
【防長英霊の塔】(沖縄)
今は亡きおじの話は 終戦の半年ぐらい前 富士のふもとのなにがしの隊に入隊しに行く。
10人ぐらい新入りがいたそうで当然整列、入隊迎える上官さんの前に そこで発せられた言葉が 「日本は 戦争にまもなく負けます 死にたくなければ 入隊しなくてもよい 帰りたい奴はすぐに荷物をまとめて 帰りなさい 後の責任は私が持つと」
たちまち逃げ帰った者が3人ほどいたとか 信じられないはなしであるが おじは死ぬまで弱虫とよばれたが 本人は全く恥じた様子はなかった。しかし この上官さん どんな処理をしてくれたのでしょうか 逃亡兵にならないように処理してくれたのであろうか?確かに入隊しに行ったおじが直ぐに帰ってきたことは事実であったとか まあ 逃げ帰らなければ いとこ3人とその子供たちは この世に生を受けていないことは事実。弱虫も運の強さ まあ悪いことではなかったようだ。
そんなことで18、9のおじは 宇部空襲の目撃者となった。使用された爆弾は原爆の模擬爆弾(かなり重量のある 通常兵器としては最大級)のパンプキン爆弾。宇部の石炭液化プラント(宇部は昭和30年代まで 石炭の町で 宇部興産が化学プラントですから)を標的に使用されたとか 話はこうなる 大音響とともに山の上へ上りその光景を見た 化学プラントの爆発は壮絶であったが 恐ろしさを超え 花火など比較できないほど 美しかったと。
以上
2006/3/19(日) 投稿