〓日本に生息しているネズミは、
「ネズミ科」 Muridae [ ' ムーリダイ ]
<近代ラテン語> 「ネズミ mus に似たるものたち」
に含まれるものをすべて勘定すると、亜種も数えて 45種ほどになるようです。日本のネズミには、
Mus [ ' ムース ] ハツカネズミ属
Rattus [ ' ラットゥス ] クマネズミ属
の両者が含まれています。「人家や飲食店などに被害をもたらすネズミ」 は、大型のほうの Rattus に属する、クマネズミ Rattus rattus 、 ドブネズミ Rattus norvegicus です。
〓ハナシは、さそくのことにバリッと横にズレますが、 Muridae のタグイの造語を覚えておくと便利なので。
〓近代ラテン語で、科名をつくる語尾に、
-idae [ ~イダイ ] 「に似たるものたち」
があります。本来は、古典ギリシャ語の
εἴδω eídō [ エ ' イドー ]
見る (see)、[ 受け身で ] ~に見える (seem)、~に似る (look like)
という動詞に由来します。この動詞から、
εἶδος éidos [ ' エイドス ] 姿、形、種類、(生物の) 「種」
という名詞ができます。そこから、
(1) -ίδης -idēs [ - ' イデース ] 「~の息子」
(2) -ώδης -ōdēs [ -オ ' オデース ] 「~のような」
(3) -οειδής -oeidēs [ -オエイデ ' エス ] 「~に似ている」
という語尾が生まれています。3番目の 「~オエイデース」 がもとの語形で、2番目の 「オーデース」 が、その音の縮まった語形です。古典ギリシャ語では 「~のような」 という形容詞は、普通、この形を取るようです。
ἱππώδης hippōdēs [ ヒッポ ' オデース ] 「馬のような」
ἀνδρώδης andrōdēs [ アンドロ ' オデース ] 「人間のような」
〓(1) は 「父称」 と呼ばれる 「~の息子」 を意味する “固有名詞” をつくることが多いようです。もっとも音がつづまった語形です。「父称」 をつくるのに 「~に似たもの」 という接尾辞をつかう言語はめずらしい。普通名詞にも例があります。
εὐπατρίδης eupatridēs [ エウパト ' リデース ]
「高貴なる父親の、高貴な家系の」
※ εὐ- eu- [ エウ ] 「良い」 の意の接頭辞。
πατήρ patēr [ パテ ' エル ] 「父親」。
〓これらのギリシャ語の接尾辞を近代ラテン語 (学術ラテン語) は以下のように借用します。
(1) -idēs [ - イデース ] pl. -idae [ - イダイ ] (< -ιδαι )
(2) -ōdēs [ - ' オーデース ] pl. -ōdae [ - ' オーダイ ]
(3) -oīdēs [ - オ ' イーデース ] pl. -oīdae [ - オ ' イーダイ ]
〓「~に似た」 にどれを使うかは、使用者の任意のようです。(3) の -oides は、ラテン語からヨーロッパ各国語に -oid(e) の語形で借用され、「~のような、~質の」 という意味の接尾語につかわれます。
alkaloid 「アルカロイド」。英語
alcaloïde 「アルカロイド」。フランス語
Alkaloid [ アるカろ ' イート ] 「アルカロイド」。ドイツ語。
※ドイツ語が律儀にラテン語のアクセントを守っているのが興味深い。
〓「アンドロイド」 というのは、ギリシャ語の
ἀνήρ anēr [ アネ ' エル ] 「人間」。古典ギリシャ語
※ただし、隠れた語幹は ἀνδρ- andr-。
に、 -oid(e) がついたものです。「人間のようなもの」、「人間の似姿」 の義。
〓「ネズミ」 は、ラテン語で mus 「ムース」 でしたね。ですので、
mūridēs [ ' ムーリデース ] 「ネズミに似た (もの)」
mūridae [ ' ムーリダイ ] 「ネズミに似たものたち」
となります。学名で言う 「科」 family というのは、「~に似たものたち」 という意味なんですね。ですから、その科に属する代表的な種の名前を使うんです。 Mus は、学名としては 「ハツカネズミ属」 を指します。
【 ヨーロッパにいなかった rat 】
〓ヨーロッパで、ニンゲンになじみのあったネズミは、もともと、ハツカネズミ属 Mus が主だったようです。印欧語族の出身地および拡散地でも、クマネズミ属 Rattus と出会うことは少なかった。
〓それは、「クマネズミ属」 が、もともと、東南アジア、中央アジアの固有種であったからなようです。ローマはアジアに拡大するとともに、 Rattus に出会っていたようです。ただし、 Mus と区別する表現をつくらず、
mus maximus [ ' ムース ' マークスィムス ] ひじょうに大きなネズミ
と呼んでいたそうです。
〓 Rattus 「クマネズミ属」 がヨーロッパに深く侵入したのが、いつのことなのか、ハッキリしないようです。6世紀までには中近東 Near East に達していたと言います。
〓英語の rat というコトバは、少なくとも 1000年ころには存在しました。ちょうど、ヨーロッパのど真ん中に 「ドイツ語国家」 である “神聖ローマ帝国” が誕生したころです。
〓おそらく、その後に “高地ドイツ語” (現代ドイツ語の系統の言語) から、南のロマンス諸語に広まっています。
*rattōn [ ラットーン ] ゲルマン祖語
rato, ratta [ ' ラト、 ' ラッタ ] 古期高地ドイツ語。女性名詞
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ratto [ ' ラット ] イタリア語。男性名詞
rata [ ' ラータ ] スペイン語。女性名詞。1100年ごろ初出
ratón [ ラ ' トン ] mouse の意。男性名詞。17世紀初出
rato [ ' ラットゥ ] ポルトガル語。男性名詞。14世紀初出
※ポルトガル語は、 mouse と rat を区別せずに rato という。
rata は 「雌ネズミ」。 ratão [ ラ ' タォん ] は 「大ネズミ」。1813年。
“種” ではなく、大きさを言うにすぎない。
rat [ ' は ] フランス語。男性名詞。1175年初出
rate [ ' はット ] 雌の rat。女性名詞
raton [ は ' トん ] 子ネズミ。男性名詞。1265年初出
souris [ スゥ ' リ ] フランス語。mouse
〓スペイン語、フランス語ともに12世紀に登場しています。ポルトガル語では 14世紀。
〓興味深いのは、ドイツ語の語形と文法上の姓で、ロマンス語が混乱していることです。イタリア語、ポルトガル語が -o で終わる語形を採用し、男性名詞としたのに対し、スペイン語は -a で終わる語形を採って、女性名詞としています。
〓もう1つ興味深いのは、ロマンス語では、 -on は 「指大辞」 といって “大きなもの” を指すにもかかわらず、
ratón スペイン語。 mouse の意
raton フランス語。子ネズミ
となっていることです。つまり、「指大辞」 が付いているのに、“小さいもの” を言い表している。この語形は、ゲルマン祖語形に由来するものでしょうが、“大きなネズミ” をすでに rat, rata と言っているので、「大きさが逆転してしまった」 のかもしれません。
〓スペイン語は、 rat - mouse の対を rata - ratón としましたが、ポルトガル語は、この区別を 「立て損なって」 しまいました。 rat, mouse ともに rato と言います。
〓上のことからわかるのは、北ヨーロッパのゲルマン語圏では、ワリと早くから rat - mouse の区別が立てられていたのに対し、南ヨーロッパのロマンス語圏では、12世紀に入ってから、だということです。
〓これには2通りの解釈が成り立ちます。
(1) 12世紀まで、南ヨーロッパには rat がいなかった。
(2) 12世紀まで、南ヨーロッパでは rat を区別するコトバを持たなかった。
〓チョイと、ロマンス語ではないギリシャ語を見てみましょう。
μῦς mȳs [ ' ミュース ] mouse。古典ギリシャ語
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ποντικός pondikos [ ポンディ ' コス ] mouse, rat。現代ギリシャ語
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ποντίκι pondíki [ ポン ' ディキ ] mouse。現代ギリシャ語
αρουραίος aruréos [ アルゥ ' レオス ] rat。現代ギリシャ語
〓 ποντικός 「ポンディコス」 というのは “文語的” な単語です。本来は、形容詞で、
「黒海の、黒海における、黒海から来た」
という意味です。もとの語形と意味は、
μῦς ποντικός mȳs pontikós [ ' ミュース ポンティ ' コス ]
「黒海のネズミ」=「オコジョ」 (ermine)
だったようです。古典語の μῦς mȳs 「ミュース」 が “筋肉” という意味に転じてしまったために、「オコジョ」 なんぞの、それも、形容詞のほうを引っぱってきました。
〓「ポンディコス」 は “純正語” で、 mouse, rat の区別をしないようです。
〓民衆語では ποντίκι pondiki 「ポンディキ」 で mouse を意味します。中性の -ι で終わる民衆語の語彙は、もとは、古典語の -ιον -ion 「イオン」 という 「指小辞」 の付いた 「小さいもの」 をあらわす語彙の -ον -on が脱落したものです。
〓つまり、「ポンディキ」 は、「小さいポンディコス」、つまり、“小さいネズミ” という義です。
〓 rat を指す αρουραίος aruréos [ アルゥ ' レオス ] は、
μῦς ἀρουραῖος mȳs aruráios [ ' ミュース アルゥ ' ライオス ]
「畑のネズミ」
の μῦς mȳs を略したもので、「畑の(ネズミ)」、「野の(ネズミ)」 という意味です。
〓これらの単語の使用され始めた時期がわかれば、かなり面白いことになる、と思ったんですが、そういう資料がどこを探してもないんですね。残念。
〓そこで、一転してトルコ語に注目してみます。トルコ語の 「ネズミ」 は、ちょうど、ヨーロッパと逆になるんです。
sıçan [ ス ' チャン ] rat。現代トルコ語
fare [ ' ファーレ ] mouse。現代トルコ語
〓ヨーロッパと何が逆かというと、 rat にあたる 「スチャン」 が本来のトルコ語彙で、 mouse にあたる 「ファーレ」 がアラビア語 فارة fāra [ ' ファーラ ] からの借用語です。つまり、トルコ民族は、モンゴル高原を出て中央アジアを横断し、小アジアに出て、初めて、「ハツカネズミ」 と 「アラビア語」 に接した、ということになりそうです。
〓チュルク人が、もとから rat をよく知っていたことは、次のような言語の rat に当たる単語を並べるだけで、容易にわかります。
siçan [ スィ ' チャン? ] アゼルバイジャン語
sıçan [ ス ' チャン? ] クリミア・タタール語
sıçan [ ス ' チャン? ] ガガウズ語
syçan [ ス ' チャン? ] トルクメン語
сычан [ ス ' チャン? ] タタール語
сысҡан [ スス ' カン? ] バシキール語
чичхан [ チチ ' ハン? ] カラチャイ=バルカル語
чычкъан [ チュチ ' カン? ] クムィク語
чычкан [ チュチ ' カン? ] キルギス語
тышқан [ トゥシ ' カン? ] カザフ語
tıshqan [ トゥシ ' カン? ] カラカルパーク語
sichqon [ スィチ ' コン? ] ウズベク語
چاشقان chashqan [ チャシ ' カン? ] ウイグル語
чычкан [ チュチ ' カン? ] アルタイ語
кутуйах [ クトゥ ' ヤッフ? ] ヤクート語
күске [ クス ' ケ? ] トゥヴァ語
кӱске [ クス ' ケ? ] ハカース語
〓どうです、このミゴトなこと。トルコ語は、その拡大した領域の広さに比べて、驚くほど統一性を保っている、と言われますが、ゲにその通りです。
〓とうも、今日はきれいにまとまりませんでした。でも、要は、
かつてのヨーロッパには mouse しかおらず
ゲルマン人の住むあたりまで rat が侵入したのは、たかだか 10世紀ころであり、南ヨーロッパの人々が、 rat を “コトバで認識した” のは、
スペインで 12世紀の初め、
フランスで 12世紀の後半、
ポルトガルでは 14世紀
ということです。いずれ、インドや東南アジア、極東への航路は、まだ、開かれておらず、おそらく、地続きに広がっていったものでしょう。
〓これは、クマネズミ black rat Rattus rattus のハナシで、ドブネズミ brown rat Rattus norvegicus の場合は、さらに時代が下って 18世紀の前半から中頃にかけて入ってきているようです。
〓従来のハツカネズミも、保存用の種子や穀物に被害をもたらしていたんでしょうが、あとからやってきた、色のドス黒くて、体のでかいネズミは、ヨーロッパ人に相当なショックを与えたんではないでしょうか。
〓そんなことで、ゲルマン語地域では 11世紀ごろから、南のロマンス語地域では 12世紀ごろから、
新参者の rat を mouse と区別して呼ぶ習慣が定着した
ということになりますね。ヨーロッパのほとんどの言語では、日本語の “ネズミ” のように rat と mouse をまとめて呼ぶ単語を欠いているのが普通です。