福岡陸軍墓地


終戦の日 福岡護国神社に参拝しに行くのに 天神南から七隈線で六本松下車して歩いていると 福岡陸軍墓地入り口の石碑が旧九大敷地の道角に目についた。
この交差点は高校時代 今は教師となっている友人と自転車でビニ本屋に行く途中 すれ違った綺麗な女子大生に 二人して見とれてしまい自転車が絡みあい転倒 その女子大生が口を手にクスクスと笑われた 作ったような青春ドラマの1シーンを演じてしまった場所なのでよく覚えているのだけれど この「福岡陸軍墓地入り口の石碑」はおそらくその当時からあったのであろうけれど今まで気が付かなかった。専属モデルがあなたの好きそうなものがあると指をさされてはじめてその存在を知った。
護国神社とは90度ばかり外れる方向ではあったのだが時間もあるので脚を伸ばすことに。
このあたりは福岡でも高級住宅街 大きな屋敷を見ながら小高いちょっとした山が道の先に見え そこにあるのだろうと 3~4百メートル直進し入り口を探す。
名称が「谷公園」となっているのに不思議さを感じながら階段を登ると 巨大な墓石が立ち並ぶ「陸軍墓地」がそこにあった。
この墓地に関する説明を防衛省所管の社団法人である福岡県郷友連盟のHPを引用する。
福岡県郷友連盟のHP
当陸軍墓地は、明治の初期には3段の地形になっていました。2段目には、日清、日露戦役の戦没者の墓が集まっていました。日露戦役で捕虜となり病死したロシア人、第1次大戦で青島で捕虜となり福岡に送られ病死した2名のドイツ人もこの地に葬られました。
昭和6年の満州事変以降、戦死者が増加するにつれ、陸軍墓地の改修が行われました。当時の第24聯隊長であった櫻井徳太郎少将が、勤労奉仕の学生、一般市民とともにこの改修を推進しました。
その後、昭和10年から逐次、『日清戦役戦病没者之墓』(森部静夫少将碑文)、『日露戦役戦病没者之墓』(林銑十郎大将碑文)、『青島及西比利亜戦役戦病没者之墓』(西川虎次郎中将碑文)、『殉職将兵合葬之墓』(第24聯隊長上村利道大佐碑文)、『満州及上海事変戦病没者之墓』(中牟田辰六少将)、『支那事変戦病没者之墓』(長瀬武平中将)、昭和57年に『大東亜戦争戦没者之碑』が関係諸団体により建立されました。
墓地後方左側に『ガ島戦没者之墓』(昭和49年)、『拉孟雲南地区(ビルマ)戦没者之墓』(昭和59年)が戦友会、遺族会によって建立されました。
後方中央には『満州及上海事変戦病死者合同碑』、『明治維新志士之碑』があり、その近くに個人墓等が10基ほどあります。
昭和6年の満州事変以降、戦死者が増加するにつれ、陸軍墓地の改修が行われました。当時の第24聯隊長であった櫻井徳太郎少将が、勤労奉仕の学生、一般市民とともにこの改修を推進しました。
その後、昭和10年から逐次、『日清戦役戦病没者之墓』(森部静夫少将碑文)、『日露戦役戦病没者之墓』(林銑十郎大将碑文)、『青島及西比利亜戦役戦病没者之墓』(西川虎次郎中将碑文)、『殉職将兵合葬之墓』(第24聯隊長上村利道大佐碑文)、『満州及上海事変戦病没者之墓』(中牟田辰六少将)、『支那事変戦病没者之墓』(長瀬武平中将)、昭和57年に『大東亜戦争戦没者之碑』が関係諸団体により建立されました。
墓地後方左側に『ガ島戦没者之墓』(昭和49年)、『拉孟雲南地区(ビルマ)戦没者之墓』(昭和59年)が戦友会、遺族会によって建立されました。
後方中央には『満州及上海事変戦病死者合同碑』、『明治維新志士之碑』があり、その近くに個人墓等が10基ほどあります。


この墓石 福岡西方沖地震の時ズレが生じ墓石内部にも大きな被害がでたそうですが 諸官公庁の対応がなく民間の有志の浄財で行われたと碑文にありました。 この墓石群は記念碑ではなく中にはお骨が収められているようで 国難に命を投げ出し捧げた英霊に対し 日本国政府や地方自治体はなんにもしないということなのですね。
増税を國民の為って言われても信じられないですね。
正面の7基に手を合わせ 裏側にある明治維新志士之碑に手を合わせた後 護国神社へ行く事に。
以上
2012/8/19(日)投稿