夫」。


〓『芝居道』 には、この


   “娘義太夫” (むすめぎだゆう)


なるものが出てきます。山田五十鈴さんが演じる姿がじっくりと見られます。こいつは、さいぜん申し上げました “義太夫” を若い娘が語るのです。
〓本来なら、オッサンが語るものです。そこを、若い娘が、いかめしい 「肩衣」 (かたぎぬ) を付け、仰々しい義太夫の見台 (けんだい) を前に置くという “倒錯的” なナリをし、そこへもって、逆にカンザシなんぞを差すのです。
〓それであまつさえ、その娘が、青筋立てて、オッサンの語るべき義太夫を語るのですから、当時の客は感に耐えて


   「どうする、どうする」 叫び


などという掛け声を掛けました。「こんな耐え難い気持ちにさせて、いったい、どうしてくれるんだ」 という意味です。


〓「娘義太夫」 というのは、映画で描く時代、すなわち、明治の流行ものでした。今で言う 「アイドル歌手」 と同じようなものです。アッシは、もちろん、ハナシにしか聞いたことがありませんでした。それを、再現とは言え、実際の映像で見せてもらったわけです。
〓ははあ、“娘義太夫” とはこのようなものであったか、と。



〓山田五十鈴さんは、大正14年 (1925年)、父親の新派のツテを頼りに、一家揃って上京します。8歳くらいのときです。
〓と、アッシは、山田五十鈴さんの経歴をたどろうというわけではないんです。東京に出て来たのが8歳のときだった、ということです。


〓このように言うたようなものの、アッシは、山田五十鈴さんの大阪弁は、ホンマモンだと感じるんです。というか、これから説明するように、むしろ、ただのネイティヴの大阪弁を超えるものだったのではないか、と思うんです。


〓映画 『芝居道』 で聞かれる不思議な発音というのは、


   ほな、聞いてくれはりま “ふ” のん?


などという場合に現れる “ふ” に聞こえる “す” です。


〓この映画が公開された昭和19年は、山田五十鈴さんが、『浪華悲歌』 (なにわえれじー)、『祇園の姉妹』 で、役者になるという踏ん切りをつけてから8年目の映画です。これだけの女優が、「おやっ」 というような発音をツコてるからには、ワザワザやっていることだと思うんです。


〓アッシは、古い大阪の落語家の音源をけっこう聴いておりますが、この音に気づいたことはありません。たぶん、普通の大阪弁じゃあない、と思うんですね。どうも、調べてみると、京都の発音に準じるものらしい。ところから、これは、船場 (せんば) のコトバなんではないか、と思ったのですが、コイツはネットでも調べがつきませなんだ。


〓京言葉 (きょうことば) では、「どす」、「ます」 に助詞がつながると、「す」 が 「ふ」 になるそうです。それも、 [ hu ] [ ɸu ] (東京の 「フ」) ではなく、


   [ xu ]


だと言うんですね。 [ x ] という子音は、ドイツ語の Bach の ch 音、ロシア語の х の音、スペイン語の j の音です。

〓しかし、アッシが山田五十鈴さんのセリフに聞いたのは、これとも違う音なんです。おそらく、起源は、この [ xu ] だと思うんですが、山田さんは、この次に 「ナ行音」 が来る場合、“ふ” を明瞭に鼻に掛けて発音していたんです。
〓すなわち、 [ xu ] が後続の [ n ] に同化し、なおかつ、“ふ” の響きを与えるために、鼻から息を抜いている、と、そういう音です。IPA (発音記号) で書くとこうなります。


   ~まふの? げたにれの “日日是言語学”-manno


[ n ] の下に付いている [ ˳ ] は、その子音が無声化していることを示します。すなわち、声帯が震えていない、ということです。 [ n ] の位置に舌を付けて、「ンンンンン」 と発音してみてください。そこで、声帯の震えを止めると、鼻から出る 「ふーーーー」 という音だけになります。それが無声化した [ n ] です。


〓たとえば、同じ音を、今、東京に出てきている大阪のお笑い芸人あたりだと、


   何してまんの?


というぐあいに [ n ] 音の重子音になっています。


   ~まんの? [ ~ manno ]


げたにれの “日日是言語学”-n という子音は、ごく珍しいようで、日本語に類音はないし、世界的にも珍しい子音です。とりあえず、ビルマ語にあるようです。


〓「まんの?」 の 「ん」 が


   鼻から息が抜ける [ h ] のような音に響く


ので、 [ ~ mahno ] とも書きたくなりますが、しかし、鼻から出る息は [ h ] でありません。


〓英語で相づちを打つときに、「ンフ」 のような声を出しますが、あれは、IPA (発音記号) で


   h'm, hm, hmm げたにれの “日日是言語学”-mmm


と書き表すことができます。 [ m ] を発音しながら、声帯の震えを止めるのです。


〓また、日本語で、鼻で 「ふん」 とバカにしたりするときの音は、上の逆の、


   フン! げたにれの “日日是言語学”-mm


となります。


〓上の発音は、どちらも唇を閉じていますね。しかし、「~まふの?」 では、唇は開いており、舌が上の歯裏・歯茎に付いて、閉鎖をつくっています。だから、


   ~まふの? げたにれの “日日是言語学”-manno


なのです。


〓何も知らない人が、この発音を聞いたままをカナに写すなら、おおかた、「~まふの」 となるでしょう。


〓今の大阪人が、こういう発音をするのを聞きません。こういう現象というのは、文字に残らないから、文字資料ばかり相手にしていると気がつきませんね……



〓この子音というのは、あんがい、関西弁で、


   「ますの / ですの」 → 「まんの / でんの」
   「ますな / ですな」 → 「まんな / でんな」


という変化、すなわち、


   -su-no → -n-no
   -su-na → -n-na


がどのように起こったかを説明する証拠として重要かもしれません。通例、s n に同化するというのは、言語学的にあまり起こらないことだからです。






〓ということで、山田五十鈴さんのフシギな 「くれはりまふのん?」 という発音のハナシでごわりました。




   げたにれの “日日是言語学”-五十鈴川   五十鈴川