5)革命という名の王殺し 2004/ 5/14投稿
一つの集落は歴史を共有する 祭祀を司るひとの誕生は自然発生であったのだろう。神との絆を強く保つ為専門化し集約された祈りのテクニックは 司祭者が滅したあと 引き続き同じ願いを神にとどけるという発想から、できることなら同じ血を引いたものでと考える作用はあったと考えられる。
よい家畜は良い家畜から 強い稲は強い稲からという 農耕の発想、狩猟採取の再生の発想のどちらからもでてくる。またこれは より良き者をということで 血を分け合ったものの後継者争いにもつながっていった。しかし争う弊害を学んだとき 先例を重視し争うことなく権力と権威を手に入れたものは 徐々に争いの種となる権力を手放すことをによりより安定した権威を手に入れるという手法を採用していった。
権威の継承の形式が確立した存在としてダライラマがある。
民族の血(民族柄)の継承を 特定の家の血ではなく 仏教の輪廻転生の発想から再生を図る方法である。
民族全体が組織的に作り上げていくダライラマは 血の継承に意味をもたず、伝承すべき物のに意味を持つというものなのだ。
同じように「万世一系はDNAの継承ではない」、 天皇のもつ本質の継承もそのようなものなのだ。
輪廻転生は仏教という信仰が根付いたチベットのものであるように 農耕、狩猟採取の再生の国では 神、その再生機能を天皇家で 本質がDNAの継承でなく「天皇」の継承を行ってきたのだ。
歴史の書き換えという虚構を築く為「革命という名の王殺し」が根絶やしを伴うのは 王権の発生を雑草とする史観にある。
以上
2006/3/26(日) 投稿