二宮ひとし「尾道に夢を集めて」 -3ページ目

平清盛と尾道の関係論

平清盛と尾道の関係論

第1点、尾道の創造主は平清盛である。

第2点、尾道は清盛のビジネス魂継承地である。

■「第1点、尾道の創造主は平清盛である」について

港まち尾道の歴史は後白河法皇が嘉応元年(1169年)に大田庄の倉敷地に指定したことに始まるとされています。今年は平成24年(2012年)ですから、港まち尾道は843周年を迎えていることになります。港まち尾道の原点はどんな社会情勢だったのでしょうか。

後白河法皇と平清盛は言わば義理の兄弟であり、日本史始まって以来、初めて武士による政治を創造した車の両輪の関係にあります。そして2人の関係を決定づけた象徴的なパフォーマンスの1つが、後白河法皇への大田庄の寄進です。大田庄を寄進したのは平清盛の五男、平重衡です。尾道市史には重衡が「早く尾道村を倉敷地にしてくれ」と伝えた高野山文書が記載されています。つまり大田庄は清盛の支配下にあり、清盛の思惑で動いたと想像できます。

では後白河法皇はどんな人だったのでしょうか。著書「後白河院」には、春夏秋冬の四季にわたり、昼はひねもす謡い暮らし、夜はよもすがら謡い明かさぬ日はなかったと表現しています。そしてそれほどまでに熱心に謡っていたのは「今様」という謡い方です。当時、流行し始めたナウい謡い方ですから、後白河法皇を現代風に表現すれば、雅なロックンローラーといった感じでしょうか。そののめり方も尋常ではなく、父親の鳥羽法皇すら「天皇の器ではない」と嘆いていたようです。

反対に清盛は日宋貿易の重要性を見抜き、宋からいまの神戸港、福原までの瀬戸内海航路を開発する国家的プロジェクトを強力に推進しており、そのビジネスの先見性は、先ごろ株式上場により16千億円あまりの資産家になったフェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOを超える超一流の経営戦略家だったと思われます。

この2人の人柄を考え合わせれば、尾道の将来性を見抜き、尾道を倉敷地に指定し、瀬戸内海航路の拠点港に組み込む計画の本当の立案者は清盛だったに違いないと思うのです。後白河法皇の威光を利用して陸路の縦軸、船の横軸が交差する交通の要衝、瀬戸内の十字路、尾道の原型を創造したのは平清盛だった言うべきでしょう。

■「第2点、尾道は清盛のビジネス魂継承地である」について

尾道は大田庄の倉敷地に指定され、港まちとしての歴史が始まりました。つまり瀬戸内海を行き来する船が立ち寄る重要港として発展を遂げました。北前船も立ち寄り、尾道に問屋業が発展しています。その頃の問屋業は金融業と境目のないような業態だったようで、問屋を相手に蔵置き商品を担保とする金融業態の一つ、並合業(なみあいぎょう)もありました。尾道と縁の深い旧財閥の住友家は江戸時代の混乱期に止めていた並合業を再開、明治6年ごろには尾道分店を開設しています。そして山陽鉄道が開通した翌年の明治25年に尾道支店に昇格させ、明治285月には有名な尾道会議を開き、住友銀行の設立を決議しています。それ以前には大阪の銀相場をいち早く知り、差額を商いとしていた尾道商人もいます。また銀山街道に象徴されるように、貨幣の原料となる銀も石見銀山から尾道まで運ばれ、尾道港からヨーロッパへと輸出され、世界の銀相場を左右した歴史もあります。こうした史実に基づき振り返ってみると、尾道は金融業の先進地、金融業のメッカであり、物流とともに金利など金融経済を意識するビジネス魂を培ってきたのが尾道商人だったと言えるでしょう。

承知の通り、日本に本格的な貨幣経済をもたらしたのは、平清盛です。当時、アジアの英知を結集した書物「太平御覧(たいへいぎょらん)」を日本に輸入し、アジア統一通貨の可能性さえも読み取り、中国の宋が鋳造していた宋銭の輸入によって貨幣経済の基盤をつくりました。つまり経済大国日本の歴史的基盤整備を行ったのが、平清盛だったと言っても過言ではありません。その証拠となる宋銭は全国各地で埋蔵文化財として発掘されていますが、ここ尾道市内からも大量に出土しているのです。

以上のように尾道の物流と金融業の歴史は、清盛が描いた国際的、経済的総合計画をぴったりと踏襲した歴史になっています。「尾道商人のビジネス魂は世界を見据えた平清盛が海を見ながら抱いたビジネス魂を継承している」と言うべきでしょう。

そして尾道との関係はほかにもあります。後白河法皇とは異母兄弟の近衛天皇の延命を祈って母・美福門院が全国のお寺に奉納した貴重な仏画の一つが尾道に残っています。持光寺の国宝「普賢延命菩薩画像」です。また向島と木曽義仲との関係もあります。日本経済に多大な影響を与えた清盛ですが、尾道との関係もまだまだ深い因縁がありそうです。

参考図書

「平清盛のことがすべてわかる本」(中丸満著、NHK出版)

「後白河院」(五味文彦著、山川出版社)

新修「尾道市史」(尾道市)第1巻

プロフィール

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行政視察報告書松本市議会・多治見市議会

議会運営委員会行政視察報告書


尾道市議会 議会運営委員会 委員 二宮 仁


1、査察期間
  平成23年7月25日から平成23年7月26日まで 2日間


2、視察都市及び視察先
(1) 長野県松本市 松本市議会
(2) 岐阜県多治見市 多治見市議会
  説明 松本市議会は早稲田大学マニフェスト研究所による「議会改革度調査2010」にて総合ランキング1位となっており、今回の視察先に選定された。また多治見市議会も行政改革を積極的に推進中の議会であり、行程途中に位置することから選定された。


3、視察事項
(1)議会改革の取り組みについて
(2)議会運営全般について


4、松本市議会(長野県松本市)
  松本市の概要
 古くは平安時代に信濃国府がおかれ、江戸時代には6万石の松本藩の城下町として繁栄。明治4年に筑摩県となり、松本に県庁がおかれた。同9年に長野県と合併、県庁所在地は長野市に移った。平成22年3月に合併した波田町との合併まで、幾度の合併を経て現在の市域を形成している。電機、機械、食料品などの工業の発展と「商都松本」と呼ばれるほどの商業集積もある。明治初年の開智学校に始まる教育制度を背景に教育を尊重する気風が強いとされている。


  面積 978.77平方km(尾道市の3.44倍)
  人口 242,950人(尾道市の1.65倍)
  一般会計予算額 88,540,000千円(平成23年度当初)
   うち議会費 621,010千円(構成比0.7%)

  議会の概要
  条例定数 31人
  現員数 31人(男性24人 女性7人)
  平均年齢 57.9歳
  党派別 公明党3人、日本共産党2人、民主党1人
      減税日本1人、無所属24人
  委員会構成
   常任委員会(任期1年) 総務員会、教育民生委員会、
               経済環境委員会、建設委員会
   議会運営委員会(任期1年)会派の構成委員数に応じて割り当てを行い選出(原則として会派の代表者は委員)
   特別委員会は平成23年5月17日現在設置していない。


 25日午後1時30分から3時まで、松本市役所東庁舎3階第1委員会室にて、松本市議会の方に対応いただいた。白川延子副議長の歓迎のあいさつ、尾道市議会からのあいさつ等に続いて、早速、本題について松本市議会の宮坂郁生議会運営委員会委員長、小林弘明同副委員長らから資料に基づき丁重な説明を受けた。その後、約40分間、尾道市議会側からの質問にお答えいただく質疑応答となり、活発な意見交換がなされた。また終了後は市議会本会議場を視察させていただいた。


(1)議会改革の取り組みについて
 平成19年8月に議会改革のためのステップアップ検討委員会が設置され、同21年4月30日まで、全41回の委員会を開催。市民の意見募集も含め、議会条例制定に向けた協議が行われた。同21年3月、全会一致で可決、同年4月に施行された。
 こうした流れの中での検討手順、推進組織、制定後の取組事項、情報公開などについて詳しく説明を受けた。特筆すべきは、推進組織で、4部会を設置したこと。政策部会、広報部会、交流部会の3部会がそれぞれの役割分野で企画・立案、運営することとし、その3部会の進行管理をする進行管理部会を別に設置する2段構えの構成となっている。議会条例制定後もこの部会が運営にあたり、政策部会は政策提言のための全議員参加の討論会や議員研修会を実施したり、広報部会は地元ケーブルテレビで60分の議会活動報告番組を担当したり、市内各地での議会報告会の運営などを担当している。また交流部会は各種団体との意見交換会と市民委員15人(公募)による市民交流会議を年4回開催している。


(2)議会運営全般について
 質疑の中でわかったことは、改革の実感を市民から感じ取ることは難しく、市民報告会、市民交流会議の実施で汲み上げる努力が必要だと感じた。その努力がケーブルテレビでの報告番組、議会中継、議会だよりの発行、議会ホームページの充実、市民報告会の開催、市民交流会議の設置・開催などに現われている。特に議会ホームページには全国どこからでも視聴可能な本会議の録画映像があり、平成16年から議会ごと、質問者ごと探しやすい状態で保存されている。


5、多治見市議会(岐阜県多治見市)
  多治見市の概要
 大和朝廷のころから、尾張との交通が容易であったためその勢力圏に含まれ、開拓が進んだ。奈良、平安時代より陶器産国として知られ、日本陶業の中心地となった。江戸時代からの陶磁器産業の発展がめざましく、独自の陶都が形成された。明治22年に町制、昭和15年に市制施行。近隣町村と合併して大陶都建設が進んでいる。


  面積 91.24平方km(尾道市の0.32倍)
  人口 59,602人(尾道市の0.41倍)
  一般会計予算額 32,657,000千円(平成23年度当初)
   うち議会費 384,885千円(構成比1.2%)

  議会の概要
  条例定数 24人
  現員数 24人
  平均年齢 57.45歳
  党派別 自由民主党2人、公明党3人、民主党1人
      日本共産党1人、無所属17人
 委員会構成
  常任委員会(任期1年)総務員会、経済環境教育委員会
             建設委員会、厚生委員会
  議会運営委員会(任期1年)委員数7人で1人会派には委員割当がない
  特別委員会は市民病院、新火葬場建設、駅周辺まちづくり、議会活性化の
  4委員会設置


 26日午前10時から12時まで、多治見市議会委員会室において、多治見市議会の方に対応いただいた。互いのあいさつ後、議会改革を推進した当時の議会基本条例策定特別委員会の主要メンバーだった加納洋一議員、若林正人議員らから早速、議会改革の経緯、概要について資料に基づき丁重な説明を受けた。説明後は尾道市議会側からの質問にお答えいただく質疑応答となり、活発な意見交換がなされた。また終了後は市議会本会議場を視察させていただいた。


(1)議会改革の取り組みについて
 平成11年9月に議会改革推進特別委員会が設置され、議員定数、委員会構成などの見直しを検討、議会変革に向けて始動。一部委員会の行政視察の凍結、政務調査費の使途に関する規定を制定するなど改革を実施、平成14年3月には議員定数を28人から24人に削減している。議会基本条例制定に向けた取り組みは、平成18年10月の特別委員会による行政視察が始動原点。同19年7月に条例策定を目的とした議員政策研究会を議員有志(最終的に21人)により設置している。その後、計18回の研究会で原案を作成、それを引き継いで同21年3月に設置された特別委員会を25回開き、パブリック・コメントの実施や市民説明会を経て、同22年3月定例議会で可決、同年4月に施行している。
こうした経緯、概要などについて詳しく説明を受けた。資料として多治見市議会基本条例の解説冊子をいただいたが、加納議員らは「手作り」を強調された。なるほど内容は条例文自体も平易な文章に努めており、各章ごとにわかりやすい解説が付いている。長い検討期間を経て、市民目線で手作りされた議会基本条例らしく、重要な参考資料と感じた。


(2)議会運営全般について
 平成22年度の「市民との対話集会」の実施資料をいただいた。24人の議員が3グループ(8人ずつ)に分かれて、地区別3会場を担当。火曜日19時から開催の会場には35人、20人の各参加者数、土曜日19時から開催の会場には85人の参加。それぞれの会場で出された意見も付則され、A4一枚の資料ながら貴重な資料をいただいた。開催前に「議会は行政執行機関ではないので、市民からの質問に消化不良の返答しかできないのではないか」と心配したが、大きな混乱はなかったとのこと。また一問一答制も選択制で導入、現在は約3分の2の人が一問一答制の一般質問を行っているとのこと。その様子は後日、多治見市議会ホームページの動画データベースから確認できた。多くの苦労話も拝聴でき、具体的な議会改革へ向けた道のりを示していただけたと感じた。


6、考察
 今回の視察で、議会改革に向けて取り組むべき、道筋が見え始めた。日本一と評価されている松本市議会から設計図をいただいたような安心感を得た。長い蓄積を経て手作りの改革を進めている多治見市議会の基本条例も大いに参考となった。両市議会関係者の方に改めて感謝を申し上げたい。しかし先進の市議会と言えども市民との意見交換の密度など、本当の結実はこれから。議会改革は市民のための改革であり、市議会の形が変わってもその最終目的はまだ先にあると思えた。「かなり置き去りにされている尾道市議会では?」といった杞憂を消し去ることもでき、あせらず「じっくりと市民との対話を繰り返しながら進めるべき」との教訓を得ることもできた。