2)階級史観と天皇 投稿 2004/ 5/ 7
物事を簡単にたとえた言葉には 力強さがあり 引き込まれる。 二元的に違った角度で検証することとあわせてそれに耐えうる そのような言葉は 人生の中で何か引っかかる時に 灯台の光のごとく助ける力を持っている。座右の銘や新約聖書のなかの言葉などもそうだ。なにか引っ掛かる言葉というのも何か貴重な「気付き」を与えられているような気がする。
幸徳秋水の「天はひとの上にひとをつくらず 故に世襲君主・・(なんたら、かんたら)・・」正確な文章は忘れたが自分にとってそんな言葉のひとつと思った時があった。 「神様が世襲君主をつくるわけがない みんな平等である」ということに疑問の余地はなく実に単純な言葉だ。世襲君主の存在を不平等の結果とのみ捉えそれが真であるなら たしかにあってはならないものとなる。しかし これもまた行司の装束など無駄という凝り固まった合理性の表明にすぎなかった。
心の氷解というのはこんな単純な論理で起きてしまう。
階級史観的に農民と君主の関係は 搾取に耐える農民の姿として さまざまな方法で高貴なものと描かれ
農民の魂の尊さを引き出すために君主は存在するのである。
しかしながら実際の王とは 権威を持ってへりくだるものでもある。
貧しさや地位の低さは 卑屈さを生みやすいもので 魂は解放されにくいものですが 王は権力や権威を持ち 貧農の代表である小作人の卑屈さ以上にごう慢さを持ちえ それに気がつかない最上位のものではない。
天皇家という存在は 日本語の体系においても 特別の敬語対象であり ヨチヨチ歩きの子供に「さま」付けと 民主主義の世の中で非合理の典型であり、まさしくそのような体系の中では「ごう慢」そのものである。
しかしながら現実の天皇というものは お会いしたことのある人が口をそろえて感じること それは天皇陛下がおそらく日本国において最高の敬語の遣い手であるということ。
まさに究極の逆転である。魂を平等に保とうとする存在が 不平等の頂点においてなされていることに気がつき そしてものを考えなければならない。
ものの関係を見る場合一方にのみ視点を置いてはならないのだ。
「わたくし心はなく無私」という権威は ひたすら聞くだけの存在であり そこから生み出される 全てのものに「心を寄せる」姿勢 これらのものの総体を「大御心」ととらえこれこそ貴重なものである。
以上
2006/3/23(木) 投稿