16)パウロ的人の存在 2004/ 7/20 投稿 1115、1334 | ひょっこりひょう「たいわん」島/(台湾ブログ)

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16)パウロ的人の存在 2004/ 7/20 投稿 1115、1334


親鸞もイエスも古い宗教集団に強い疑問は教祖的要素の一つといえるだろう。後継者の哲学での教義再構築は教祖的側面でもある。

私の宗教体験は小学校に上がる前日曜学校にあり、このときのイエス・キリストの紙芝居からだった。そして小学校入学後 習い事が金光教の教会であった関係で日曜日に祝詞を聞かされることとなる。七五三や初詣、葬式や墓参り 複数の宗教との出会いは必ずあるものとして育つ。

しかし個々の宗教の違いはおぼろげながら感じながら 宗教と教祖を合わせて考えるようになったのは成人になってからである。
その中で宗教に対する違和感は 宗教の意義である「ゆるし」。 「ゆるし」を求めるばかりに 他を排除してしまうという矛盾。「ゆるす」ことは神のみに与えられた力とまでとらえてしまえば ゆるしも特権になり 神を偉大な存在と考える純粋性が ゆるしの許容性を失わせる。
キリスト教は 実にハードルが高く 猫でもまたげそうな親鸞の人間くさい問いかけの方が私には楽である。

マグダラのマリアへのやさしさ、この場面の宗教画から見られるイエスの高貴さ、こんな表現がキリスト教文化であり 親しみという形でなく 「愛」という観念で表現するのもキリスト教世界。
「日本人は魚くったら魚に感謝するけど 西洋人は神に感謝する」
観念化し信仰が楽になるひとと ハードルが高くなるひとがいるのもたしかである。

以上
2006/4/22(土) 投稿